まだ熱気が残るにも関わらず、二学期の授業は開始される。ほとんどの部活において夏休み中に引継ぎが行われ、学校全体の流れも三年から二年へと移り始める。テニス部に財前の私物と言えるものはほとんどなかった。もともと人目につくところに物を置くことを嫌がるタイプだし、最低限のものだけでやっていける性質でもあるからだ。三本のラケットのうち二本を自宅に置いてきてしまえば、鞄の空いたスペースにロッカーの中身もすべて収まってしまう。狭いはずのロッカーは、荷物がないとやけに広い。
私は一生この夏を、忘れることはないだろう
「金太郎にはああ言うたけど、次の部長は斉藤が適任やろ。どう考えても金太郎じゃ部がまとまらへん」
「あー、斉藤なぁ。決勝でおまえに最初に意見した奴か。意外と度胸あるみたいやしなぁ」
「性格もまめやし、努力も出来る。金太郎はプロガバンタにでもしといたらええ」
「青学のコシマエとは違うて、金太郎に頭脳プレイは期待できへんしなぁ。しゃーないやろ」
俺も斉藤が適任やと思うで。オサムが同意すれば、財前はボールペンで「次の部長は斉藤」と書き込み、部誌を閉じる。これで財前のテニス部における仕事はすべて終了した。ふう、と吐き出された息は意識外のものだったが、それを認めたオサムがからかいの声を投げかけてくる。
「お疲れやったなぁ、財前。あんだけ好き放題してたんや。部長、楽しかったやろ?」
「あんたは随分他人事やったな。最後の最後で勝手しおって」
「ダブルスはふたつとも勝ったんやから結果オーライや。あの決勝はおもろかったでぇ! シングルス1の蒲生! あいつの一人漫才、最高やったわ!」
真夏の炎天下で行われた試合を思い出したのか、再び声をあげてオサムが笑い始める。顔を歪めた財前は、今度こそ不快の溜息を吐き出した。
「・・・あれは黒歴史や。あいつだけやない、あの決勝自体が四天宝寺の黒歴史や」
「そないなこと言うもんやないで? 蒲生、あの試合見た吉本からスカウト来たらしいやん。シングルス2の堤も客いじり上手かったしなぁ。会場も爆笑やったし。おまえと金太郎のダブルスははちゃめちゃで、ネット破るわ、コートに穴開けよるわ」
「ほんま、修理費出してくれた氷帝の監督さんに感謝やわ。甲斐性のある大人やったな。どっかの誰かさんと違うて」
「何やー? ここにもめちゃくちゃ甲斐性のあるええ男がおるやろ?」
「どこすか? 全然見当たりませんわ」
「そないなとこでボケんでええねん」
机越しに繰り出されたチョップをわざわざ受けるわけがなく、財前はパイプ椅子を鳴らしてつれなく交わす。それでもオサムが指先で額を突けば、むっとあからさまに顔が不機嫌になった。笑みを深めて再度尋ねる。
「甲斐性のある監督やったやろ?」
「・・・・・・自分で言うとる分、マイナスや」
「おまえ、ほんまに素直やなぁ」
手のひらが今度は遠慮なく財前の頭を捕まえて撫でる。やめぇや、と叩き落されてもひらひらと手を振るだけで一向に堪えた様子はない。オサムのこういったところを財前はうっとうしいと思うし、面倒だと感じて舌打ちを繰り返してきた。あの完璧人間である白石のフォローさえきちんとしてきた顧問なのだ。自分が手のひらで踊らされることぐらい財前とて分かっていたし、だからこそ憤りは募る。
「四天宝寺はちゃんと卒業できそうか?」
「うっさいわ。全国制覇は出来へんかったけど、まぁこんなもんやろ。金太郎もちょっとは自覚持ったみたいやし、ええんちゃう? 後は知らん」
一年と少し前の、それこそ白石や謙也がまだ部にいた頃のような素っ気無さだが、それだけではないとオサムにもちゃんと分かっている。否、テニスをしている財前を知る者は、皆気づいているだろう。瞼の伏せられた横顔に、むかつくほど美形やな、とオサムは心中で呟く。白石のような目立つ輝きを放っているわけではないし、謙也のように周囲を盛り上げる言動を取るわけでもない。小春のようにユーモアに溢れているわけでもないし、ユウジのように手先が器用というわけでもない。千歳のような包容力とは無縁だし、銀のように円熟した精神には程遠い。未完成だけれども、人目を惹きつけて離さない。そんな青年に財前は成長しつつある。数年後には間違いなく、ひとつの仕種だけで周囲を動かすことが出来るようになるだろう。本人が面倒くさがって実行することは少ないだろうが、そんなことさえ予測できてオサムは笑った。苦しく、辛い、重いばかりの一年だったろう。だが、それも財前にとって必要な時間だったのだ。こうして少年は成長していく。
「時々部活にも顔出してや。おまえがおると空気も引き締まるしな」
「考えとくっすわ。せやけど先に、やらなあかんことがあるし」
ロッカーの名札を外してしまえば、財前がこの部に在籍していた痕跡は部誌の文字だけとなる。棚の上に置かれている全国準優勝の文字が刻まれた盾を一瞥し、ラケットバッグを持って財前は立ち上がった。ワイシャツはまだ半袖だけれど、すぐに秋が来るだろう。あっという間に長袖とセーターを着込む季節がやって来て、そして瞬く間に卒業だ。無言で横を通り過ぎた背中に、オサムが声を投げかける。
「何や何や、世話になった顧問に感謝の言葉もないんか?」
「あんたのそういうとこがうざいんすわ」
「最後までそれかい」
「阿呆。あんたさっき自分で言うたやろ。部活に顔出せって」
ぱちりと目を瞬くオサムに、振り返り財前は笑う。嘲笑を含んだそれは見慣れた生意気なもので、懐かしい、なんて思っている暇がなかった。
「あんたへの挨拶なんや、一番最後で十分や」
ぱたん、と閉まったドアに呆気に取られ、少ししてオサムはくつくつと喉を震わせて笑い始める。こうしてひとつの季節がまた終わり、そして次の世代に伝えられていく。いくつもの背を見送ってきた。その、どれもが。
「・・・眩しすぎるで、ほんまに」
呟かれた言葉は慈しみに満ちている。
最高の守護者で、永遠の送迎者。いってこい、と背中を押すよ。
2010年6月18日(title by hazy)