機嫌が悪いのは分かっていた。他人の機微に聡い白石や銀だけでなく、小春以外はどうでもいいと考えている節のあるユウジでさえ気づいていた。日を増すごとに肌の下でぴりぴりとした空気を増していく財前に気づかない方がどうかしている。あれは喜びを表面に出さない分、不の感情は容赦なく表出するのだ。基本的に他人に無関心だから事が発露する前に切って捨てられることが多いが、今は合宿という閉鎖された空間の中。つんつんと立つ黒髪に比例して剣呑な空気を漂わせていく財前に、四天宝寺の面子は気が気じゃなかった。
そしてそれはついに爆発した。財前らしく冷ややかに、静かに。
守れるだろうか、愛せるだろうか、最期まで君を(心から)
「もうええわ。これ以上は時間の無駄や」
右に打たれた球を一歩も動くことなく、見送ることすらせずに無視した財前に、謙也は慌てた。U-17合宿は中盤に差し掛かり、一度は落第の印を押された「負け組」が裏コーチである三船の暴力的な特訓に耐え、「勝ち組」に一矢報いて合宿に復帰を果たしたところだった。計算されたトレーニングを重ねていた「勝ち組」に対し、弱点を克服する特化練習を繰り返した「負け組」が、彼らを凌駕せんと食らいついている。あと三日もすれば韓国遠征に行っている一軍の選手たちも帰国し、本格的な生き残りをかけた戦いが始まるだろう。そんな最中だった。対戦相手の切原は明らかに顔を歪め、お世辞にも良いとは言えない態度を更に悪化させて睨んでくる。しかし財前は気にすることなく、コート脇の監視カメラを見上げた。
「俺、ここで辞退します。リストから名前消しといてください」
「ざ、財前! おまえ何考えとんねん!」
「うっさいっすわ、謙也さん。そもそも俺はこの合宿には最初から不参加やて言うとったんや。ユウジ先輩に無理やり連れて来られたせいで崖登りやら何やらやらされて最悪っすわ」
「何やねん、財前! 小春が心配やなかったんか!?」
「やめてユウ君、光! あたしのために争わないで!」
「・・・ほんまうざいっすわ、先輩ら」
順番待ちをしている面子の中でがなるユウジと身をしならせる小春を呆れたように見やり、財前はラケットを肩に乗せ、ネットに背を向ける。スコアは4-0と切原のリードで、展開は一方的だった。全国大会で一試合しかこなしていない財前の実力はまだ明らかにされていなかったが、それでもこれはないだろうと他の選手に思わせるようなプレイで、実際に謙也は「財前、真面目にやらんかい!」と何度叫んだか分からない。それにも耳を貸さずに適当なプレイを続け、挙句の果てに財前は合宿を辞めると言い出した。誰もが眉を顰める中で、嘲笑を放ったのは切原だった。
「そうだな、さっさと帰れよ! おまえじゃ全然話にならねぇよ。『天才』とか言われていい気になってたんじゃねぇの?」
切原君、と諌めるように名を呼んだのは柳生だったのだろう。他の立海部員は事の成り行きを見守っているのか口を出してこないが、真田の眉間に刻まれている皺の深さが財前の行動を咎めているようで、謙也は肝が冷えた。やる気のない態度で財前が振り返る。ネットを挟んだ財前と切原は同じくらいの身長で、あぁ、同学年やんなぁ、と今更のように気づいた。
「大体おまえ、その程度の実力で『天才』なんて呼ばれて恥ずかしくねぇの? そういうのはさぁ、俺やうちの先輩たちに相応しい言葉なんだよ」
「はぁ? 何でここで三年が出てくんねん」
「あぁ? おまえこそ何言ってんだよ。うちの先輩馬鹿にしてんの?」
「阿呆か。おまえ、立海の部長継いだんちゃうの? せやのにいつまでも先輩先輩言うててホモかっちゅうねん。そっちの方が恥ずかしいわ」
