部活の後、ジャージから制服へと着替えている最中に携帯電話が鳴った。ドンドンドドドン、という特徴的な着信音はわざわざ手入力で作ったものて、グループ設定をしてあるため相手が誰かは自然と絞られる。ワンコールで切れたから、きっとメールだろう。がさごそとバッグを漁って携帯電話を発掘し、謙也は片手で開いてボタンを操る。そして目を通した文章に、思わず数瞬固まった。
「何や、どうした?」
隣でワイシャツのボタンを留め終えた白石に声をかけられ、はっと我に返る。焦った余り携帯電話を落としかけて、落として堪るか、と謙也は必死に握り締めて振り向いた。
「ざ、財前! 財前からや! あいつ、次の学校説明会に来る言うとるで!」
「ほんまか!?」
白石だけでなく、少し離れた場所で一冊の雑誌をふたりで覗き込んでいた小春とユウジも顔を上げる。ぱぁっと笑顔になって近づいてきた小春が謙也の腕を揺さぶった。
「説明会っちゅうことは、うちの学校を受験するっちゅうことやね! あぁん、待ち遠しいわぁ!」
「小春、浮気か! 死なすど!」
恒例のやり取りだけれども、ユウジの口元も不機嫌で隠しながらも端がつり上がっている。白石はカレンダーで日付と部活の有無を確認し、嬉しそうに頷いた。
「日曜やな。部活もあるし、説明会の後で寄るよう言うといてや」
「当然や!」
スピードスターの名にかけて速攻でメッセージを作成する。送信する僅かな間でさえももどかしくて、謙也は両手で携帯電話を握り締めた。心臓が騒ぎたて、テンションを上げてくる。暦は十一月を迎えていた。
僕らは同じ体温で生きていける。この先たぶん死ぬまでずっと
「お? あれ、四天宝寺の財前ちゃうん?」
先輩の言葉に真っ先に反応したのは謙也で、背後を振り向いたのはユウジだ。テニス部のフェンス越しには見慣れない制服姿の生徒が何人かおり、時に母親を連れていることから彼らが中学三年の受験生であり、学校説明会の参加者だと知れる。高校生からしてみればまだ幼さの残る彼らの中に、ぽつんとひとり目立つ生徒がいた。学ランの第一ボタンを外しただけで、特にズボンを腰の位置で履いているというわけでもないのに、何故かスタイリッシュで目が行く。加えて大阪でテニスをしている学生ならば、今年の全国大会準優勝中学の立役者を知らないわけがなかった。白石が部長に許可を求めれば、前もって事情を話していたために簡単にオッケーが出た。「その代わり、必ずうちに引っ張って来るんやで」という言葉を背で聞きながら、四人は出入り口から外へと回る。
「財前!」
呼びかければ、テニスコートを眺めていた横顔が振り向いた。さすがに学校説明会だからかラケットは持っておらず、鞄も普通の学生鞄を肩から提げている。持ち前のスピードで駆けつけた謙也は、昨年よりも目線の高さが狭まっていることに気づいた。こうして並ぶのは約一年振りになる。あの夏の終わり、民宿の裏が最後だった。わらわらとあっという間に財前を中心に輪が出来る。
「財前、久し振りやな」
「ほんまに! 会いたかったわぁ!」
「小春、浮気か! 死なすど財前!」
「先輩ら、相変わらずうざいっすわ」
練習ええんすか、と顎でコートを指し示す財前に、ええねんええねん、と謙也は手を振る。自然と笑顔が浮かんでしまってどうしようもない。無愛想なのも変わらない。懐かしい四天宝寺のエンブレムに相好を崩してしまう。
「おまえももう受験やなぁ。どうやった? うちの学校、悪くないやろ?」
白石が隣に立った。並ぶと本当に、身長差がなくなりつつあることが分かる。中学のときでも似たような高さだったユウジや小春は、すでに追い越されているだろう。百七十五くらいか、と目算で測り、後輩の成長に白石は柔らかく目を細める。からかうようにユウジが横から茶々を入れる。
「県内随一の進学校やで! 小春みたいに頭が良くないと受からへん! おまえみたいなチャラ男には無理や!」
「俺のどこがチャラ男や。もてへん男の僻みは醜いで」
「きゃっ! 光ったら男らしゅうなって!」
「小春ーっ!」
「はいはい、ラブルスはおとなしゅうしとってな。で、実際のとこどうなん? 模試の結果とか出とるやろ?」
