翌日の全国大会決勝は、東京代表の氷帝学園と、大阪代表の四天宝寺の対決となった。部員数の多さに物を言わせて氷帝がぐるりとコートを囲み、試合前から声援を始める。勝つのは氷帝、負けるの四天。学校名こそ違えど昨年と同じ声援は、日吉が確かに跡部の後を引き継いだことを証明している。一種陶然とした場の空気は異様なものがあり、いくら見たことがあるとはいえ他校の部員たちは心持ち引いた位置から試合を観戦しようとしていた。氷帝に遅れること十分、四天宝寺がコートに姿を現す。





昨日大好きだった人も、今日大好きな人も、明日大好きになる人も





渋さを匂わせる黄色いジャージの中で、誰もが一番に探そうとしたのは財前の姿だった。少数精鋭の部員を纏め上げ、全国大会の決勝まで導いてきた部長。自身も天才と謳われる巧みなゲームメイクを得意としながら、昨日の準決勝では「無我の境地」まで披露してみせた。女性はその硬質な外見に惹かれる者も多かったし、他校の一・二年の中には憧れの眼差しを送る者もいる。統率者だということを示すかのように、財前はいつだって部員たちを背後に引き連れ、自身が最初にコートに足を踏み入れてきた。だからすぐに見つかるだろうと誰もが思っていたのに、今日だけは違ったのだ。
財前は一番最後にやってきた。足取りは一目見て分かるほどに面倒くさいといった雰囲気を放っており、心なしか背中さえ猫背に見える。鋭い眼も瞼に半分近く隠されていて、はっきり言ってその姿にこれから行われる決勝戦に向けた闘志を感じられることは出来なかった。部員たちがバッグを置いて軽いストレッチを始めても、財前は座ったベンチから動くことはなかった。客席の訝しげな視線が解消されないうちにアップの時間も終了し、オーダーの発表となる。先に氷帝が顧問の榊によって示され、シングルスに鳳と樺地と日吉の三人を持って来るという鉄壁の布陣を布いてきた。対して四天宝寺の番となり、オサムはポケットから取り出したスーパーのレシートのようなよれよれの紙を読み上げる。
「四天宝寺のオーダーいくでぇ! シングルス3、斉藤! ぶちかましてこい! ダブルス2、細川と織田! 足引っ張り合うんやないで! シングルス2、堤! 泣かしてこい! ダブルス1、財前と金太郎! 会場壊すんやないで! ラストのシングルス1、蒲生! 決めてこんかい! 以上!」
マイクを通したわけではないが、聞き取りたいために誰もが耳を澄ましていたところに轟いたオーダー。え、とどこからか呟きが会場に落ちて、沈黙の中でオサムだけが一仕事終えたかのように誇らしく胸を張っている。徐々に動揺と喧騒が広がりを見せていき、「はぁ!?」と叫んだのは財前だった。嵌めていたイヤホンを片手で引き抜き、背を預けるようにしてほとんど寝ていたシートからがばっと立ち上がる。手摺りを飛び越えて着地したベンチの背もたれを思い切り蹴りつけ、そのパフォーマンスに金太郎が歓声を挙げた。おいおい、と顔の真横を蹴られることになってもオサムは笑っている。
「あ、あんた何考えてんねん!? 俺と金太郎がダブルス!? 阿呆ちゃうか!? 俺ら組ませるなんや一勝を溝に捨てるようなもんやで!? あんた優勝捨てたんか!」
「なんやー財前。決勝のオーダーは俺に任せるっちゅーたやろ? 青学に勝って燃え尽きて、『もうええわ』っておまえ言うたやん」
「それとこれとは話が別や!」
がん、とベンチを蹴りつけた次の瞬間、沸騰した怒りが打って変わる。刹那で暴君が君臨したのだ。見下ろす財前の瞳からは一切の感情が消え、ただオサムを睨み付ける様は恐ろしいほどに冷ややかだ。決して大柄ではないのに、どちらかというと細身の身体が静かに威圧感を放ち出す。声すらも凍りついたかのように冷たく、聞く者の背筋を震わせる。
「・・・あんた、どこまで阿呆なんや。相手は氷帝やで。真面目に」
「ざーいーぜーん」
オサムの手が財前の足首を捕まえる。一歩動けば全身のバランスを崩すため、財前の動きが強制的に制限される。ぐ、と言葉を飲み込んで、それでも睥睨してくる様を見上げて、オサムは挑発的に唇の端を吊り上げてみせた。
「今までおまえの好きにやらせてきてやったやろ? 最後くらいは監督の言うことを聞くもんやで」
「それがまともな案やったらな。せやけど、こないなオーダーは正気の沙汰やない」
「おまえこそ舐めとるやろ。今の四天宝寺におる奴は、全員おまえのしごきについてきた奴なんやで? 全国の決勝で戦う力は十分にある」
財前の細い眉が顰められる。オサムの余裕を湛えた視線との睨み合いが続き、ぎり、と財前が奥歯を噛み締める。張り詰めた膠着を破ったのは第三者の声だった。
