その年の全国大会も東京で開催された。有明に、各地から選ばれた学校が集う。激戦に相応しい灼熱の炎天下が続いた。波乱はまず、初日に起こった。二年連続の全国制覇を果たし、昨年度の準優勝校でもある立海大付属中が初戦で敗退した。相手は不動峰だった。シングルス2で赤也は神尾に勝利を収めたが、あとが続かなかった。芥子色のジャージは伝統に見合う結果を残せずに姿を消したが、赤也は最後まで毅然と顔を挙げ、涙ひとつ零さなかったという。
予定はタイムスケジュール通りに消化され、前評判の高かった学校は順当に勝ち残っていった。二日目の午後には準決勝が行われ、対戦カードは不動峰と氷帝、そして青学と四天宝寺。後者は昨年の再現だと言われ観戦者も多く、その中には各校のOBの姿もあった。インターハイをすでに終えた謙也たちも新幹線に乗り、大阪から駆けつけていた。
真っ青な空の下、試合が始まる。





僕らは同じ空の下、太陽の許、命の環を紡ぎ、一片の嘘もなく





「・・・逃げやがった」
不貞腐れるように呟いたリョーマの言葉は、おそらく会場にいた者すべての心中を代弁していただろう。それだけ先ほど発表された両校の選手オーダーは予想外のものだったのだ。正直、誰もがシングルス1でのリョーマと金太郎の対決を望んでいた。ふたりは中学テニス界でも群を抜く強さを有しており、東西の雄として広く知られていたからだ。だが、それを四天宝寺はあえて外してきた。当の本人すら知らされていなかったのか、ベンチで金太郎が悲鳴を挙げている。
「なっ、何でワイがシングルス3なん!? オサムちゃん、ワイはコシマエとやりたいっちゅーたやん! シングルス3なんか嫌や!」
「はーい金太郎、おとなしゅうしような? それに俺に文句言うてもしゃーないで。オーダー決めたんは財前やし」
「光!? ひかるぅ、何でワイがシングルス1やないん!?」
「チームのためや。黙って行かんかい」
「コシマエとやりたい、コシマエとやーりーたーいー!」
「うっさいわ。さっさとせえ」
黄色に緑を散らしたジャージを纏い、ぴょんぴょんと跳ねながら文句を連ねる金太郎を、財前は適当にあしらう。少し会わなかった間に背が伸びたかもしれない。不義理が祟って近くには行けず、少し離れたシートで観戦しようとしていた謙也は思った。この半年で随分と財前は大人びた。横顔に無理は見られず、精悍というよりも綺麗と讃えた方が良い涼やかな雰囲気を醸し出している。ただやはり、針のように鋭い気配ばかりが財前からは感じられてしまう。取り成そうともしない態度にさすがに腹を立てたのか、金太郎が唇を尖らせた。
「光、感じ悪いで! 去年からずーっとや! 部活やて厳しいばっかでおもろないやん! 光やから我慢しとったけど、コシマエと出来へんならもうええわ! ワイ、試合なんか出ぇへんから!」
金太郎がそう叫んだ瞬間の財前の表情が、謙也の位置からは何故か明瞭に捕らえることが出来た。ぶわっと全身を覆う何かが膨張したかと思うと、派手に音を立てて割れ、四方へと飛び散った。僅かに浮かんでいた感情でさえも姿を消した。漆黒の眼が氷点下よりも熱を下げ、遠くにいる謙也たちの身さえ震わせる。それは、明らかな怒気だった。逆鱗に触れた。次の瞬間、コート脇の監督用ベンチは財前の蹴りで吹っ飛んでいた。凄まじい音に誰もが肩を跳ねさせる。驚いて振り返った金太郎を見据える財前は本当に、本当に、激昂していた。
「試合に出ぇへんやと・・・!? 我侭も大概にせえや。おまえの勝手で四天宝寺を負かす気か?」
「光・・・?」