小春とユウジに相変わらず億劫そうな視線を送った後で、財前は鞄から一枚の紙を取り出した。三つ折りのフルカラーは白石たちも昨年嫌というほど目にした模試の判定結果で、謙也がひったくるようにして奪えば財前は更に眉根を寄せる。けれどもそんなことすら気にせずに、四人は四方から紙を覗き込んだ。わぁ、と小春が歓声を挙げる。
「A評価! やるわぁ、光! めっちゃ合格圏内やないの!」
「嘘や・・・! チャラ男のくせに何やこいつ! 全国の健全な青少年を馬鹿にしとるで!」
「おまえ、テニス以外も天才なんやなぁ。すごいやん。府で一桁順位とか、そうとれへんで?」
「まぁとにかく! これでうちに入れることはほぼ百パー間違いないっちゅーことやな! その後はテニス部で全国制覇や! またダブルス組んで、今度こそ試合やで!」
「そのことなんすけど、うちの親父、春に転勤が決まったんで無理っすわ」
ぽんぽんぽんぽん、と明るく繋がっていた会話が、財前の言葉でエアポケットに陥る。無言の時がしばらく流れ、謙也が固まり、白石が「何」と呟き、小春が目を瞬いて、ユウジが口を大きく開いた。そんな先輩たちを見やって、財前は僅かに首を傾ける。
「三月下旬には引越しっすわ。まぁ左遷やなくて栄転なんが救いやけど」
「「「「・・・・・・はぁっ!?」」」」
合唱に財前があからさまに「うっさい」と顔を歪め、その声が届いたのかテニスコートの中からも部員たちが「どうしたー?」と声をかけてくる。反射的に手の中の模試の結果を握り締めてしまったのは謙也で、更に財前の目線が冷たいものになる。しかし謙也は思い切り財前の肩を掴むと強く揺さぶった。
「て、ててててて転勤って何やねん!? い、いつや!? 三月下旬言うたか!? うちの高校来れへんやんか!」
「あぁ、分かったで! 淀川区から住吉区に引越し、みたいなんやろ? 光ったら先輩を驚かせちゃあかんよ!」
「気合や! 気合でチャリこいで通うんや!」
「・・・・・・財前、転勤ってほんまなん? ご両親だけ行くわけにはあかんの?」
「そうや! 兄ちゃん夫婦は残るんやろ!? せやったらおまえも残ればええやん!」
「新婚家庭の邪魔なんか出来へんっすわ。ただでさえ義姉さんはうちの両親と一緒に住んでくれとるんやし、俺だけ残ったら迷惑やん」
「だったら光、うちに来てもええよ? 同棲しましょ!」
「あかん! 小春んちに住むくらいやったらうちに来い! 小春と同棲なんや百年早いわ!」
「一人暮らしは! 一人暮らしはあかんか!?」
「飯とか洗濯とかめんどいっすわ。居候も気ぃ使うん面倒やし。別に三年くらい、ええんちゃいます?」
「三年って高校生活丸ごとやんか! 嘘や・・・!」
「で、財前? 結局どこに転勤なん?」
悲鳴を挙げて右往左往する三人より、流石に白石は冷静だった。それでもどことなく顔色を青褪めさせて聞いてくる相手に、財前は謙也の手の中でぐしゃぐしゃになっている模試の結果を指差す。
「二番目の判定希望が、引越し先っすわ」
謙也ががばっと紙を開く。勢いが強すぎて折り目の箇所が悲鳴を挙げて破れたけれども、覗き込む四人の目は真剣だ。判定の第一希望、A判定の箇所には謙也たちの通う府立高校の名前がある。そして第二希望、これまたA判定の学校は、大阪から程遠い。
「熊本南やと・・・!?」
「っ・・・千歳とおんなじ高校やんけ!」
「せっかく熊本行くんやったら、同じとこのが楽やし。せやから謙也さん、俺とダブルス組みたいんやったらU-17代表しかないっちゅうことっすわ。頑張って選ばれてください」
「なっ・・・! こいつ、一年で態度でかくなっとるで! 自分は選ばれるっちゅーこと前提で言うとるわ! あながち間違ってへんのが更にむかつくわぁ!」
ぎゃあぎゃあとまくし立てる横で、白石と小春は模試の結果に端から端まで目を通していた。判定の第一希望は大阪だったが、第二希望以下はすべて熊本だ。名前から察するに熊本市周辺の学校が揃っており、そのどれもがA判定を受けている。それは財前の進学先が九州であることの証明に他ならず、落胆に肩を落としてしまっても仕方がないだろう。また一緒にテニスが出来ると、無愛想な後輩を可愛がれると思っていたのだから尚更。
「まぁ・・・千歳は喜ぶやろうけどな。あいつんとこ、比嘉に負けて全国出れへんかったし」
「そうやねぇ。光が入るんやったら、一気に全国区やもんね」
「せやけど、あぁ、信じられへんなぁ。全く疑いもせんかったわ。おまえは俺らの後輩になるって」