「あのっ、財前部長・・・!」
この一年でようやく違和感なく気づけるようになった呼び名に、財前はベンチの上に立ったまま振り返る。正しく見下ろしているのは、シングルス3に選ばれた二年だ。グリップを握り締めて、気丈に財前を見上げてくる。ごくりと唾を飲み込む仕種は、財前が他者の言葉を容易に受け入れる性質ではないと知っているからだ。財前は暴君であると、テニス部の誰もが知っている。それでも彼らはついてきたのだ。
「俺ら、頑張ります! 必ず部長と遠山に繋いでみせます! せやから・・・っせやから、俺たちに任せてください!」
「・・・・・・何」
初めてに近い部員からの進言に、財前の目が見張られる。次いで言い募ってきたのはシングルス2に選ばれた三年だ。四天宝寺に副部長はいない。財前のきつい言葉に耐え切れず辞めたからだ。同学年だからこそ耐えられない者が多かった中で、残った数少ない最上級生だった。
「そうや! まさか忘れたわけやないやろ!? 俺らを鍛えてきたんはおまえやないか! 俺らの実力はおまえが一番知っとるやん!」
「・・・・・・」
「最初に部長が言うてた通り、俺らは『何してでも勝ちたい』思うたから、あんたについてきたんや! 今更逃げたりせぇへん!」
十三人の部員たちがすべて、訴えるようにしてベンチに群がる。眉根を顰めて、財前はその様を見下ろしていた。いくつも重なる声が、コートに大きく鳴り響く。
「俺らかて四天宝寺や! 必ず勝って笑うてみせるわ!」
擂り鉢上の会場に、声が僅かに反響して空へ溶けていく。静まり返った中で、部員たちの乱れた呼吸だけがかすかな音となっていた。氷帝の応援団さえ鳴りを潜め、相手ベンチからは日吉や鳳、樺地の視線が向けられている。青学や立海、不動峰など敗れた各校からも。謙也たち卒業生も、詳しいことを知らないただのギャラリーでさえも、声を噤んで四天宝寺のベンチを見つめた。部員たちの眼差しは強く財前に注がれ、揺るがない。くくっ、と金太郎が肩を震わせる。
「光の負けや」
いかにも「おもろい」といった笑い声に、財前があからさまに舌打ちして背もたれに乗せていた片足を下ろす。最後の最後で逆らいよって。呟きは小さすぎて、四天宝寺の部員たちにしか届かなかった。ほんなら、と顔を明るくした仲間たちを見下ろし、財前はジャージのポケットに両手を突っ込んだ。足を肩幅に開いた様からは冷ややかさが消え、その代わりに多大なる不遜を兼ね備えている。態度は悪いが、そもそもそれが財前という少年だったのだ。硬質な中にあどけなさが甦って、一年経ってようやく「財前光」が現れる。
「ええ度胸や。そないに言うならやってみたらええ。言うとくけどな、俺が鍛えてきてやったんや。勝たへんかったら一生パシるで。覚悟しとき」
「おん!」
「ポイント奪うんが無理やったら、せめて笑いでも取ってくるんやな。こちとら大阪代表や。東京もんに一泡吹かせたれ」
「え? そんなら・・・」
「もうええわ、漫才テニスも解禁や。好きにしたらええ。・・・・・・『勝ったモン勝ち』が、俺ら四天宝寺やからな」
わぁ、と歓声が上がる。俺ら頑張ります、と気合を入れる部員たちに肩を竦めて、財前は客席を仰ぐ。ほぼ満員となっている中から分かっていたように一点を見据え、距離があるのに目が合い、謙也は息を呑む。財前が声を張り上げる。
「先輩ら!」
現在最高学年の財前が「先輩」と呼ぶ相手は、謙也たちしかいなかった。呑まれるようにして母校の様子を見つめていた謙也や白石は、慌てて背筋を伸ばす。
「お、おん! 何や!?」
「そないなとこにおらんと、近くで応援頼んますわ。氷帝にも負けへん、いっちょ派手なやつ。・・・得意やろ?」
挑戦的に笑われて、かぁっと全身が熱くなる。当たり前や、と謙也は叫んで駆け出した。鞄なんて置きっぱなしだったし、途中で他の観客にぶつかったりもしたけれど、それでも近くに行けることが嬉しくて堪らなかった。後からすぐに白石や小春、ユウジも追いついてきて、氷帝の部員を押しのけてセンターコートの位置を陣取る。声を揃えて声援を送る。喉が張り裂けても構わなかった。
「ドンドンドドドン四天宝寺! ドンドンドドドン四天宝寺!」
我に返った氷帝も負けじとコールを叫び始め、熱狂に包まれた中で決勝戦は始まった。ようやくベンチから降りて、財前は仲間の立つコートを見つめる。淡く微笑を浮かべた横顔は、部を纏める存在に相応しく、とても頼もしいものだった。





止まっていた時が再び歩み始める。間違っていなかったと教えてくれたのは、背後にいた仲間たちだった。
2010年6月13日(title by hazy