全てはもう遅かった
「最近、F組の柳生と親しくしているらしいな」
情報を得て裏付けをとり、確率を限りなく百パーセントに近づけてから動くのが柳の強みであり弱みでもある。そう、仁王は考えている。今日も今日とて図書館に入り浸り、部活に遅れた罰として外周を終えて戻ってきたところだった。タオルで汗を拭い、ラケットを手にして素振りに混ざろうと一歩を踏み出した瞬間にかけられた声。レギュラーはサーブ練習じゃなかったんか、と本日の練習メニューを思い出しながら振り返れば、そこにいたのはやはり柳だ。男子にしては滅多にない、おかっぱの黒髪が風に吹かれ艶めいている。つい、と仁王は何となく自身の前髪の長い部分を引っ張った。立海に入学する前に染めた銀色は、我ながら気に入っている。もちろん激しく校則違反で、未だ教師は良い顔をしていないけれども。
「達人(マスター)がサボりとは珍しいのう。明日は槍が降るんじゃなか?」
「明日の降水確率は十パーセントだ。雨の代わりに槍の降る確率はゼロパーセントと言ってもいいだろう」
「何じゃ、つまらんのう。せっかく部活が休みかと思うたんに」
「おまえが図書館に出入りし、柳生と接触を持っていることは調べがついている。一体何が目的だ?」
「おまん、ストーカーか? 人のプライベートまで調べて楽しいんか、データマン様は」
「図書館に入り浸ることで、おまえの部活に参加する時間が減っているのは事実だろう」
「うっとうしいぜよ。レギュラーじゃないんじゃ、別に構わんじゃろ」
「来年のレギュラー候補を遊ばせておくほど、立海も余裕が有るわけではない」
来年のレギュラー候補。柳は今、そう言った。仁王の唇が吊り上がる。イリュージョンも見たことがないくせに、トリックプレイも片鱗しか見たことがないくせに、どこからそんな判断を下したのか。愚かしくて堪らない。笑いが堪えきれなくて背中を丸めれば、柳が細い目を更に細める。ひらり、仁王は手を振った。
「柳生とは、本の貸し借りで知り合っただけナリ。あいつの薦めてくる本が俺の趣味に合うんじゃ。じゃからあいつがおるときに図書館に通っちょる。まぁ、部活に遅れるのは悪いとは思ってるぜよ」
「・・・そうか」
「マスターこそ柳生と知り合いなんか? クラスは違うじゃろ」
「俺も図書館をよく利用するからな。柳生とは一学期の頃から話をする仲ではある」
「ほう」
なるほど、どこから伝わったのかと思えば、柳生自身から仁王の情報が柳へと流れていたのか。直接的過ぎてつまらない。もっと間に何人も挟むか、いっそ煙に巻くかくらいのことをしてくるかと思ったのに。興醒めじゃ。そんなことを考えて、仁王は自分自身の感情にはっとした。いつからこんなに、柳生に期待を寄せるようになっていたのだろう。ランニングフォームを見たときか、運動神経のよさを認めたときか、記憶力の異常さを知ったときか、それとも理解されていると察したときか。拙い。仁王は反射的に、己の口元を手のひらで覆う。これは拙い。何がかは分からないけれど、非常に拙いことになっている気がする。今更ながらに仁王の鼓動が速まっていく。そんな仁王の動揺に気づいているのか、気づいていても指摘してこないのか、柳は話し続ける。
「ふむ。俺はてっきり、仁王はテニス部を見限ってゴルフ部に入部するのかとばかり考えていたが」
「・・・・・・は? ゴルフ、部?」
「柳生はゴルフ部に所属しているだろう。だからてっきり」
違うのならいい、邪魔をしたな。柳はそう言って自己完結し、さっさと去ってしまったが、仁王は二度目の衝撃に襲われて呆然と後ろ姿を見送ってしまった。否、すでに柳の姿など意識から外れていた。あぁそうか、と今更ながらに思い出す。仁王とて、評価に値する存在がいたのなら、例え相手がすでに部活に所属していようと引っ張ってこようと考えていたではないか。だから柳生がすでにゴルフ部に入部していたとしても、何ら問題はないはずだ。ただ図書館で会う時間が自然すぎて、柳生が部活に入っているなど考えもしてみなかっただけ。拙い。仁王の額にじわりと汗が滲む。視野が狭くなっている。己のリズムが乱されている。ぎり、と奥歯を握り締め、仁王は力の限りラケットを握り締めた。他人に己を乱されることは、仁王が最も嫌う行いだった。
あの図書館だけの彼が、すべてではないと分かっていたはずなのに。
2010年7月18日(title by hazy)