手招きされるように、緩やかに仁王の意識が持ち上がる。心地良さに従って瞼を押し上げれば、紅葉し始めた木々の向こうに済んだ青空が見えた。そんな視界の端で亜麻色の髪がちらほらと揺れている。何だかんだで三年間、柳生の髪型と眼鏡は変わっていない。勿体ないのう、と心底思いながら寝返りを打つと、起きたことに気が付いたのか柳生が話しかけてきた。
「仁王君、休憩もあと五分で終わりますよ」
「んー」
「ちゃんと水分を取ってくださいね。ただでさえ仁王君は体力がないんですから」
「ブン太よりはあるぜよ。馬鹿にするんじゃなか」
「朝礼で貧血を起こしたのは誰でしたっけ? ほら、ちゃんとカロリーも取って」
かさかさと音がして、唇に押し付けられたのは飴玉だ。近すぎる距離で見えないけれども、薄く唇を開くことで招き入れれば、舌の上にいちごミルクの味が広がる。甘すぎる。次いで渡されたドリンクは口直しと水分補給を兼ねているに違いなく、柳生の思惑通りじゃな、と悪態をつきながらも受け取って喉を潤す。
「時折笑っていましたけれど、いい夢でも見ていたんですか?」
「・・・そうじゃのう。ん、まぁ、悪い夢じゃなか」
「余裕が出てきた証拠ですね。合宿が始まった頃は練習量も多くて、夢を見ないほど眠りも深かったですし」
この勢いで行けるところまで行きたいですね。そう語って柳生はコートを眺める。色とりどりのユニフォームがそこかしこにあり、目指すべき頂点に至るまでは倒さなくてはならない選手がそれこそ山のようにいる。高校生に混ざってどこまで己を発揮できるか。U-17合宿は厳しいけれども、より高い段階を求める自分たちにとっては都合が良かった。昔から仁王も柳生も、自分を高めることには貪欲な性質だからだ。それこそ、出会った時から競い合える存在として互いを求め合うくらいには。
「・・・柳生の誕生日、今年は祝えんのう」
合宿が始まったときから、数日前から、昨日の夜から、朝から今までずっと頭の隅っこにあった考えを漏らせば、今度こそ柳生が振り向いた。寝転んでいる仁王からは角度の問題で、眼鏡の下の瞳が垣間見える。やっぱり色っぽいのう、なんて思っていれば、そんな切れ長の瞳が柔らかくと綻んだ。
「小学校二年生のときは缶ジュース、三年生のときは屋久島、四年生のときは原爆ドーム、五年生のときは瀬戸大橋、六年生のときは太宰府天満宮のポストカードでしたね。一昨年は手袋、去年は地球儀。今年は、仁王君の勝利でいいですよ」
「・・・おまん、俺の今日の入れ替え戦の相手を知ってて言っとるんじゃろうな?」
「三番コートの高校生でしょう? 大丈夫ですよ、仁王君なら必ず勝てます」
「柳生は昔っから、当然の顔して無茶ばかり言うぜよ」
「そして、そんな私のリクエストにことごとく応えてきたのが仁王君でしょう? あなたが最高のエンターテイナーであることを知っていますから、ついわがままになってしまうんです」
「ほんに、わがままな観客じゃ」
くつくつと肩を揺らして笑いながら仁王は身を起こす。ふたりしてラケットを手にして立ち上がる。コートにはちらほらと選手が集まり始め、また練習が再開されるのだろう。厳しいけれども、それもまた良い。共にテニスが出来るだけ行幸だ。
「仕方ないのう。今日の勝利はおまえさんに捧げるぜよ」
「ありがとうございます。最高の試合を期待していますね」
「仁王雅治の本気、見せてやるナリ」
楽しみです、なんて笑う柳生に同じように仁王も唇を吊り上げる。一緒にいられるようになって二年と半年。出会って共にいた小学生のときを含めたとしても、それでも時間を共有しているのは三年と少しだ。フォーメーションを学ぶだけがダブルスではないと知っている。でなかったら、まだ組んで三年の自分たちがこの境地まで辿り着けるわけがない。きっと仁王と柳生は、離れていたからこそ今のダブルスを造り上げることが出来たのだ。何十、何百、何千という手紙とメールで互いを気遣い合ってきた、思い合ってきた、その過程。シンクロなど使わなくても理解し合える、それが仁王雅治と柳生比呂士だ。生涯で最高のプレゼントは、きっとこの出会いに違いない。
「誕生日おめでと、柳生」
時を経て、少年は眼鏡をかけたし、少年は銀髪に変わった。それでも変わらないものもある。ありがとうございます、と柳生があどけなく微笑んだから、仁王も小学生のようにくしゃりと笑った。





中学三年生、秋。
2010年10月23日