「ただいま」
自宅のドアを開ける。足が重くてすぐにラケットバッグを下ろしてしまいたかったけれど、一度置いたら最後、もう持ち上げることは出来ない。練習で酷使された身体は鈍くて、財前自身舌打ちをしたくて堪らない。脱いだスニーカーを揃えなおす余力もない。部活の後に自主練習をしてきたから、時刻はすでに八時を回っている。家族の夕飯は、仕事で遅い父と兄を除いて済んでいるのだろう。リビングから財前にとっての甥っ子を抱いた義姉が顔を出し、おかえりなさい、と笑いかけてくる。
「一時間後に起こすわね。お夕飯、温めておくから」
「おん。ありがと」
二階への階段に足をかける。誰に見られているわけでもないので、手摺りを掴んで引き摺るように部屋へと向かう。肩からずり落ちたラケットバッグが床を刷り、チャックの金具が嫌な音を立てたけれど気にする余裕もない。辿り着いた自分の部屋のベッドに財前は倒れこんだ。あぁ、まったく嫌になる。この身体は相変わらず細くて、筋肉がつきにくくて、そして体力が培いづらいのだ。どんだけ練習しとると思っとんのや。愚痴は枕に吸い込まれた。嫌になる、あぁ、嫌になる。
夏が終わった。秋が来て、部長になって、冬が来て、春が来て、三年が卒業して、三年になって、一年が入ってきて、夏が来て、府大会で勝って、関西を制した。そしてまた、全国を迎える。
痛めつけるように練習を繰り返し、身体が悲鳴を挙げている。それ以上に、心が軋んでいる。みしみしと押し潰されるような、がらがらと端から崩れてゆくような音が聞こえる。気のせいや。空耳の振りをして進んできた。進んでくるしかなかった。
馬鹿みたいな厳しさを自分と部活に強いて、暴君と密やかに詰られたりして、見苦しいほど勝利に執着して、毎日毎日死んだように眠る。その理由を、決して認めたりなんかしない。子供みたいな駄々を、決して誰にも気づかせたりしない。
「・・・・・・あと、ちょっとや。あとちょっとで、全部終わるんや・・・」
魘されるように呟いて、財前は束の間の眠りにつく。夢に出てくるのは未練ばかりで、寝起きはいつだって最悪だ。しゃーない奴やなぁ、と頭を撫でてきたいくつもの手など、もはや感触だって覚えていないというのに。
全てを捧げた愚かな乙女
一時間後、母親に起こされて財前は遅い夕食をとる。その後で風呂に入り、そしてまたすぐに寝てしまう。そうしなくては激しすぎる日々を保てないのだ。趣味のブログの更新も、もう随分としていない。パソコンでの作曲も最後にしたのはいつだったか忘れてしまった。テニスをしていなければ気分が落ち着かなくなっている。強迫観念に似た何かが財前を駆り立てていた。謙也や白石から送られてくるメールは、開けなくてフォルダに溜まっていく一方だった。
あとちょっとや。それだけを呪縛のように繰り返して。
疲れていても「ありがとう」と言葉にする分、財前は兄の嫁に気を使っている。本当はちゃんと優しい子。
2010年6月6日(title by hazy)