068:蝉の死骸





独特の喧騒は暑さとともに過ぎ去って。
思い出が一つ増えた。
そして終わる、夏。



「もう夏も終わりっすね」
夏休みもあと数日を残すある日、天国は空を見上げて呟いた。
青く、眩しい、目に痛い空。
それももう終わり。
「先輩はこれから予備校通いでしょう? 頑張って下さいね」
「別に、言われなくてもやるのだ」
「そうっすね」
自分よりも数歩先を歩く天国を見ずに鹿目は答えた。
視線はつま先に降ろしたまま、アスファルトを見つめて。
「鹿目先輩はどういう系に進むんですか? 理系っぽくはないし、文系?」
「経済学部なのだ」
「じゃあ目指すは一つですね」
カラリと明るく笑って超有名大学の名前を挙げる。
もはやブランドとしても名高い学校の名を。
鹿目は思わず眉を顰めた。
「どうせなら上を目指す方がいいですよ。学歴はあって邪魔になることはない」
天国はやっぱり空を見つめて。
「それにそこに入れば六大学野球でエースも張れるでしょうし。いいんじゃないすか?」
「スポーツ推薦組がいるのだ」
「そんなヤツラに負けるアンタじゃないでしょう? それとも辞めるんですか、野球」
「・・・・・・・・・・」
返されない、答え。
唇を噛み締める沈黙。
天国は肩をすくめた。
「ま、鹿目先輩のことだし先輩自身の好きにしたら?」
突き放すように笑う天国に鹿目はきつく手を握り締めて。
マメを何度も潰して固くなった掌。
それは、誇り。
「・・・・・・猿野は、どうするのだ?」
「大学? それとも野球?」
「どっちもなのだ」
顔を上げたらしい鹿目の気配を背中で感じて。
天国は目を細めた。
太陽が、眩しい。
「野球は、辞めますよ。高校の三年間で」
変わらない声で終わりを告げる。
「どうせ不順な動機で始めただけだし、三年もやれば充分」
「・・・猿野ならこのまま上達すればプロからスカウトも来るのだ。それなのに、辞める?」
「入部したばっかのときとは打って変わった評価っすね」
天国は笑う。
「プロになる気はないですよ。そこまで人生を賭けるほど俺は野球が好きじゃない」
甲子園にはもう二度行きたいですけどね、と呟いて。
振り返らずに、空を見つめて。
「大学は・・・そっすね。多分理系に進むんじゃないすか?」
「理系? あんな哲学書を読んでるのに?」
「専門的実習は施設がないと出来ないし。文系は独学でも勉強出来ますから」
「・・・・・・それは猿野くらいなのだ」
「ようはやる気ですよ」
あと才能、と笑って言って。
「東大とかでもいいけど、海外に出ると思いますよ。アメリカとかドイツとか」
「・・・・・・・・・」
「俺はあんまり日本が好きじゃないんで」
「・・・・・・・・・」
「いつかノーベル賞とか取って凱旋しますから、楽しみに待ってて下さいね」
振り向いて、笑う。
可視光線にまぎれた天国に鹿目は顔を歪めて。
近くにいるのに、見えない。
届かない。



夏が、終わる。



二年半後の卒業式を控えた初春、天国が海外へと飛んだと噂で聞いた。
入学試験だけ受けて、合格発表も待たずに。
『どうせ受かってるから興味ない』と言い、卒業証書だけ貰って姿を消した。
誰にも何も言わずに。
親友だけを連れて。
彼は、消えた。



「・・・・・・ノーベル賞を取ってくるのを、楽しみにしてるのだ」
彼らしい行動に思わず笑って。



今年も夏が、来る。





2002年12月21日