ざ、と肩幅に足を開いて、財前がラケットを小脇に抱える。横顔は見事に無表情で、機嫌が地の底に落ちとるな、と隣で呟いた白石に謙也は首を縦に振って同意する。気づけば合宿に召集されている中学生は、ほとんどがこのコートの周囲に集まっていた。ちょうど休憩時間に差し掛かったこともあるのだろう。少し離れた場所では入江が微笑を湛えて、鬼と共にこちらを眺めている。財前の声はインパクト音に邪魔されず、コートに響き渡った。
「気づいとらんなら教えたるわ。来年、四天宝寺と立海は最悪、地方大会止まりやで。全国に行く可能性なんや五割っちゅうとこやろ」
息の呑む音がそこかしこで聞こえ、次いでがんっと暴力的な音が鳴る。謙也がそちらを向けば、真田が拳で手摺りを殴りつけたらしかった。帽子の下から財前へと向けられる視線は射殺すほどに鋭く、母校への誇りを感じさせる。
「我ら立海が地方大会止まりだと・・・!? 貴様、何勝手なことを!」
「俺、今こいつと話しとるんやけど。おっさんは黙っててほしいっすわ」
「ぷっ・・・!」
今度は数箇所で噴出する音がする。何故かチームメイトであるはずのブン太と仁王が真田から顔を背けて肩を震わせており、青学付近では笑ったリョーマが大石に慌てて窘められている。「おっさんやて! 光、うまいこと言うなぁ!」と声をあげた金太郎は銀と千歳によって羽交い絞めにされていた。真田の強面の顔が怒りで真っ赤に染まり、やばいで、と謙也は焦るが財前は冷静だった。
「あんたらは来年の下克上の心配でもしとればええんすわ。俺が相手にしとるんは、来年も中学におる奴だけや。三年はもういらん。しゃしゃり出てこられても迷惑なだけっすわ」
非常にきつい言葉に、財前の物言いになれている四天宝寺以外の選手は程度の差こそあれ顔を顰めている。ぐるりと周囲を見回して、財前の視線は確認するように相手を収めていく。青学の海堂、桃城、リョーマ。不動峰の神尾と伊武、聖ルドルフの裕太。氷帝の日吉、鳳、樺地。六角の天根、名古屋星徳の蔵兎座。四天宝寺の金太郎、そして立海の切原。眼差しを向けられて、ようやく彼らの顔つきも変わる。来年も彼らは同じ舞台で相対することになるのだ。謙也たちとは異なり、戦いはまだ続いている。
「ほんま、何でおまえらが合宿に参加しとるん? 訳分からんわ。手の内曝すような真似して、随分余裕やんなぁ」
「ひでぇ言い方だな。その態度はいけねーなぁ、いけねーよ」
「まぁ、青学と氷帝はええんちゃう? せやけど他はあかんやろ。こないなとこ来る暇あったら、部活に精を出せっちゅう話や」
「はぁ!? さっきから聞いてりゃ勝手なことばっか言いやがって! 俺は上に行くんだよ! それの何が悪い!」
「頭が悪いんやないか? ほんま阿呆すぎてええ加減にしてほしいわ」
怒鳴り散らす切原に対して、財前は睥睨した態度を崩さない。言葉はいつだって辛辣で、率直で、それが財前だった。見ているものが違うのか、見えているものが違うのか。いつだったか呟いた謙也に白石が苦笑しながら返した言葉を思い出す。あれは天才やしなぁ、誰より現実を見ようとしとるんやろ。そう、白石は言った。
「おまえがいくら上に行ったとこで、他の部員が弱かったら話にならん。中学テニスは団体競技や。ぶっちゃけ強い奴が三人おれば勝ち進める。せやから青学と氷帝はええ。三年が抜けても、全国トップクラスが三人残るんやからな」
理詰めで考えれば、それは確かに正論なのだ。強い選手が三人おり、彼らがシングルスで勝利すればダブルスをふたつ落としても勝ち進むことが出来る。団体競技において、それは真理だ。だが、だからこそ考えもしなかった輩もいるのだろう。切原だけでなく真田も目を剥いていたし、分かっていても目を逸らしていたのか悔しさに唇を噛み締めている選手もいる。千石は複雑そうな表情で苦笑していたし、乾と柳はノートに走らせていたペンを同時に止めていた。ざわざわと小声がさざなみのように広がる中で、謙也は手摺りを握り締める。強い選手が三人いれば勝てる。馬鹿みたいに理不尽な、団体戦の真理だ。
