099:お帰りなさい
今日は昼間にあった試合を見事に勝利で終えて、日生光宏は帰路に着いた。
ホームだったため、試合会場から自宅までは歩いて20分程度の距離。
途中の商店街にある美味しいと評判の洋菓子店で足を止めて。
「すいませーん。ザッハトルテと洋梨のタルト、それとベイクドチーズとミルフィーユを一つずつ」
「あらまぁ、みっくんじゃないの。今日もお疲れ様」
「おかげさまで、どうにか勝てたんでこれで優勝争いにも食い込めますよ」
「応援してるわよ!これはオマケね、ちゃんにプレゼント」
「ありがとうございます」
ケーキが四つ入った箱と、クッキーの紙袋を受け取って。
そして再び鼻歌を歌いながら家路を急ぐ。
時折向けられる声援や黄色い声に手を振って応えながらも、進む足は止まらない。
そしてその理由を知っている商店街の人々は微笑ましく光宏を見送るのだった。
駅から明るい道で程近く、それでいて商店街からも練習場からも離れていない素晴らしい物件。
そんなところに建っている築8年のマンションに日生光宏は住んでいる。
新築でもなく、かといって高層マンションのように目立つわけでもない、オートロックの2LDK。
サッカー選手として活躍している光宏の自宅としては地味といわれても仕方ないかもしれない。
けれど光宏はそこに住んでいた。結婚して二年目になる、愛しい奥さんと一緒に。
「たっだいまー!」
22歳の社会人とは思えない、まるで小学生のような挨拶をして帰ってくる夫に、リビングから出てきた妻は苦笑した。
「お帰りなさい、光宏」
「ただいま、」
照れもせずにキスを一つ。そのまま柔らかな頬をくっつけて。
「これ、お土産。ヘンゼルのケーキ」
はここのケーキが好きだろ、と微笑む光宏にも笑って。
「ありがとう。お風呂沸かしてあるから入ってきたら?」
「今日の夕飯って何?」
「吹き寄せ揚げ。青葉と湯葉の煮びたしと、きのこと黄菊のおひたし。それとすまし汁」
「吹き寄せ揚げ大好き。んじゃ風呂入ってくる」
「ごゆっくり」
タオルと着替えはもう準備してあるから、と用意のいい奥さんに光宏は幸せそうに笑って、もう一度キスをした。
今日あった試合のこととか、パート先の定食屋での話をしながら和やかに夕食は進んで。
旦那様はもらったらしいワインを、奥様はソフトドリンクを飲みながら。
食べ終わった後の食器洗いは旦那様の仕事。最近の夫婦は家事もちゃんと二人でやるのです。
長年遠距離恋愛をしていたとは思えないほど自然な距離で、光宏とは生活していた。
それはまるで熟年夫婦のように。
しかしそんな彼らも一応はまだ結婚二年目の夫婦なのである。
・・・・・・・・・そう、一応は。
「あのね、光宏」
「んー?」
大きなソファーに適当な距離を開けて座っている夫を見ながら、は手の中のマグカップを握り締めた。
中に入っているのはコーヒーではなく紅茶である。
慈しむような眼差しで見つめてくる相手に自分も同じように見つめ返して。
「実家に帰りたいんだけど、いい?」
再度言っておくが、彼らはまだ結婚して二年目の夫婦である。
仲が良くてご近所でも商店街でも柏レイソルでも有名な日生光宏&夫婦。
しかしそんな彼らに降って沸いたように現れた妻・の『実家に帰らせて頂きます』宣言。
当然のごとく夫・光宏は硬直した。
グルグルと彼の頭が高速回転をし始める。
何が、何が悪かったんだろう。
ちゃんとサッカー選手として働いてるし、もちろんレギュラーだって確保している。
今日の試合では決勝点となったシュートのアシストもしたし、日本代表だって選ばれている。
収入はそんじょそこらのサラリーマンとは比べ物にならないほど貰っているし。
家族としても家事は出来る限り手伝うようにしているし、買い物だって一緒に行くし、お土産だって買ってくるし。
あぁ、やっはり一年の三分の一近くが遠征で留守にしているのが悪いのかもしれない。
でもそれは仕事柄仕方ないことで。
でもやっぱり寂しくて愛想を尽かされても仕方ない理由になるのかもしれなくて。
サーッと顔色を変える光宏の左薬指で結婚指輪がキラリと光った。
同じ輝きを身につけているはそんな夫に変わらない笑みを浮かべて。
「だってあと一ヶ月もすれば光宏は遠征に出ちゃうでしょ?それなら家に帰ろうかと思って」
「あ、あぁ、そういうこと・・・・・・・・・」
「何を想像したの?」
クスッと笑うは確信犯で、光宏はちょっとだけ恨めしそうに睨みつけて、そして笑った。
再び夫婦の平和が訪れて――――――――――。
「だって一人のときにつわりとか来ちゃったら大変だから」
またしても降ってきた沈黙にはやっぱり笑って。
そしてコーヒーじゃなくて紅茶を一口。
今まで見てきた妻の顔ではなく『母親』の顔をその表情の中に見つけて、光宏は全身が熱を持ち始めるのを感じた。
は本当に嬉しそうに、頬を染めてはにかむ。
「これからは三人で、暮らしていこうね」
果たして何の異論があっただろうか。
喜びで顔を真っ赤にした光宏は、大事そうに、大切そうにそっとを抱きしめるのだった。
2003年9月28日