008:硝子の境界線





君」
かけられた声に振り向いた。
訪れるのは何回目かになるフットサル場。
バックライトを浴びる背の高い男。
――――――見覚えがある。
「・・・・・・・・・須釜、寿樹」
俺の呟きに目の前の男は唇を緩めて笑った。



失敗した。
ちょっと足を伸ばすなんて気紛れ、起こさなければ良かった。
そうすりゃこの男とも会わないで済んだのに。
「久しぶりですね〜」
笑う男は俺の後をついてくる。
君の学校と僕ら関東選抜が試合したのが先月のことですから、もう一ヶ月は経ってるんですねぇ」
忌々しい事項。俺の中ではとっくに消去されてるのに。
「やっぱり相変わらずサッカー部には入ってないんですか〜?」
「おまえに関係ないだろ」
「そうですか、入ってないんですか〜」
その言い方が癪に障って振り向いた。
自分よりも数段高い身長がさらにムカつく。
コイツと関わる気は一切なくて、邪魔だと言おうとしたそのとき。
奴は、口を開いた。



「関東選抜に入って下さい、君」



握りこんだ拳は、誰を殴るためのものだったのか。



一枚の壁を隔てて俺はこちらにいる。
流れ出る記憶を押しとどめて。
過去の自分に湧き上がる感情を抑えて。
大きく深呼吸して、顔を上げる。



「俺はサッカー選手じゃない」
「はい、それは知ってます」
「フィールドの上でサッカーする気はない」
「それも知ってます」
「第一、関東選抜は弱い。おまえに頼りきって自分で考えもしない奴らとサッカーして堪るか」
「返す言葉もありませんね〜」
「だったら」



噛み締める奥歯。
甦る悔しさの記憶。



「先日、関東選抜のメンバーに空きが出来ました。なんでも急な引越しらしくて」
「・・・・・・・・・」
「新しいメンバーを探してるんですよ。でも、どうせ入れるなら強い選手の方がいい」
「・・・・・・・・・」
「僕が知っている限り、君が一番強い選手です」
「・・・・・・・・・買いかぶりだ」
「君にも自負はあるでしょう?そこらへんの中途半端な人間には負けない、という」
「・・・・・・・・・だったら、何」
「僕は、そんな選手と一緒にサッカーをしたい」
「・・・・・・・・・」
「共に上を目指すにはそんな選手じゃないと駄目だ」



噛み締める唇。
繰り返す祈りの果て。



「さっき君が言ったように、関東選抜は僕がいることで成り立っているチームです」
「・・・・・・・・・」
「だから、僕の決定は誰にも覆せない」
「・・・・・・・・・」
「強いチームに作り変えるのも、弱いチームのままでいるのも、全部僕に決定権がある」
「・・・・・・・・・」
「今はまだ頼りない選手たちばかりだけれども、僕と、君がいれば」
「・・・・・・・・・」
「僕と君がいれば、日本一のチームに作り上げることも出来る」
「・・・・・・・・・」



噛み締める想い。
捨てきれない期待。



君さえその気になれば、作ることが出来る思う。―――――上を、見続けることの出来る仲間を」



僕と、君と、あと9人で。



「世界を、目指そう」



譲れない気持ちがあった。
譲りたくない願いがあった。
そのためにサッカーを辞めた。
そのためにフィールドを去った。
すべては。
――――――――――すべては。



今、このときのための今まで。



乾ききった咽が張り付いている。
「・・・・・・・・・須釜」
「はい?」
確かに呼吸をしている。
「・・・・・・・・・フットサルコートは膝に悪い。もう辞めろ」
軽く目を見張った気配と、かすかに笑んだ雰囲気を悟って。
俺は、顔を、上げる。
案の定、目の前の男は笑っていた。それはとても、嬉しそうに。
君がフィールドに戻ってくれるのなら、何時でも辞めますよ〜」
望みどおりの答えに俺も笑って。



「てめぇが下を向きやがったら俺はすぐさまフィールドを去るからな」
「――――――はい。約束しますよ」



ずっと一緒に、上を目指し続けることを。



泣きそうになって顔を伏せた。
握りこんだ拳は、誰を殴るためのものだったのか。
今となっては必要ない。
硬くなってしまった指を、どうにか解いた。



見上げた須釜はやっぱり楽しそうに笑っていて。



もう一度だけフィールドに立ってみよう。
・・・・・・・・・そう、思った。





2003年8月11日