059:唇から愛
最後の一人を殴り飛ばして、千石清純はようやく拳を解いた。
グローブを嵌めていたから良いものの、もし素手だったら今は皮が剥けて血が流れていたことだろう。
切れた口の端を指で擦って思わず顔を歪め、そしてもう一度床に転がる男たちを見下ろす。
その目は酷く冷ややかで、何も映してはいない。
限界を超えた怒りは時として静謐へと姿を変える。
今の彼が、まさにそうだった。
「―――――千石」
後ろからかけられた声に、何も言わずに視線を移す。
自分と同じ白い学ラン。染み付いた返り血は目立って見えた。
今はそれすらも不快にしか思えない。
「帰んぞ。に報告しねぇとウルサイからな」
「・・・・・・・・・亜久津、先に帰ってて」
「あぁ?」
片眉を上げた相手を視界から排除して。
気絶して転がる男たち。まだ、殴り足りない。
無意識に足が動いて、近くにあった腕に体重をかける。
意識のない男の顔が歪んだ。
これくらいじゃ、足りない。
歪んだシルバーのフレーム。
粉々に砕かれたレンズ。
傷ついた白皙の顔。
怒りが脳内を真っ赤に染める。
絶 対 に 許 す も の か 。
「・・・・・・・・・ここから先はの仕事だ」
「―――――知ってるよ」
「だったら」
「亜久津は許せんの?」
『山吹の覇者』統治下の区域で起こった諍い。
それは組織『氷帝』と組織『不動峰』の生徒たちが起こしたもので。
本来ならばには―――――『山吹の覇者』には関係のないものだった。
彼らの中の誰かが、組織『山吹』の生徒を巻き込むまでは。
彼らの中の誰かが、刃物を取り出すまでは。
たとえ違う組織の生徒といえど、にとっては『守るべき存在』。
迷わずに立ち塞がった。
鈍い光を帯びた刃物が白の制服を切り裂いて。
紅く、染まる。
けれど彼は守りきった。
――――――――――自分の負うべき責ではないのに。
きつく手を握り締める。
グローブ越しのそれは、ここにいる奴らを殴ったときよりも痛みを感じて。
でも彼は、きっとこれ以上に痛かった。
力になれない自分が悔しい。
こんなに近くにいるのに、それなのに頼ってもらえない。
自分は彼の部下なのに。
それを、こんなにも自負しているのに。
自分はの親友で、それは確かに本当で。
自分は『山吹の覇者』の駒で、それも確かに本当で。
それなのに、それなのに。
一人ですべてを片付けてしまうに、時として激しい怒りを覚える。
同時に、言い切れない悲しみも。
無機質な機械音が静まった場に響いた。
ポケットで着信を知らせる携帯電話。
専属の着メロ。
これを鳴らせることが出来るのは世界でも一人だけ。
血の染み込んだグローブを外して、振動を続けるそれをノロノロと取り出す。
通話ボタンを押そうとして、千石はその手を止めた。
いま声を聴いたら、彼の気持ちも考えずに口汚く罵ってしまいそうで。
が周囲のことをどれだけ大切にしているか知ってる。
今回も彼が『山吹の覇者』でなくても、きっと同じことをしただろう。
そんなが好きだ。
尊敬しているし、友達としても、人間としても好きで、愛している。
とてもとても大切な存在なのに。
それが少しも伝わってないんじゃないかと思って、泣きそうになる。
もう少しだけ、もう少しだけでいいから、自分のことを大切にして。
周囲を守るだけじゃなくて、自分のことも守ってあげて。
きっと自分だけじゃない。ここにいる亜久津も、病院へ付き添った南も、を知るみんながきっとそう思ってる。
この切ない想いを――――――無視しないで。
「・・・・・・・・・・はい」
出ないわけにはいかなくて、千石は緩慢な動作で携帯を耳へと近づける。
支える手が小刻みに揺れた。
機械越しでさえ、涼やかな空気を感じられて。
『――――――キヨ?』
涙が音を立てて零れ落ちるのを、止めることなど出来なかった。
2003年8月13日