「謙也さん、ちょお面貸してほしいっすわ」
生意気な、それでも可愛がってきた後輩に、声をかけられて振り向いた。
君は泣いた、世界はぼくに笑えと言った
がん、と衝撃は脳天に響いた。痛みは遅れてやってきて、奥歯が軋むと同時に切れた唇の端がひりひりと痺れ始める。思わず指先を寄せればぬるりと血が伝った。民宿の裏手、アスファルトの上に転がった謙也を街灯がぼんやりと映し出す。いてぇ、と身体を起こして見上げれば、立つ財前の耳元で五色のピアスが夜に光る。
「なっ・・・何やねん、財前! 藪から棒に!」
「うっさいっすわ。ちゃんと面貸せ言うたやろ」
「面違いやろ! おまえ、俺に恨みでもあるんか!」
「ないと思うとるんすか? へぇ?」
声が余りに冷ややかで、反射的に謙也の背筋が震える。眼前の、己を殴りつけた財前は、確かに愛想の良い後輩とはお世辞にも言えないけれど、それでもこんなに冷たい眼差しを同じテニス部の仲間に向けることはなかった。小春とユウジのダブルスを貶すときでさえ、呆れが大半だったというのに。ぐ、と謙也は顎を引き、唇を拭う。立ち上がってハーフパンツの汚れを叩いて落とせば、身長差は逆転して財前を見下ろす形となる。それでも睨みあげてくる視線のきつさは変わらない。この、気の強さが財前の証であり、謙也のダブルスパートナーの特徴だった。
「あんた、何勝手に辞退しとんねん」
肩が震えた。言われる、と思っていたことだったが、こうして言葉にされると想像以上に鼓動を奪われる。今日の昼間に行われた、全国大会の準決勝。ダブルス1で組まれていたオーダーは、謙也と財前だった。四天宝寺はラブルスと呼ばれる小春とユウジのペア以外は、割合と自由にオーダーを組み替えられる。相手チームに対抗できる相性やら、監督のオサムが単に試したいふたりだとかが試合ごとに組まされるのだ。そんな中で謙也と財前は、数少ない固定されているダブルスペアだった。天才的な感覚を有する財前は誰にも邪魔されないシングルスプレイヤーとして強みを発揮する傾向にあったが、それでも謙也とのダブルスは部内でも一・二を争う強さを誇っていた。だからこそ今日の準決勝でもダブルス1を任され、ふたりは並んでコートに立つ予定だった。だが現実は異なり、謙也は千歳にその座を譲り、財前はただ黙って見ていることを命じられただけだった。
「・・・・・・すまんかった」
謝らなくてはいけないと、謙也自身も思っていた。プライドの高い財前のことだ、千歳と手塚という「無我の境地」の使い手同士の戦いとはいえ、何もするなと言われてさぞや自尊心が傷ついたことだろう。しかも最悪なことに、チームも負けてしまった。財前の中学二年生の夏は、非常に中途半端な形で終わってしまったのだ。せめて謙也が出ていたのなら、少なくとも財前とてまともにプレイが出来ただろうに。
「せやけど、あれは仕方なかったんや。俺より、千歳の方が強い。強い奴がコートに立つんが当たり前っちゅーもんやろ?」
「そうすか。せやから辞退したんすか。パートナーの俺に何も言わんで、ほんまあんたええ度胸っすわ。ダブルスの鑑やないんすか?」
「なっ・・・! わ、悪かったっちゅーとるやろ! ほんま悪かった! すまん! ・・・ちゅーかこれ、俺やなくて千歳が殴られるべきなんちゃう?」
「ただでさえ気にしとる千歳先輩に、これ以上追い討ちかけろ言うんすか。鬼やわぁ」
「何で俺だけ殴られなあかんねん! 扱いに差ぁありすぎるやろ!」
「あんた、オサムちゃんから俺んこと任されとるんやろ。せやったら当然やないすか。ほんま、チームも負けるし最低っすわ。まぁこれで謙也さんとの縁も切れたんやし、そう考えれば悪いもんでもないんやろうけど」
「・・・・・・は?」
目を丸くした謙也を馬鹿にしたように、財前は鼻で笑う。拒絶するような冷たさは姿を消していたが、今度は嘲笑めいた笑いが財前の唇に登った。縁が切れた? どこで? いつ。
「当然やろ? あんた、これで部活引退するやないすか。せやったら俺らのダブルスも解消や。あんたは中三やけど、俺は中二。来年の夏がある」
残酷な言葉は、じりじりと謙也に現実を知らしめる。まだ昼間の熱が残っているアスファルトも、徐々に夜の涼やかさに染まっていく。そうして、一日一日と夏は終わりへと近づいていく。太陽が激しさを失ったとき、謙也はテニス部を去らなくてはならない。謙也に来年はない。謙也に、財前と共にコートに立つ来年はやってこない。財前の視線が、ふと逸らされる。横顔が嫌に大人びて見え、謙也の胸の内に言いがたい焦燥が広がり始める。昼とは違う。財前は僅かに残っていた幼ささえも削ぎ落とし、険しい眼差しで先を見ている。謙也の見れない未来を。
