蝶よ、花よ、きみは誰より美しい





柳生の家は、医者一族だと言っても良い。父親は開業医で内科を診ており、母親は外科を専門としている。一緒に住んでいる祖父も耳鼻科医としてなお健在だし、叔父や叔母など、主だった親戚は大抵が医師や看護師、あるいは助産師などの医療関係に従事していた。だから柳生は、自身がいずれ彼らと同じ道を行くだろうと幼い頃より信じていた。中学生となった今では並大抵の努力なしにつける仕事ではないと理解しているが、それでも将来は医師になりたいと考えている。強制されてのことではない。ただ自然に、その選択が己にとって最良なのだと思えるからだ。昔からそうだった。柳生は、自分にとっての最良が何なのか、無意識のうちに理解し行動することが出来るのだ。
「事後報告になってしまいましたが、ゴルフ部を退部しました。三学期からはテニス部に入部しようと考えています」
仕事柄、全員揃って食卓を囲むことは余りない。開業している医院を年末年始の数日だけ休みとし、家族全員が集まったのは十二月も残り数日になった頃だった。冬休みが始まって、すでに一週間近くが経っている。個別に顔を合わせることはあったが、全員揃った夕食の場で、柳生は最近の己における一番の変化を報告した。今日の夕食のメニューは鍋だ。簡単で、たいした手間がかからない。柳生の母は余り料理が得意ではなく、多忙なこともあって平時は家政婦を雇っている。それは今年七歳になった妹の面倒をみてもらうことも含まれており、帰宅した柳生を出迎えてくれる初老の婦人は、もはや柳生家の一員といっても良い。しかし流石に年末年始は彼女も自身の家族と共に過ごしており、柳生の母は慣れない料理に悪戦苦闘する羽目になった。そんな母親の傍らで、柳生も数品の小鉢を作った。返却期間を超えていた仁王がようやく返した、簡単お手軽レシピ集からの引用である。
「珍しいなぁ。比呂士が一度決めたことを覆すとは」
茹って透明になった白菜を掬い、ポン酢の入った皿へと落とす。柳生の父は、髪の色こそ栗色で同じだけれども、優しい目尻と柔和な雰囲気を持つ男だ。柳生の眼鏡に隠した切れ長の目つきは、勝気な美人だと評される母親譲りである。
「あら、残念。今度一緒にラウンドしようと思ってたのに」
「そのくらいならいくらでもお供しますよ。ゴルフが嫌いになったわけではありませんから」
「じゃあどうした? テニス部に何か興味を引くものでもあったのかい?」
「興味を引くもの・・・。そうですね、ダブルスを組みたいと思う相手と出会いました。それがテニス部に入る理由です」
妹の手からお椀を受け取り、鍋の具を取って渡してやる。ありがとう、と笑う妹は母親譲りの黒髪と、父親似の優しい瞳を持っている。対極が受け継がれた兄と妹は、それでも並ぶと確かに血縁なのだと近所では評判だった。さて自分も、と箸を握ったところで柳生は、三方から注がれている視線に気がついた。父親と母親と祖父が、どこか唖然とした表情で見つめてきている。
「ダブルス・・・?」
「ダブルスって、あれよね・・・? ふたりでやる、二対二のテニスでしょ?」
「だ、大丈夫なのか、比呂士? いや、比呂士が器用なことは知ってるけれど」
「―――相手は、おまえに耐えられる子なのか?」
動揺している両親よりも、祖父が低い声音で尋ねてくる。ふっと柳生の唇が綻んだ。家族は柳生のことをきちんと理解してくれている。中でも、祖父は格別だった。意図せずして行われる善行がどんなに相手を惹きつけるかを、それでも捧げる博愛があくまで人類愛の域を出ないことを、柳生の生まれつきの性格についてゆっくりと諭してくれたのが祖父だった。おまえは愛に満ちている、だからこそ愛される。けれどおまえは誰も愛することが出来ないだろう。それは寂しいことかもしれないけれど、幸せなことでもある。おまえは一生、人の中で生きていける。そう厳かに告げて、優しく髪を撫でてくれた祖父の手を、柳生は今でも覚えている。
「・・・ええ、おそらく。少なくとも私は彼に決めたのです」
眼鏡を通してまっすぐに見つめ返せば、祖父は少し沈黙した後に僅かに微笑み返してくれた。ありがとうございます、と心中で礼を述べて、柳生は箸を動かし始める。
「名前は?」
「仁王雅治君といいます。私と同じ立海の一年生で、とても真面目な人です。自分の定めたルールは決して曲げない、その矜持の高さに惹かれました」
「今度つれてきなさい。是非会ってみたい」
「はい。仁王君は人見知りをするくせに他人との距離を測るのが上手い人なので、最初は戸惑うかもしれませんが」
「その、仁王君とやらがな」
「ええ」
くすりと笑って、かぼちゃの煮物に箸を伸ばす。そぼろ餡をかけたものだが、割合と美味しく仕上がった。仁王君は濃い味と薄味、どちらが好みなのでしょう。そんなことを考えているうちに、両親も驚きの淵から帰ってくる。母親が目を瞬いて大きく息を吐き出した。
「びっ・・・くりしたわ! 比呂士がそこまで言うなんて、余程素敵な子なのね。お父様の言う通り、今度連れていらっしゃい。何なら泊りでもいいわよ」
「そうだね。診察が終わるまで待たせてしまうのも悪いし。仁王君は子供は好きかな? 比佳梨とも遊んでくれそうかい?」
「そうですね、お姉さんと弟さんがいると聞いていますので、年下の扱いには慣れていると思います。それに私の妹ですから、比佳梨さんとも仲良くなれるかと」
自分の名前が出たことで、話題を振られていると思ったのだろう。顔を上げた妹は不思議そうに目を瞬いて家族を見上げてくる。両親が共働きをしているからか、小学校一年生にしては落ち着いた静かな子だ。その頬を優しく撫でて、父親が笑いかける。
「今ね、比呂士に親友が出来たって話をしてたんだよ」
「しんゆう?」
「そう。一番のお友達。今度比佳梨も会わせてもらおうね」
「・・・おにいちゃん、比佳梨も、いい?」
首を傾げて許可を求めてくる妹に、柳生も頷いた。
「もちろんですよ。仁王君は私の自慢のパートナーですから。近いうちにお連れしますね」
「うん。たのしみにしてる!」
和やかに夕食が過ぎていく。冬休みに入ってからずっと、柳生は仁王からテニスの特訓を受けていた。今度はその後にでも、自宅へ誘おう。一緒に夕飯を取って、少しだけ夜更かしして互いのプライベートな姿を見せ合おう。年が明けたら初詣にも行きたいし、やりたいことは沢山ある。今までだってそれなりに大切にしてきた季節の行事も、仁王とならまた違った楽しみを見つけることが出来るだろう。あぁ本当に、胸が高鳴って仕方がない。
柳生は誰にでも親切であろうと決めている。意識せずともそう動くことの出来る身体は、確かに万人に愛されるものだろう。それでは、心は誰のものなのか。
ふふ、と唇から笑みが零れた。後で仁王君にメールをしましょう。そんなことを考えながら、柳生は家族と共に熱い鍋を囲むのだった。





妹は比佳梨(ひかり)さん。仁王はおそらく、とんでもなく緊張して柳生家の敷居を跨ぐことになる。黒髪に染めるべきかのう・・・とか真面目に考えるくらいに。
2010年8月8日(title by hazy