いつか神に祈る日が来ても、幻滅しないで傍にいてくれる?





「よぉ」
「ああ、こんにちは、仁王君」
踏み入れた図書館の、相変わらず静寂と少しばかり薄暗い棚の間にその姿はあった。距離を置いて、約一ヶ月。空白などなかったかのように、気軽に挨拶をしてくる柳生に仁王は内心で顔を歪める。二学期の終業式を終え、冬休みを迎えるだけの今、図書館には人気がない。当番も今日は柳生ひとりらしく、カウンターには「席を外しています」の札が置かれていた。だけど、いると分かっていたから、仁王は足を進めてきた。いくら本に埋もれていようと、髪一筋さえ露見していればすぐに気づける。久方振りに会う、そんなことを思う。
「レシピ集はいかがでしたか?」
「姉貴が作ってたぜよ。摩訶不思議な物体が出来上がってたのう」
「お手軽簡単誰にでも、が売りのはずだったのですが」
「無理やり食わされてる弟が気の毒だったナリ」
「弟君に押し付けて逃げたのですか? 悪いお兄さんですね」
くすりと、柳生が笑う。つられて頬を緩めそうになって、おまえは何しに来たのだと脳が言うから、中途半端に顔が引き攣る。らしくない。爆発しかけていた憤りが、何故か消えてしまっている。真田を前にしたときには、あんなに嬲ってやろうと思っていたのに。昨夜、ベッドの上で決めたときには、あんなに傷付けてやろうと思っていたのに。いざ、柳生を前にして、苛立ちはすうっと波のように引いてしまった。そのことが更に仁王を動揺させた。愕然とし、目の奥すら熱くなる。どうしてくれよう。どうしてくれよう、本当に。
「ねぇ、仁王君。私の話を聞いてくれませんか?」
立ち尽くす仁王の耳に、柔らかな響きが届く。視界は床と上履きの先だけが占めていて、そこでようやく仁王は自分が項垂れていることに気がついた。柳生の姿は見えない。それでも声が聞こえるから、きっと傍にいるのだろう。図書館だというのに、利用者がいないからか、声量は潜められてはいなかった。しっかりと仁王の元まで届いてくれる。
「私が、仁王雅治という存在を知ったのは、まだ立海に入学して間もない頃でした。組こそ違いましたが、あなたは髪の色がとても目立ちますから。教師から注意されているのを何度も見かけました。今でも時折、染め直すように言われているでしょう?」
「・・・これは、俺のポリシーじゃ。変える気はなか」
「そうですね。私も変えなくていいと思います。他人に迷惑をかける行為ならともかく、髪の色くらいなら自分で責任を取ることが出来ますから。そういった理由で、私は仁王君のことを知っていました。あなたが私に気づく、ずっと以前から」
暖房がかかっているはずなのに、肌寒い。窓の外は十二月だ。立海に入学して、半年以上。柳生は仁王を知っていたという。仁王が柳生の存在を認識する、ずっと前から。視界に柳生の上履きが映る。定期的に持ち帰って洗っているのか、学期末だというのに綺麗な爪先だ。
「ですが、私が明確に『仁王雅治』を認識したのは、夏のことでした。テニス部が全国制覇を成し遂げて、凱旋してきた日のことです。私はゴルフ部の練習が終わって帰宅する途中で、あなた方と擦れ違いました。優勝旗を手にしていた幸村君を見て、一年生ながらに素晴らしい人だと思いましたよ。仁王君、あなたは最後尾を歩いていました。だらだらと暑さに溶けそうな足取りで、面倒くさそうに」
「・・・実際、面倒じゃったんじゃろ」
「そうかもしれませんね。ですが、擦れ違う瞬間にあなたは呟いたのです。小さく、一言。―――『あれは俺のものじゃない』、と」
思わず目を見張った。身体がぎしりと軋み、視線を持ち上げそうになる。どうにか堪えたその先で、柳生のネクタイがきちんとワイシャツの上に鎮座している。仁王と、同じ色のネクタイだ。いつから、柳生は自分に気づいていたのか。いつから見ていてくれたのか。