「来年、俺はシングルスで全国に来る。あのゴンタクレを使いこなして、今度こそ四天宝寺が全国制覇や。俺はひとりで、勝利を勝ち取ったる」
あんたなんか、おらんでも。そう、無言のうちに聞こえた気がした。
謙也が財前と初めて会ったのは、去年の春だった。まだ初々しい新入生たちが仮入部でテニス部にやってきた中、やけに上手い奴がおるなぁ、と思って眺めていた相手が財前だった。まだ身長も低くて、いかにも「子供です」といった一年生の中で、財前は確かに浮いていた。そのときからすでにつけていたピアスだけが理由ではなく、どこか周囲を小馬鹿にしている雰囲気だとか、十二歳には思えない淡々とした物言いだとか。何より、そのずば抜けたテニスの実力は誰の目から見ても明らかだった。天才だと囁かれるのは早かった。二年で部長の責についていた白石は「ええルーキーが入ってきたなぁ」と喜んでいたし、謙也自身も「うかうかしてられへん」と緊張感を覚えたのは今でも良い思い出だ。財前はめきめきと頭角を現し、秋の大会ではレギュラーに名を連ねた。年上相手だろうと遠慮なく軽口を叩き、時に吐き捨てる生意気さも「勝ったモン勝ち」を謳う四天宝寺では許された。財前は可愛がられていた。本人はそれを嫌がったりもしていたけれど、素直ではない後輩を、確かに謙也たちは可愛がってきた。だが、最後の最後で謙也は財前を裏切ったのだ。
「・・・・・・すまん」
「謝るなら最初からすんなや、ボケ。・・・・・・俺がどんな気持ちで、あんたと組んでたと思うねん」
声は縋りつくようになってしまった。財前は街灯を睨みつけて、小さく小さく呟く。謙也はその横顔を泣きそうな面持ちで見つめる。
オサムに、ダブルスを組めと言われたのは新人戦の直後だった。財前はその時点ですでにシングルスプレイヤーとして認められていたけれども、四天宝寺はただでさえ多岐に亘る選手層を有している。オールマイティな白石に、スピードの謙也。「才気煥発の極み」を用いる千歳に加えて、パワー勝負なら銀がいる。相手チームによってオーダーを入れ替えることは当然であり、そうすると控えに回ることになってしまう財前の才能を惜しいと考えたのだろう。だからオサムは謙也とダブルスを組ませることによって、財前という「天才」を無駄なく有効に使おうとした。謙也は別に嫌だとは思わなかった。それまでにも時に白石や銀とペアを組むことがあったから、ダブルスにも慣れている。しかしちらりと隣を見てみれば、財前はそれはそれは嫌そうな顔をしていた。先輩の女子たちに騒がれている綺麗な顔をこれでもかというほどに歪め、表情だけで「冗談はお笑い講座だけにしてほしいっすわ」と語っていた。意外に顔に出るのだと再認識して思わず噴出せば、射るように睨み付けられた。そうして謙也と財前のダブルスは始まった。
年上なのだから、自分がリードしなくては。謙也がそんなことを考えていられたのも最初のうちだけだった。同じコートに立って初めて分かる「天才」と呼ばれる資質。財前の性格を考えれば半分は意図的なのかもしれないが、そのゲーム運びはずば抜けてセンスが良かった。意表をつく動きが、いくつも先のポイントに繋がる。手首の柔らかさや狙い打つスマッシュの正確さ。スピードでは誰にも負けないと誇る謙也でさえ、味方であるはずの財前のプレイに翻弄された。足を引っ張り、ポイントを失うことが何度もあった。その度に財前は不愉快そうに眉を顰め、すまん、と謙也は謝るしかなかった。別にそれくらい予想の範疇っすわ、という言葉に情けなかったり悔しかったり、何度も何度も唇を噛んだ。
財前と組むダブルスは、謙也にとって負担が大きかった。自分が如何に凡人なのかを否応なしに突きつけられる。苦しいと言葉には出さなかったけれども、白石はきっとそんな謙也に気づいていたのだろう。俺からオサムちゃんに話そか、と言ってくれたことがあった。それでも首を横に振ったのは意地だったのかもしれない。負けて堪るかという気持ちで、謙也は財前と共にコートに立った。厳しい冬だった。
『―――あんた阿呆っすわ。誰もあんたに俺と同じ動きなんか期待してへんし。あんたはその足で、俺が見送ったボールを全部拾っとればええんすわ』