苦笑いを浮かべる白石に、謙也とユウジを適当にあしらっていた財前が鼻で笑う。
「別にええんやないすか? 全国で嫌でも会えるんやし。ぼっろぼろに負かせてやりますわ」
「・・・ほんまにおまえ、ええ性格になったなぁ」
「せやけど三月上旬やったら、まだまだ時間もあるやないの。思い出作りや! デートするで、光!」
「浮気か、小春! デートやったら俺としてくれ!」
「漫才はもうええっすわ。ほんなら俺、帰るんで」
「ちょお待て! またメールするから、ちゃんと返事せぇよ! ストテニ行くで!」
「気が向いたら付き合うてもええっすよ」
生意気や、という謙也のデコピンを軽く交わして、財前は肩を竦める。紙切れになりつつある模試の結果を取り戻して、鞄に適当に収めれば更にぐしゃぐしゃになったことだろう。事情を話してあるとはいえ、部活を抜けていられるのもそろそろ限界だ。戻るで、と白石が先導すれば、小春が「またね!」とウィンクを投げ、ユウジは「卒業までにいてこましたるからな!」と捨て台詞を吐き、後ろ髪を引かれるようにしていた謙也も「またな」と少しばかり寂しそうに笑って踵を返す。四つの背中を財前は見送る。フェンスに消えていこうとする姿に、いつかの夕焼けが重なる。あの日、本当に口にしたかったことは。
「・・・・・・よおやっと、言えますわ」
声は小さかったけれど届いた。最初に謙也が、最後に白石が振り返る。財前は背を伸ばして立っていた。四人を見据える漆黒の瞳は深く、ふわりと、刹那揺らめいて。綴られる音は優しすぎて涙を誘い、下げられた頭に強い意思を見た。
「先輩ら、卒業おめでとうございます。今まで、えらい世話になりました。ありがとうございました。・・・・・・言うんが遅うなって、ほんまにすんませんでした」
―――もしかしたら、もしかしたら。もしかしたらこの後輩は、今の言葉をずっと抱えて、ずっと言えずにいたのかもしれない。孤独に部内を纏め上げ、ひとりでコートに立ったのかもしれない。寂しかったのかもしれない。悲しかったのかもしれない。途方に、暮れたのかもしれない。それでも己を奮い立たせ、牽引者として君臨してきた絶え間ない努力。想いの底。ついぞ崩れなかった、信念の在り処。
その、根源のすべてが一瞬で理解できた気がして、堪らず謙也の足は地を蹴っていた。抱き締める身体はまだ細くて骨ばっていて、十五歳の少年でしかないのだと今更ながらに気づかされる。謙也さん、という囁きに被さって叫んだ。謙也の方が今にも泣いてしまいそうだった。
「俺らこそっ・・・頼りない先輩ですまんかったなぁ! 辛い目にあわせてしもた! ほんまにすまん・・・!」
「・・・謙也さん」
ぎゅうぎゅうと力一杯に抱きすくめられ、行き場を失った財前の手のひらが包まれる。眼鏡の奥の瞳を静かに細めて、小春が両手で財前の手を握っていた。声はとても温かく、優しい。
「ほんまに、お疲れ様。光はようやったで? うちらの自慢の後輩や」
「おまえがツンデレなんは最初っから分かってことやしな。まぁ、よおやったんちゃうか」
逆からはユウジが蹴りを入れてくる。それは本当に弱いもので、顔を歪めているからこそユウジの言葉に嘘がないことは明確だった。白石がゆっくりと近づく。謙也の肩越し、浮かべられていたのは「部長」としての微笑だった。先輩を先輩とも思わない、無愛想な後輩を宥めるかのように、伸ばされた手がくしゃりと財前の髪を撫でる。
「ええか、財前。おまえが九州に行っても、俺らは仲間や。ずっとおまえの幸せを願っとる」
「・・・全国で対戦することになっても、その台詞が言えるんすか?」
「言えるで。もちろん試合は手ぇ抜かへんし、おまえもそれを望んどるやろ? せやけど、俺らは財前光っちゅう仲間のことをずっと思うとる。可愛い後輩やからなぁ。おまえが嫌がっても無駄やで? はよ諦めた方が得策や」
「・・・・・・ほんま、うざい先輩らっすわ」
力のない呟きがせめてもの抵抗に感じられて、思わず笑みが零れてしまう。謙也が抱き締める腕に力を込めた。財前の身体が震えて俯く。長かった夏が、ようやく終わろうとしている。いくつもの夏が終わって、そしてまた別の季節が始まっていく。
やっと、言えた。
2010年6月19日(title by hazy)