たとえ彼が明るく笑っていなくても、あからさまにふざけていなくても、それでも自分は。





Real





最初に出会ったときの印象なのか、御柳芭唐にとって猿野天国という人間は『ふざけた生き物』としか映っていなかった。
それは言動や野球に対する姿勢だけでなく、どこか彼の中に危ういバランスを感じたからかもしれない。
作られたかのような表面。それはとても精巧だったけれど、気付いてしまった芭唐の中で道化にしか映らずに。
しかしそのどこかにまるで漂うように彷徨っている己。
もしかしたら自分と似たような人種なのかもしれない、と考えたこともあった。
けれど今は違うと思う。
少なくとも自分はここまで曲がりくねって難解な性格はしていないはずだ。
「なぁ、なんか食べ物とかねーの?」
「そんなんあるか、バーカ」
「使えねーな、おまえ」
浴室からタオルを濡れた頭にかけたままで件の道化が姿を現した。
身に着けているのは先ほど芭唐が用意しておいたスリムジーンズとTシャツ。
お互いの身長差からいってそれは天国には少し大きかった。
筋肉はついているけれど太くない二の腕は袖をヒラヒラと揺らしているし、ジーンズにもたしかに余裕が見える。
細いな、と芭唐は思う。
何を食べて生きてきたのだろうかと不思議に思い、なんとなくテーブルの上にあったパンを放ってやった。
それは本来ならば、明日の自分の朝食になるはずだったのだけれども。
「サンキュ」
彼がとても綺麗に笑うから、まぁいいかと思った。



雨の降る深夜、前触れもなく鳴らされたインターホンを芭唐はベッドの中でまどろみながら聞いた。
今思い返せば我ながら良く気づいたものだと感心する。
枕もとの携帯電話で時間を確認すれば、まだ明け方の四時。
いくら新聞配達員でもこんな時間にチャイムを鳴らしたりはしないだろう。というかそれ以前に芭唐は新聞を購読していなかったし。
チャイムは一度だけ鳴って、そしてすぐに沈黙に変わった。
その静けさがいやに耳について。
結局、芭唐は気だるそうに身を起こして冷たいフローリングの床へと足を下ろした。
捻ったドアノブも冷たかった気がする。
けれどそんな意識も意外な来訪者によって眠気とともに一瞬のうちに消え去ってしまった。
猿野、天国。
先の練習試合で一度しか会ったことのない相手がそこにいたのである。



「あと三十分もしたら出てくからさ、それまでいさせてくれねぇ?」
勝手にキッチンを漁ってコーヒーを入れながら天国は言った。
ミルクも砂糖も入れずに、真っ黒に近い琥珀色が香りと共に芭唐の意識に入り込む。
今はまだ飲みたくないな、と思った。
夜も覚めきっていない、まだ一日の始まりさえも始まっていない、こんな時間には。
「五時?」
「そ。その時間なら家に帰ってメシ食って、それでも朝練に間に合うし」
「朝練?」
「おまえ寝ぼけてんのか? 俺は一応野球部なんだけど?」
言われて、芭唐はあぁ、と納得した。
彼が野球部に所属していることを忘れていたわけではない。ましてや寝ぼけていたわけでも。
先日あった練習試合では、彼は自分の学校のエースである主将からあわよくばホームラン的なフライさえ打ったのである。
あの人がボールを前に飛ばされるのは数えるくらいしか見たことがない。
だから良く覚えていた。
コイツは自分と同じスラッガーなのだ、と。
「出んの? 朝練」
聞き返してしまったのは忘れていたからではない。ただ、あまりに不釣合いだと思ったから。
夜を纏う今の彼に、そんなものは欠片も見出せなかったから。
だから、自然と意識が跳ね除けていた。
彼はもともと、こちらの世界の住人なのではないのだ、と。
陽の光よりも闇の煌きの方が似合うから、つい。
けれど彼は不敵に笑う。
「当たり前だろ?」
月に良く映える、美しい笑みで。



夏の朝、五時にもなれば通りは朝日で明るく照らされ、車の音も聞こえるようになる。
雨が上がったからか、少しだけひんやりとした夜明け。
そんな中、天国は着ていた服を芭唐からもらったビニール袋に詰めて靴を履く。
濡れたそれはキュキュッと耳障りな音を立てて。
けれど天国は楽しそうに笑った。
「じゃーな、また会おうぜ」
「もう二度と来んな」
「ヒッデー」
やはり楽しそうに声をあげて笑うから、芭唐はなんとなく悔しくなってその左腕を捕まえた。
少しだけ強く握ると、天国が眉を顰めて振り返る。
奇妙なことにそれが嬉しかった。
彼の素顔に近い顔が、覗けたかもしれないから。
「なぁ、なんで俺んとこ来た?」
きっと彼ならば一度会っただけの自分ではなくて、もっと他に会いに行っても邪険にされない相手がいるだろうに。
それこそ深夜でも明け方でも関係なく、携帯を一つ鳴らせば来てくれる人はいるだろうに。
たとえばそれは芭唐にとって因縁の深いピッチャーだったり。
けれど彼が来たのはその誰でもない、自分の家だった。
親しいとは言えないだろう、自分の元へ。
「さぁ? どうしてだろうな」
「はぐらかすんじゃねーよ」
「んじゃ、気に入ってたから。これで満足?」
「全然」
力を込めて、握っていた左腕を引き寄せた。そしてそのまま唇を重ねる。
きっと自分のこの行動も彼の予想範囲内なのだろう。
そう考えると少し悔しい気もしたが、判っていて逃げなかった彼に気をよくもした。
柔らかな唇と熱い舌が触れる。歯を立てれば微かな笑い声が漏れて、それさえも気持ちが良かった。
夏の明け方、玄関先。麻薬のような快感に溢れる蜜。
束の間でも溺れるには十分だった。
唇を離して、天国は笑う。
「次はちゃんとしたメシも用意しといてくれよ」
そう言って出て行った。眩しい光の中へと。



カーテンを乱暴に開ければ階下で天国が朝日を浴びているのが見える。
その姿はさっきからは想像も出来ないほどに綺麗だった。
夜の闇ではなく、朝の光の中でも美しく。
眩しすぎる輝きに芭唐は目を細める。
それを見計らったかのようなタイミングで振り返った天国。
緩やかにあげられた口角は、いまだ夜の顔をしていて。
「・・・・・・・・・わかんねー奴」
そう悪態をつく芭唐の顔はとても楽しそうで、天国と同じ顔をしていた。
夏の暑さは好きじゃないけれど、今のこの熱は気持ちがいい。
「今日は俺も朝練に出てみっかな」
眠気をスッキリ振り払った頭で芭唐は笑った。



明け方にやって来ては夜の顔を見せ、陽の光と共に昼の顔を見せる。
どちらにせよ、彼が彼であることは変わらない。
「それだけで十分っしょ?」





今日も彼は深夜にドアをノックする。





2003年4月30日