夕方五時の密室
柳生と仁王の家は、駅で三つ離れている。しかし同じ沿線上にあり、直線距離で結べば四キロメートルほどと案外近しいものだった。立海にはふたりとも電車で通っているが、柳生は三学期に入ってからこっち、自宅の最寄り駅より三つ手前で降りるようにしている。定期券の範囲内なので料金に問題はない。帰る時間が遅くなってしまうことは家族や家政婦に対して申し訳なさも感じるけれど、どうか許して欲しかった。部活なので仕方がない、それと仁王と会っているので遅くなると正直に告げれば、逆に家族は簡単に認めてくれた。冬休みの最終日に自宅に遊びに来た仁王を、どうやら柳生の家族は全員が気に入ったらしい。人見知りしがちな妹でさえ「におうくん」と名を呼ぶくらいなのだから、相当好意的に受け入れられている。くすりと、思わず柳生は笑ってしまった。
「思い出し笑いする奴は、えっちらしいぜよ」
「おや、それは知りませんでした」
「何考えてた?」
「仁王君が、髪を黒にするべきなのか、服装はカジュアルでいいのか、手土産は洋菓子と和菓子のどちらがいいのかなど、いろいろ気を使ってくださったことを」
「・・・さっさと忘れるナリ」
「忘れませんよ。とても嬉しかったのですから」
素直に返せば、仁王はそれ以上の反論はせずに柳生の隣に座る。それでも僅かに眉間に皺が寄っていて、表情が少しだけ消えていたから、照れているのだと柳生には分かった。可愛いひとだ、と知られたらこれまた拗ねられそうなことを心中で囁く。
待ち合わせは、柳生の帰り道の途中、仁王の最寄り駅。混雑している駅前から一本入った通りにある小さな公園。コンビニエンスストアが近くにあり、意外と静かなそこのベンチで、ふたりは顔を合わせる。一緒に来ることはない。俺らのことは秘密ナリ、と悪戯に提案したのは仁王で、いいですよ、と企みに笑って乗ったのは柳生だ。だからふたりは部活中は必要以上に会話を交わさず、素知らぬ振りを貫いている。たまに、たまに、視線があって、瞳だけが和らぐのを知っているのは互いだけだった。
「どうじゃ、テニス部は。慣れてきたんか」
「そうですね、練習にはついていけそうです。ランニングと筋力トレーニング、素振り、どれも余裕を持ってこなせます」
「俺がしごいたんじゃ、当然ナリ。おまん、今日は真田を見とったじゃろう」
「ええ。素晴らしいプレイヤーですね、彼は」
「見るのはええが、吸収たらいかんぜよ。フォームなら柳の方が基本に忠実じゃ。忠実なだけなら幸村もそうじゃが、あれは別格ナリ」
「幸村君は基本に忠実というより、テニスに忠実といった感じがします。規則正しく、すべてのボールを打ち返す」
「奴曰く、『返せない球はない』らしいぜよ」
「科学的に考察するなら、確かにボールが消失しない限りそうでしょう。ですが幸村君は、彼自身の才能を含めて仰っているのでしょうね」
「『自分に』返せない球はない、っちゅーことか。流石は『神の子』様じゃのう」
口では斜に構えたことを言っているが、仁王が幸村をはじめとした「ビッグスリー」と呼ばれる一年生三人を認めていることを、柳生は知っている。認めているからこそ彼らに対抗するための武器として柳生を見初めたのだし、実力の片鱗を垣間見せてわざわざ真田を打ち負かしてみせたのだろう。もちろんそこには八つ当たりも含まれていただろうが、自分はここにいるのだと、あれは紛れもない仁王からのメッセージだった。足元を掬ってやるぜよ、という挑発。可愛いひとだ、と柳生はやはり仁王を思う。
「部活でダブルスの練習が出来るようになるまでは、特訓を続けた方が良さそうじゃのう」
「お願いします。私のプレーもまだまだ形になっていませんし」
「ゲームメイクは見とるだけでよか。癖が出来たら困るしのう。こういう試合運びがあるんか、ということだけ頭に入れとくナリ」
「今日、初めて桑原君と話をしました。努力家で、感じの良い方ですね」
「大別するなら真田と同じ分類じゃ。愚直で、騙し甲斐があるようでないぜよ」
「素直で、と言って差し上げればよいのに」
「俺の勝手ナリ」
ぷい、とそっぽを向いて、仁王はベンチから立ち上がる。手慰みに食べていたらしい飴の包み紙をゴミ箱に捨て、子供用の小さなブランコに足をかける。立ったまま漕ぎ出せば、鉄の錆びれた音に紛れて、声は微かにしか届かない。
「・・・浮気は、いかんぜよ」
今度こそ柳生は声に出して笑ってしまった。
「そんなものするわけないでしょう。私は仁王君一筋なのですから」
ぐん、と勢いをつけてブランコを漕ぎ、そのまま最高点で手を離して仁王は宙を舞い、軽やかに着地する。それが可能だと分かっているからこその行動だ。すべてが計算通りなのだろう。ポケットに手を突っ込んで、どうやら機嫌は上向いたらしい。ぴよ、と仁王はまるで子供のように鳴いた。
それからふたりは海岸に向かい、約一時間の練習をしてから、また駅で別れる。密やかに繰り返される逢瀬は高揚を帯び、学校の廊下で互いに無視して擦れ違うことさえ官能めいた事柄に変える。現状を楽しんでいる自分を、確かに柳生は感じていた。それはゴルフ部にいたときには得られぬ快感だった。
仁王と柳生の放課後ラブラブタイム。お金がかかってないところが学生らしいポイント。
2011年2月25日(title by hazy)