070:ベネチアングラス





ダダダダダダダダダダダダダダダッ
誰がどう聞いても全速力で走っていますという音を遠くに聞きながら、猿野は沢松と話していた。
時は放課後、今日は部活もなくて早い帰りである。
報道部のミーティングがあった沢松を待っていたので少し遅くなってしまったが、野球部で慣れている二人にはとても早い時間であった。
時計の針はまだ5時を指していない。
久しぶりのほのぼのとした時間をどう過ごそうかと話していたが、それはすぐに破棄された。
高速の足音がだんだんと近づいてきて、猿野がタックルを食らって地面に沈んだのである。
それもタックルが日常と化している兎丸にではなく、とても意外な人物に。
司馬葵に、タックルをされたのだ。



「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜しいぃぃぃぃぃぃぃぃぃばあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
グラウンドとキスをしながら猿野が犯人の名前を叫ぶ。
けれど沢松は珍しい光景に目を瞬かせていて、張本人の司馬はというと無反応。
「っんだテメェ! ケンカ売ってんのか!? 買うぞコラ!!」
ガバァッと身を起こした猿野は司馬の襟首を引っつかんで、ヤクザの兄ちゃんよろしく睨みつけた。
そしてようやくおかしなことに気づく。
司馬が、耳まで真っ赤にして震えているということに。



猿野は動物に弱かった。それも小動物には特に、だ。
だから会うたびにタックルを仕掛けてくる兎丸も邪険に出来ないし、猪里や鹿目などにも何となく優しく接してしまう。(本人たちには言えないが)
そして現在目の前にいる司馬は、その体格に見合わず馬は馬でもバンビのようであって。
小動物好きの猿野が甘くならないはずがない。
ため息を一つついて、とりあえず上半身を起こした。
「おい、司馬。どーした?」
怒りを納めて尋ねるが、司馬はいまだ真っ赤な顔で震えていて。
猿野は沢松と一緒に首をかしげる。
「おいおい、どーした葵チャン。何か怖いことでもあったのか?」
ご近所の翼くん(5歳児)に聞くように質問するが、司馬はフルフルと首を振る。
「怖いものではない。ってことは何だぁ?」
猿野が再度尋ねるが、司馬はやはり真っ赤な顔のままで、けれど今度は無意識に手を動かした。
その長く形の整った指で、緩慢に自分の唇を押さえる。
そしてさらに真っ赤になった。
――――――しかしその動作だけで判る者には判ってしまうというもの。
「・・・・・・はぁん、そういうことか」
沢松が一人立ったままで口元を緩めて笑った。
親友にアイコンタクトを送ると、小さな笑みとともに同じ答えが返ってきて。
これはもう決まり。
心底楽しそうに、そして人の悪い笑みを浮かべて猿野は聞いた。



「司馬ぁ、気持ちよかったか? ―――――――――さんのク・チ・ビ・ル!」



司馬は今までとは比べ物にならないくらい真っ赤になって。
それを見て猿野と沢松は噴出して。
笑い声がグラウンドに響く。
そして混乱した司馬にどつかれて猿野が再び地面とキスをするまで、あと3分。
沢松は相も変わらず爆笑していた。



「あー・・・じゃあ何か? つまりは不慮の事故だった、と?」
コクコクと司馬がいまだ真っ赤な顔で勢いよくうなずく。
グラウンドでもあるそこに、三人して制服のまま座り込んで。下校途中の生徒が不思議そうな目を向けて横切っていく。
けれど今はそんなものも関係ない。・・・・・・・・・正確に言えば関係ないどころか司馬には見えてもいなかった。
「今日は彼女と一緒に日直で?」
コクコク
「放課後に社会科資料室の整理を頼まれて、片づけをしていた?」
コクコク
「棚の上に積み上げられていた本が落ちてきて、彼女を庇った?」
コクコク
「そしたらぶつかった拍子にバランスが崩れて、お互いの唇が触れてしまって?」
コクコク(真っ赤)
「で、何も言えずに逃げてきた、と?」
・・・・・・・・・・・コクリ



「「35点」」



何がなんだか判らないが、とりあえず厳しい評価に司馬はうなだれた。
猿野と沢松は尚も追い討ちをかけるようにコメントを続ける。
「まぁ想いを寄せる彼女とキスが出来た。これは事故だったとしてもポイントは高いから、85点」
「でもその後が問題だろ。彼女を置いて逃げるっていうのはなぁ」
「それはむしろ彼女がする行動なんじゃねぇの? マイナス30点」
「『ゴメン』の一言でも言っときゃ良かったのに。そうすれば印象もそう悪くはならなかったのにな」
「明日おまえ、彼女の顔見て挨拶できるか?」
フルフルフルフルフルフルフルフルフルフルフルフル
「「マイナス20点」」
ガクリ
これで計35点(100点満点中)
司馬葵、留年決定。



カラスでもブラックホールでも呼び寄せることが出来そうな闇を背負って、司馬がうなだれる。
十二支高校は一気に魔界の中心となって。
どうしようか、と考えをめぐらせた猿野と沢松は一瞬にしてその行動を放棄した。
昇降口からこちらへと向かってくるセーラー服を視界に入れて、そして二人は立ち上がる。
つられて顔を上げた司馬にそろってウィンクをして。
「じゃ、あとは頑張れよ」
「補習次第でステップアップできるかもしれないしな」
楽しそうな笑顔に首をかしげて、問いかけようとした司馬の口が微妙な形で止まった。



「・・・・・・司馬君」



後ろからかけられた、大好きな少女の声によって。



ピタッと瞬間冷凍された司馬を笑って、猿野は少女へと片手を振る。
それに少女は笑顔のまま一つ小さくうなずいて。
これで役目は終わり。邪魔者は退散するのみ。
馬に蹴られる前に猿野と沢松は逃げ出した。
うしろから向けられる困惑と哀願の視線は気になったけれど、それ以上に楽しさで笑い出しそうなのを堪えながら。
あの司馬がちゃんと謝れるのか、またはあの少女が唐突でなおかつ計算された行動にでてさらに司馬を惑わせるのか。
どちらにしても面白い。
これは明日にでもまた司馬の話を聞くしかないな、なんて思いながら。



司馬葵が恋愛留年するか否かは一人の少女に託されている。





2003年1月18日