078:うた
「俺が笑ってるうちに謝れ。そうすれば気分次第で許してやる」
がそう言ったとき、どういう意味なのだろうと首を傾げたことを今更のように思い出した。
ピアノの音が聞こえる。
いつもは至上の音楽を奏でるそれが、今日に限ってやけに暗く響くと不二は思った。
けれどそれはきっとのピアノがどうということではない。むしろ、自分が。
自分の気分が暗く沈んでいるから、だからきっとピアノの音色さえも暗く聞こえてしまうのだ。
不二はそれに気づいて、そっと唇を噛む。どうしよう、心がとても寒い。
指先が小さく震えるのを脳内のどこかで視覚しながら、ひょっとしたら心と身体は繋がっているのかもしれないと考える。
だって、こんなにも体が冷たい。
自分はこのまま死んでしまうのかもしれない。
窓の外では穏やかな日差しが輝いていて、マンションの一室で不二はそんなことを思う。
今ここで死んだら、さんは一生自分のことを覚えていてくれるかもしれない。
唐突に思いついたそれは、ひどく甘美な誘惑をもってして不二の心に堕ちた。
記憶に残れるのならば、それもいい。
険悪な雰囲気を生み出したのは、何気ない不二の一言だった。
穏やかな昼下がり、の仕事も不二の部活もなくて久しぶりに二人きりで過ごすことの出来る日。
それなのに、ふっと口にした言葉が自分たちの間に亀裂をもたらしてしまった。
だって悔しかったのだ。
自分が子供であることが。が大人であることが。
自分の話す言葉はすべてにとっては子供の我侭なのだろう。そう思うと悔しくて堪らなかった。
自分はが好きで、それは愛という言葉に置き換えても良いものだと思っていて。
けれどその言葉は彼に届かない。
時間をかけて育んでいかなければならないのだということは判っている。
だって、自分は彼の恋人でも友人でも何でもないのだ。関係を表すちょうどいい言葉など見つからない。
ただ、自分がに甘えているだけ。その自覚が不二にはあった。
だからこそ言ってはいけない一言だったのだ。
きつく手の平を握り締める。ピアノの音が聞こえる。
・・・・・・・・・・子供であることを、泣きそうになるほどに実感する。
あぁやっぱり。
自分は子供で、は大人だ。
ピアノの音が、聞こえる。
扉にゆっくりと手を寄せて、不二はそっと目を閉じる。
一枚の壁を隔てたところにいる人。その存在は不二を暗闇から救ってくれた。
けれどそれじゃ駄目なのだ。隣に立ちたいと思うのなら自分の足で立ち上がらなくては。
好きだけど、その気持ちは免罪符にはならない。
隣にいたいのなら立ち上がれ。
共に歩きたいのなら追いかけろ。
それだけのことが出来る恋だから。
この恋が、最初で最後の恋になるように。
そのためならいくらでも。
ピアノの音が美しい余韻を残して空間に消えていく。
さぁ始まりだ。準備はオーケー?
扉を開けて、光の中へ、グランドピアノだけが綺麗な光沢をみせている部屋へ。
足を踏み入れて、その目を見つめて。
惚れた弱みだけではない端整な顔立ちに緊張しないといったら嘘になる。
だって、自分は彼が好きなのだ。
「おせぇんだよ、バーカ」
相変わらずの口の悪さに不二は笑った。
・・・・・・この人が、好きだ。
2003年9月8日