今は君の手の温もりを





柳生にテニスを教えるに当たって、仁王はまず徹底した基本を己でプレーして見せた。柳生は「目」から習得を始める。それは彼の持つ異端のひとつであり、仁王にも言える共通点だった。イリュージョンを使う仁王は、他のプレイヤーを微細に亘るまで観察し、その技術だけでなく試合運びや戦略、時には心情や思考パターンまでをも再現してみせる。もちろんそれは仁王自身の高い能力があって初めて可能となることだったが、仁王は特別意識して他人の技を練習することはなかった。単純に練習しなくても「出来る」のだ。「見て」十分に「考察」し、何をどうすれば「再現」出来るのかが分かる。仁王はその能力が自身に与えられた天賦の才だと理解してた。そして同じように「目で見て」、何をどうすればいいのか「理解」し、己の身体で正しく「実行」することが出来る柳生も、同じ才能を有していると確信していた。だからこそ仁王は、自身の身体で基本を柳生に示してみせた。ふたりに共通していることは、脳が命令するままにミリ単位で身体を動かすことが出来る、その点だった。
「まずは頭で理解して身体に命令を下しんしゃい。それを何度も繰り返せば、命令するよりも先に身体が動くようになる。おまえさんのことじゃ、冬休みで十分に基礎が身につくぜよ」
練習は仁王の部活が終わった後に、海岸沿いの陸橋の下で行われた。ストリートテニスコートを占領するわけにはいかないし、おおっぴらに見られるのをふたりは良しとしていない。少し薄暗いけれど、アスファルトの上にコートと同じサイズのラインを引き、壁にはネットと同じ高さの線を描いた。壁打ちをする仁王を、まず柳生がじっと見つめる。体育の授業でハードル走をやったときと同じように、柳生は目で情報を得てから、己の身体でそれを体現する。だから飲み込みが早く、成長が著しい。おそらく何をやらせても人並み以上にこなす性質は、悪く言えば模倣なのかもしれないが、仁王に限ってそれは褒め言葉だ。個性など、基礎を身につけてしまえば自然と現れてくるものなのだから。
「ラケットの面にボールを当てる角度で、飛んでいく威力や方向をコントロールするのはゴルフと同じですね」
「得意じゃろ。おまんは器用じゃからのう」
「問題はどちらかと言うと、一試合走り続ける体力になりそうです」
「パワーは問題ないし、走り込みでもするか。タイヤを引き摺って砂浜を百往復じゃ」
「毎日朝晩にランニングをしますよ」
ラケットを振り抜くと、ボールは壁に当たって再び手元へと返ってくる。一度、二度、三度、同じく柳生の足元へ戻ってくる。正確なコントロールだ。フォームも全く同じで、一寸の乱れもない。今日、仁王は壁に片手を広げた程度の丸を描いた。ここに当てんしゃい、と言って二時間。すでに柳生のボールは円の外にすっぽ抜けることがない。さすがナリ、と仁王はつくづく感心する。
仁王が部活に勤しまなくてはならない間も、柳生はここでひとり練習をしている。日毎どころか時間単位で進化していくのだから、見ていなくても十分判る。もちろん自宅で家事の手伝いや部屋の掃除などを済ませてから来ているらしいが、いつだって柳生は仁王よりも先にこの場所にいた。おそらく仁王が待たされるのが嫌いだということを理解しての行動だろう。仁王は誰かを待つという行為が嫌いだ。期待を裏切られた気持ちになるからだ。そしてそれ以上に、柳生に対しては不安を抱いてしまうから。そんな仁王の心情を見越して、常に先に来ていてくれる柳生を愛しいと思う。こいつは誰にもやらん、と仁王は子供のようなことを思うのだ。
「コントロールは十分そうじゃのう。そろそろラリーでもしてみるか」
「よろしくお願いします」
「俺がおまんを左右に走らせるから、おまんは俺のところにボールを返しんしゃい。形になるまで続けるぜよ」
「判りました」
眼鏡のつるを押し上げる柳生は、うっすらと汗を流している。ぽんぽんとボールをラケットで弾いて、仁王はコート分の距離を取った。ネットはないが、このくらいの高さ、ということでペットボトルを重ねたものを数本並べてある。とりあえず三割程度の力で仁王はサーブを打った。シューズを鳴らして柳生が走り、ボールを打ち返してくる。それは仁王を一歩右に移動させなくてはならず、逆方向へと打ち返せば、今度はちゃんと動かなくても取れる位置に返ってきた。ボールがラケットを離れた瞬間に、柳生の身体は次の位置へと走り出している。しばらくはコートの限界まで左右に振って、その後は緩急をつけて、強さを変えて、そうしたらいきなり前後に振ってやろう。慌てるだろうが、柳生のことだからきっと着いてくるに違いない。くく、と仁王は思わず笑ってしまう。
本当は部活を休んで、ずっと練習に付き合ってもいいのだ。どちらかと言えば仁王の希望はそちらだ。部活なんて大したこともしないし、柳生のいないテニス部などつまらなくて堪らない。しかし「俺も一日付き合うぜよ」と冬休み初日に言ってみたところ、柳生は「部活に出てください」と主張して頑なに譲らなかった。唇を尖らせてもそれは変わらず、文句を連ねる仁王に呆れたように溜息をついて、柳生は言った。私のせいであなたが悪く言われるなんて耐えられないのですよ、と。それに三学期からは私もテニス部に入部して、仁王君とダブルスを組むのですから、出来る限りテニス部からの心象は良くしておきたいのです、とも。その言葉を聞いて、やっぱり俺にはこいつしかおらん、と仁王は冬休みに入ってから何度も実感していることをまたしても確信した。愛に満ちていて、しかしそこには純粋な計算があって、それでもすべてが正しく美しい。酷く理想的だ。心からそう思う。
「のう、柳生」
「何ですか、仁王君」
「帰りに何か食べて帰るぜよ」
「でしたら、私のうちへいらっしゃいませんか? 家族も仁王君に会いたがっていますので」
「・・・・・・それ、は、また今度にするナリ。心の準備が必要じゃ」
「冬休み中には来てくださいね。妹も心待ちにしていますから」
ラリーを続けながらの会話に、こいつは心理戦もいけそうじゃ、なんてことを考える。試しにボールを前に落としてみたら、柳生は仁王のラケット面から判断したのだろう。ボールが軌道を変えるより先に、走る方向を前へと変えていた。何から情報を得ればいいのか、それを悟るのが柳生は上手い。こいつは人に愛されるじゃろうなぁ、とぼんやりと仁王は思いを馳せた。だけど、その柳生に選ばれたのが自分なのだ。俺は誰にも愛されんでよいから、柳生がおればええ。そう思う仁王は、もはや己が戻れないことも自覚していた。





仁王と柳生の共通点は「見ているだけで模倣できる」ことだと思ってます。目から情報を得て、練習せずともかなりのレベルで実践に移せるタイプ。
2010年8月22日(title by hazy