「三年が卒業したら、立海で残る有名選手はおまえだけやろ? あとの部員で海堂や桃城に勝てる奴がおるんか? おまえがシングルスで一勝したかて、後の四つを落としたら立海は敗退や」
「っ・・・!」
「それはうちかて同じや。金太郎がおる分、まだマシやけどな。俺と金太郎で二勝して、あとの一勝は他の奴に任すしかない。せやから俺は、こないな合宿に参加したないねん。手の内曝して勝つ確率減らすなんや阿呆やし、そないな時間あったら他の部員しごいたるわ。チームの底上げが来年の全国に繋がる」
「ちくしょう・・・っ」
「人間離れした先輩らおると、ほんま苦労するわ。おまえも精々三年の栄光に潰されんようにするんやな」
「財前・・・・!」
言い過ぎや、そう一歩を踏み出そうとした謙也の腕を白石が引いた。代わりに自分が前に出て財前を振り向かせる。合宿でも外されなかったピアスがきらりと輝いた。その顔には相変わらず表情がなくて、ただ綺麗なだけだった。
「財前、気ぃ済んだんならさっさと帰り。旅費は足りるん?」
「夜行バスにでも乗るっすわ。ほんま、足代くらい出してもらわんと割に合わんわ」
「オサムちゃんによろしゅう伝えてな」
今度こそコートから出てきた財前の肩を、白石はぽんと軽く叩いた。ネットを挟んだ向こう、打ち震えるようにして立っている切原はひとりで、観客席でジャッカルが近寄るべきかどうか迷っているようだったが、幸村が視線で部員たちを止めていた。財前の投げた一石は大きすぎる波紋を呼ぶだろう。数日前の中学生同士の潰しあいゲームで、手塚が海堂に、跡部が日吉に教えたのが「部長」として在り方なら、柳が自ら棄権することによって切原に教えたのが「牽引者」としての在り方だった。けれど誰より「勝利」への在り方を考えていたのは、間違いなく財前だろう。その目にはもはや来年の夏しか映っていない。ベンチからジャージとドリンクを拾い上げる姿に、金太郎がちょこちょこと纏わりつく。
「光ー? なぁ、ワイはどうすればええ?」
「おまえはここにおったらええやろ。戻っても俺は相手できへんし、おまえも他のやつ鍛えるなんて器用な真似できへんしな。ここで少しでも強うなってきたらええ」
「おん! 分かったで!」
「全員ぶちのめしてこんかったら、四天宝寺の敷居は跨がせへん。覚悟しとき」
「任せとき! ワイ、必ず代表になって帰ったるでぇ!」
思えば、金太郎は日ごと不機嫌になっていく財前にも自然体で話しかけていた。野生の勘で危険を察知しそうなものだが、ふたりの付き合いは小学生の頃からだというから慣れているのかもしれない。もしかしたら金太郎は、財前の性質を理解しているのかもしれない。じり、と謙也の胸を焦燥が募るけれども、テニス部を引退し、ダブルスパートナーを解消した今、何を言う権利も謙也にはないのだ。ちらりと向けられた視線に目が合い、息を呑んでいる間に財前はまた他所を向いてしまう。踏み出された足に、自然と他の選手が道を開けた。
「ほな、お先に」
あっさりと財前は合宿から去った。今の己の名誉よりも、来年のチームの栄光を取ったのだ。誇らしいと思うけれども、言いようのない心中に謙也は拳を握り締めた。財前の行動は正しいのだけれど、そうやないやろ、と怒鳴ってしまいたい気持ちもある。これで自分たち三年が卒業したら、財前は一体どうなってしまうのだろう。頼もしいダブルスパートナーであるはずの後輩の未来が、謙也は心配で仕方なかった。同じ年に生まれたかった。初めてそう思った。
あいつを、ひとりにしてしまう。
2010年5月30日(title by hazy)