「全国制覇で部全体が湧き上がっているのに、あなただけが冷静でした。じっと優勝旗を見据えて、唇を歪めた横顔と擦れ違ったときに理解したのです。厚顔無恥だと詰っていただいても構いません。それでも私は、仁王雅治という人は、渇望する人だと思ったのです。他人に与えられるものに満足しない、プライドの高い人だと」
確かに、覚えている。優勝旗を掲げて学校に戻ってきたとき、仁王は最後尾からテニス部を眺めていた。先頭を歩く幸村と真田と柳を、レギュラーを眺め、自分が試合で勝利したわけでもないのに喜んでいる部員たちを眺め、馬鹿馬鹿しいと思っていた。この栄光は仁王のものではない。戦ってもいないのだから、差し出されようと受け取らない。来年か再来年には、必ず自分の手で掴んでやる。そう考えていたのだろう自分が、簡単に想像できる。
ゆるり、のろのろと、仁王は顔を上げた。同じ目線の高さに柳生の眼鏡がある。瞳は見えないが、そのことに仁王は心底安堵していた。今、柳生の瞳に映る自分は、酷く情けない顔をしているだろうから。形の良い唇で弧を描いて、柳生は仁王に微笑みかける。
「いつかこの人は、自らの力で全国制覇を果たすだろう。そんな確信を私はあなたに抱きました。それからずっと、気になってしまって目で追っていたのです。仁王君、あなたはいつだって無気力を装い、実力をセーブしていましたが、それでもテニスに対してだけは誠実でした。だからこそあなたが『武器』として私を候補に選んでくれたとき、本当に嬉しかった」
分かっていましたよ、と柳生は雰囲気だけで伝えてくる。理解されている。その事実が、歓喜が、仁王の四肢を満たし始める。誰にも理解されたくないと思っていた。今でもそう思っている。それでも、誰かひとりが分かってくれている、その真実はこんなにも甘美なものだったのか。泣く代わりに眉を顰めて、仁王は手のひらをきつく握る。その指先すらもはや熱い。
「上を目指すあなたの、手助けをしたかった。我侭を言うのなら、あなたの隣に立ちたかった。あなたと同じ景色を見てみたかった。試合に勝って、優勝を自ら手にした瞬間、あなたはどんな風に笑うのだろうかと、何度だって考えました。図書館で初めて話しかけられたとき、私がどんなに嬉しかったか、あなたは知らないでしょう? 内心では必死だったのですよ。仁王君は私の憧れでしたから」
「・・・そんな、大層なもんじゃなか。俺は」
「いいえ。あなたは、あなたが思っているよりもずっと、真面目で優しい方です。ただ少し臆病なだけで」
言い当てられた心に、そんなことはないと反抗する一方で、やはり泣きたくなるほどの安堵に溺れる。はぁ、と仁王は息を吐き出した。感嘆なのか溜息なのか、もはや自身にも分からない。分かるのはただ、柳生が目の前にいるということだけだ。
「あなたが何を恐れているのか、何となく想像はつきます。ですが気づいてください、仁王君。柳生比呂士という人間をここまで乱したのも、あなたが初めてなのですよ。私は誰に対しても優しくありたいと思っていました。人に順位をつけるなんて、そんなことはしてはいけないと思っていました。けれどもう、遅いのです」
手のひらが伸ばされる。いつか感じた美しさは、やはり損なわれていなかった。大きな手だ。仁王を丸ごと包んで囲ってしまいそうな、大きな手だ。指先は宙で止まり、それ以上は近づいてこない。仁王の身体が動く。左腕が収縮し、肘の間接がブリキみたいにぎこちなく動いて、一瞬止まり、躊躇い、漂う間も、柳生の手のひらはずっと待っている。顔は見れずに俯き、仁王は歯を食い縛って目を閉じた。柳生の優しく微笑む気配がした。
「奇跡みたいだと思いませんか? 私と仁王君はきっと、出会い、共にある運命なのですよ」
―――そこまで言われて、もはや手を取らないことなど出来なかった。勝手に苛立ち、八つ当たりまでした自分が馬鹿みたいに思える。それでも最後の反抗にみせかけて、仁王は叩きつけるようにして己の手を柳生のそれに重ねた。初めて触れ合うのに、まるでずっと昔から知っていたかのように肌に馴染む。他人の体温など気持ち悪いと思っていたのに、思い切り四本の指を握り締めてやった。
