30:「これで終わりだ」
何も無い空間。
あるのはただ自分の影のみ。
周囲を見回して、は楽しそうに口元を緩める。
前にも来たことのある場所。
背中には逆様の樹を描いた扉。
正面には太ももから抉り取られたような脚。
「やぁマリちゃん。俺の両足は元気?」
この世の真理に向かって、は軽く手を挙げて笑った。
果てなど無く広がり続ける空間は、人間の小ささを実感させる。
そんな中で顔を合わせた相手に、真理は含み笑いを響かせた。
聞こえるのは高い少女の声。
エドワードにとっての真理は男の影だったらしいが、自分にとっての真理はこの年端もいかない少女らしい。
人によって理も違う。それは当然かもしれない、とは思っていた。
「・・・・・・なぁに? あなた、まだそのコートを着てるの」
見えない指で示されたのは、空間に溶け込んでしまいそうな白のコート。
膝丈までのダブルボタン。少女が着るにはシンプルすぎて、少年が着るには高価すぎるそれ。
指摘されて、は頷く。
「生憎とまだ脱ぐわけにはいかなくてね。似合わない?」
「似合うわ。すごくピッタリ。さすがはスラムで一番の売れっ子なだけあるわね」
「お褒めに預かり光栄だよ」
「汚れた子供に『白』だなんて、ものすごい皮肉だと思うけど」
その言葉には微笑むだけで、言葉は返さなかった。
世界
宇宙
神
全
一
もう一人の自分を、は真理になぞらえて『マリ』と呼んでいた。
女みたいな自分の理を表すのが少女だなんて、そっちの方が皮肉だと思いながら。
「今日は何の用?」
高い声は、まるで昔の自分のようだと思いながら口を開く。
「用はないよ。だから贈り物もないんだ。ゴメンね」
「なぁんだ、残念」
ふてくされたような雰囲気に少し笑って、は宙に浮いているようにしか見えない脚を指差す。
元は自分の身体の一部であった、それを。
「足だけじゃご不満?」
「すっごい不満。あたしはあなたの全部がほしいの」
「そりゃ熱烈な告白だ」
「だから、あの女はいらない」
ピクリと眉を顰める。
少女の声は無邪気に先を続けていく。
「あなたがほしいの。あの女はいらない。この意味、あなたなら分かるよね?」
「さぁ。女性の心理は男には永遠の謎だから」
「ウソ。あなたはあたし。あたしはあなた。だからあなたは、あたしの言ってることが分かってる」
確たる強さで、真理は言った。
「あの女はダメ。いらない。はやく捨てないと」
「・・・・・・マリ」
「でないと、あなたの願いはかなわなくなっちゃう。がんじがらめで動けなくなっちゃう」
「・・・・・・・・・」
「今ごろ何を迷ってるの? また、あたしに言わせたいの?」
可愛らしい少女の声だからこそ、やけに冷ややかな音をまとって。
聞こえてくる諫言には目を閉じる。
瞼の裏に姿が浮かんで。
心の奥に愛しさが募って。
無意識に微笑むに、真理は告げた。
「あなたみたいな身の程知らずが、誰かを好きになっていいわけないでしょ?」
望みを持つだけ苦しむんだから、はやく諦めてしまえばいいのに。
生まれたときから、捨てられた子供だった。
ただの布にくるまれて、錆びれた通りに置き去りにされた。
育てたのは酒の匂いのする大人。
育ったのはやけに綺麗な形をした子供。
当然のごとく、金も力も持っていなくて。
差し出せるものは、その身体だけだった。
生きていくために、必要だった。
だんだんと穢れていく自分を子供は感じて。
もう二度と、光ある場所には戻れないと悟る。
いや、最初からそんな場所にはいなかった。
人生は苦しく、痛みと快楽と涙ばかり。
血と罪と後悔ばかり。
だからこそ、出会えて本当に嬉しかった。
白いコートをいまだに着続けている自分。
足だけをブラブラと揺らして真理を表すマリ。
考えても判らない。ならば、後悔しない方を選びたい。
「・・・・・・マリの言う通りだ」
口元に笑みさえ浮かべて、は言う。
「俺は、俺がこのままリザさんを好きでいることを許せない。望みを手に入れて、叶えなくちゃ」
コートのポケットに両手を入れて、顔を上げてちゃんと笑って。
「そのために俺は罪を犯す。それが俺の、望みだから」
少女めいた顔でマリを見つめる。
その両足はすでに引き換えにして賭したもの。
「こうして会うのはこれで終わりだ。次に会うときは何が欲しいか考えといて」
「あたし、あなたの顔がほしい」
「いいよ、全部あげる」
軽く約束して頷いた。
コートの裾が小さく翻る。
「それで俺の望みが叶うなら、全部あげるよ」
そう言ったの顔に表情はなかった。
自分とマリは、互いに同じ。
どうしようもなく愚かだ、と唇を噛むことしか出来なかった。
2004年2月7日