「おまえとコシマエには来年があるやろ! 俺は今年が最後や! 勝つためのオーダー組んで何が悪い!? 今までのも全部勝つためや! 青学に勝たれへんと、俺はいつまで経っても四天宝寺を卒業できへん!」
息を荒げて、吐き出されたのは本音だったのだろう。ジャージに包まれた肩が上下して、そのことが財前が如何に取り乱しているかを知らせる。クールで、いつだって斜に構えていて、口は悪いが自分の本当の本心を吐露するようなことはない、それが財前だと彼を知る誰もがそう思っていた。金太郎がぽかんと、目と口を丸くして財前を見上げている。オサムが「あーぁ」といった感じで天を仰いでいた。じりじりと太陽がコートを焦がしていく。張り詰めた沈黙の中、嘘や、と金太郎が呟いた。とても頼りなく、眉根を下げて。
「・・・・・・光、最後なん?」
「・・・そうや。俺は三年やから、この大会が最後や」
「卒業、してまうん? 白石たちみたいに? 嘘やろ? なぁ、光はワイを置いていかんやろ?」
「置いてく。秋から俺はおらん。おまえが部長や」
「嘘や! なぁ、嘘やろ!? 光!」
「嘘やない。俺がおまえとテニス出来んのは、この大会が最後や」
駆け寄った金太郎の腕を、逆に財前が掴んだ。縋りつくようなそれは、酷い強さだったのかもしれない。びくりと震えた金太郎のジャージに深い皺が寄る。財前の声は必死だった。泣くのを堪えるように震え、謙也の耳を、心を抉る。隣の白石が膝の上で、きつく拳を握り締めていた。今まで押さえ込んできたものがすべて爆発したような、そんな有様だった。
「・・・・・・頼む。四天宝寺が勝つにはおまえの勝利が不可欠や。俺のことを思うなら、俺のために勝ってくれ」
「っ・・・ワイが勝ったら、光はずっといてくれるん?」
「阿呆、無理や。しゃーないやろ。・・・・・・しゃーないんや」
時は無情にも流れてしまう。別れは必ず来るのだ。来年、この場にいるのは金太郎とリョーマ、ふたりだけになってしまう。もちろん他にも選手は大勢いるけれど、培ってきた絆は解かれてしまうのだ。新たに紡がれるものもある。それでも、それでも。
「ワイが勝ったら・・・光は、笑うてくれる?」
大きな瞳に涙を滲ませて問うてくる金太郎に、財前は小さく肩を竦めた。緩められる指に先ほどまでの怒りの陰はなく、ただ諦観にも似た寂しさを漂わせていた。
「知らんわ、そんなん。せやけど俺は、青学に勝つためにこの一年やってきたんや。・・・無駄にさせんな」
「光、ワイ」
「分かったんなら、さっさと行きや。そんで勝って来い。笑って俺を送り出すのがおまえの役目や」
腕を放し、その肩をやわく押してコートへ押し出す。たたらを踏んで、ラケットを抱き締めて立ち尽くす金太郎に、もしかしたら財前は笑ったのかもしれなかった。泣いたのかもしれなかった。謙也の位置からは見えなくて、目にすることが出来たのはきっと海堂や桃城、赤也だけだったのかもしれない。ぐ、と金太郎の唇が噛み締められる。財前の声が会場中を震わせた。
「『勝ったモン勝ち』が四天宝寺や! 負けたら一生しばくで! このゴンタクレ!」
金太郎が顔を歪めて眉を下げ、それでも歯を見せて笑った。ジャージを脱ぎ捨ててコートに立つ。ワイは負けん! 力強い宣言だった。財前はそれを見送り、部員たちの方へと戻る。
誓いを違えることなく、金太郎はシングルス3で桃城を相手に勝利を収めた。光、とベンチに戻ってきた金太郎の頭を財前がぐしゃぐしゃに撫でる。よおやった。唇はそう動いていた。





一年前から、この場所に、ずっと立ち尽くしていたのだ。財前光はひとり、ただひとり。
2010年6月11日(title by hazy