春には少し早い日だった。ぐるぐると出口のないスランプに陥っていた謙也に、財前があっさりと告げたのは。小春とユウジではないが、少しでも感覚を分かち合いたくて帰り道を共にしていた。財前は元より口数の多い方ではないので喋るのはもっぱら謙也だったが、一瞬の沈黙を破って放たれた一言は静かで、強烈で、遅れて謙也の脳を揺さぶった。ぼろっと零れ落ちた涙を慌てて拭った。泣いていることなんてバレバレだっただろうけれども、財前は言及してこなかった。それは、確かに、財前からの歩み寄りだったのだ。謙也のスピードを認めていてくれた。ダブルスパートナーとして、認めていてくれたのだ。後輩のたかが一言に、馬鹿みたいに謙也は感激してしまった。ふたりで、ダブルスをやるのだと。そう言ってくれている気がした。
「・・・・・・高校、で」
「阿呆やないすか」
「おまっ、最後までそれかい! ええか、高校で待っとるからな! もっぺんダブルス組むで! 今度こそちゃんとや!」
財前の理解者になれるのは自分だけだと己惚れた。遠慮のない物言いが増えた。時に蹴りまで飛んできた。うざいっすわ、と何度貶されただろうか、今やもう分からない。それでもそんな態度こそが財前に気を許された証であり、白石にも「懐かれたなぁ」と笑われたくらいだ。ひとりを好む財前とペアを組めるのは自分だけだと、そんな馬鹿みたいなことを謙也は信じていた。財前がパートナーとして認めていたのは、謙也だけなのだと分かっていたはずなのに。
「阿呆やわ。あんた、ちゃらい見た目しとるけど頭ええんやし、高校もそこそこんとこ行くんやないんすか? 受験勉強なんか俺したないし」
「ちゃらいは余計や! スポーツ推薦もあるやろ!? なぁ、同じ高校来い!」
「そんなん受けたら三年間テニスに拘束されるやないすか。願い下げっすわ」
「だったらどないせいっちゅーんや!」
「留年すればええんちゃいます?」
しらっと言い切った財前の横顔が、拗ねているのだと理解できるほどに近くにいた。慕われていたのだと、己惚れではなく信じたい。ぐっと拳を握り締める謙也を、ようやく財前が見上げてくる。表情は相変わらず面倒くさそうで、紡がれる言葉はいつだって辛辣で、そして率直だった。
「あんたとのダブルス、まぁまぁ楽しかったっすわ」
「・・・っ・・・」
「受験勉強、頑張ってください」
一歩下がって、財前が背を向ける。ひらりと振られた左手は寂しいほどにあっさりとしていて、引き止めたくて謙也は手を伸ばしてしまった。指先が触れ合って、けれどすぐに弾かれるように叩かれる。ぱん、と音は夜に響いた。財前は振り向かなかった。謙也はただ、その硬質な背中を見つめるしか出来ない。明日に向かって歩み始める姿は、もはや謙也や白石たちの庇護を離れたのだ。これから先、財前はひとりで歩いていかなくてはならない。四天宝寺の肩書きと伝統をその肩に背負って、チームを率いなくてはならないのだ。謙也はもう財前の隣には立てない。夏は、終わったのだ。
「・・・・・・すまん・・・」
それ以外の言葉がなかった。スニーカーの踵を履き潰して、財前は裏口から民宿へと戻っていく。開かれた扉の向こうは蛍光灯の明かりが眩しすぎて、謙也の目が眩んだ。情けなくて涙が出そうだ。結局最後の最後まで、自分は彼の足を引っ張ってしまった。奥歯を食い縛り、手のひらを握り締める。それでも財前はやはり謙也の愛した後輩であり、尊敬するダブルスパートナーだった。素直じゃないことなんて、最初っから知っていた!
「阿呆。言うことがちゃうやろ」
「っ・・・・・・今までありがとうな、財前! 高校で待っとるで!」
「言い過ぎや。まぁでもお疲れっした。・・・謙也さん」
パタンと閉められたドアを謙也は見送った。財前の姿がなくなって、緊張の糸が切れたようにずるずると身体がアスファルトへと崩れ落ちる。今更になって殴られた唇の傷が痛みを訴え続けていることに気づいたけれど、それよりも苦しいのは胸であり、心であった。膝を抱え込むようにして背中を丸める。堪え切れず滲んだ涙がジャージの裾に吸い込まれていった。感謝が溢れ出て止められない。いつだって救われてきた。最高のパートナーだった。
謙也の、四天宝寺での夏が終わる。財前光と組んだダブルスは、こうして最後を迎えたのだ。
青学VS四天宝寺のD1には、ちょっと思うところがあったので。関西弁はすみません・・・。
2010年5月26日(title by hazy)