「・・・・・・おまんは、必ず後悔する日が来るぜよ。厄介なもんに見初められたとな」
「仁王君こそ、必ず疎ましく思う日が来ると思いますよ。私は存外に面倒な性格をしていると言われることが多いので」
「そんなもんはとっくに知っとるぜよ。でなきゃ俺との会話についてこれるわけなか」
「意識しているわけではないのですけれどね」
「意識しとったら極悪じゃ、おまえさんは。人の心を土足で踏み躙りおって。責任取りんしゃい」
「どんな風に?」
くつり、仁王の笑いに、くすくすと柳生の声が重なる。分かりきっているのに言葉にしたがるのは、やり取りが楽しくて堪らないからだ。指だけを握っていた手を離し、今度は手首を丸ごと捕まえた。皮膚を通して鼓動が伝わる。顔を上げ、仁王は唇を吊り上げて柳生の顔を覗き込んだ。嬉しそうな表情に、仁王まで勝手に嬉しくなってくる。
「ねぇ、仁王君。言ってください。でないと私は明日からの冬休みも、ゴルフ部の練習に出なくてはなりません」
「仕方ないのう。柳生がそんなに言うなら、言ってやってもよかよ」
「お願いします、仁王君」
あなたの口から、ちゃんと聞きたい。求められることがこんなに嬉しいのかと、仁王は初めて知る。もちろんそれは、相手が柳生だからだろう。求めている相手に求められることこそが喜ばしいのだ。手に入れた。武器ではない。けれど武器として例えるならば、最高の日本刀であってマシンガンであって、そして最強の盾だ。生涯共にあるべき存在。ならば、言葉で表すのはやぶさかではない。始まりの言葉を仁王は告げる。
「柳生。ゴルフ部を辞めて、テニス部に入りんしゃい。俺とダブルスを組め」
「はい。喜んで、あなたのパートナーになりましょう」
手のひらを握る。嬉しくて、心が浮き足立って、仁王は右手でズボンのポケットから携帯電話を取り出した。片手で開いて電話帳を操作する。登録ナンバーの00番は自宅だったが、それをすぐさま消去した。こんな些細なことでさえ誰より優先したかった。
「冬休みの間に俺がしごいちゃる。メルアド教えんさい。携帯番号もじゃ」
「分かりました。ですが、携帯電話は鞄の中です」
「携帯は携帯せんと意味ないじゃろう。俺は夜中でもメールするぜよ。返事をもらうまでは寝んからな」
「私は基本的に十一時には就寝しますので、それ以降は控えてください。代わりに朝は目覚ましメールを送って差し上げますから」
「おまん、俺の相棒じゃろ。気合見せんかい」
「取り繕ったところで無意味でしょう。私もあなたも、自然体のままで良いのですから」
「今日の当番は何時に終わるんじゃ」
「利用者もいないことですし、司書の方にお願いすれば帰らせてもらえるかもしれません」
「おまんのそういう計算高いところ好きナリ」
「光栄です、と言うべきでしょうか」
「スタバに寄ってくぜよ。その後はショップじゃ。ラケットを見繕ってやる」
「それなら、その前に銀行に寄ってください。それとゴルフ部に退部届も提出しないと」
「俺が書いてやってもよかよ」
「いえ、私が書きます。せめてそのくらいしないと失礼ですから」
それならさっさとするナリ、と手を引いてカウンターに戻る足取りが弾んでいることは、仁王にも分かった。感じる温度は確かで、振り向けばそこに柳生がいるのだ。その存在を得たことが何より嬉しくて、軽口がぽんぽんと仁王の唇から放たれる。返される言葉がこれまた仁王のテンポそのままだからこそ、止まらない、止まらない。
「柳生」
「はい」
「柳生」
「はい」
「やぎゅー」
「はい。ここにいますよ、仁王君」
望み通りのものが返される。その幸福は恐ろしいほどだけれども、喪失に怯えるより手放さない努力をすれば良いだけだ。この手を離すことはないだろうと、仁王は思う。隣に柳生がいる。それは仁王にとっての真理に思えた。生涯の相手じゃ。理解者を得たことに馬鹿みたいに浮かれる。中学一年の、冬のことだった。





次からはラブラブ(あながち間違ってない)にお&やぎゅが登場します。
2010年8月1日(title by hazy