神のみぞ知る箱庭の中
週に二度、柳生は図書委員として放課後の当番を務めている。一学年十クラス以上あり、その各組に図書委員がふたりはいることから鑑みるに、柳生の当番の頻度は高いのではないかと仁王は思う。しかし、好都合は好都合だ。仁王は帰りのホームルームが終わると、少しの間を教室でだらだらと過ごし、時間を見計らって図書館へと向かう。テニス部はすでに集合して準備体操を行っているのが窓から見えたが、まぁ遅れて行っても罰走くらいで済まされるだろう。幸か不幸か仁王はまだレギュラーではないし、それを期待されるほどの実力も見せ付けてはいない。しかし柳生という武器を手に入れた暁には。くく、と肩を揺らして、仁王はテニス部に背を向ける。
「やぎゅー」
「こんにちは、仁王君」
図書館の扉をくぐれば、すぐにカウンターに座っている柳生の姿が目に入る。今時校内で「こんにちは」などと挨拶してくる同級生が果たして何人いるものか。今日は隣に同じ当番の女子生徒がおり、彼らの手元には入荷されたばかりの本が数冊と、貼り付けるらしいバーコードが並べられていた。女子生徒が仁王を見止めて、ふわりと会釈をしてくる。ネクタイの色からしてひとつ年上で、けれど柳生の隣に並ぶには相応しい落ち着きを持った少女だった。仁王の言えたことではないが柳生の放つ雰囲気もすでに中学一年生のものではないので、並ぶふたりは非常に似合いのカップルに見える。女子生徒は派手ではないが、やはり質のよい整った印象を受けた。
「それじゃ柳生君、片付けてくるね」
「いえ、本は重いですし、私がやります。カウンターをお願いしてもよろしいですか?」
「いつもごめんね。ありがとう」
「女性に重労働などさせられませんから」
立ち上がり、柳生は女子生徒から本を受け取る。余り拒絶をせずに仕事を任せたところを見ると、こういったやり取りは何度となく行われたのだろう。ふふ、と柔らかく微笑む女子生徒の顔はどこか困った様子を浮かべながらも嬉しそうで、罪作りな男じゃな、と仁王は呆れざるを得ない。柳生の博愛は万人に広く注がれるのだ。この女子生徒だけでなく、本を借りたいと申し出てきた男子生徒にも、申し訳なさそうに仕事を頼んでくる図書館司書にも、ありとあらゆる存在に対し柳生の優しさは注がれる。もちろんそれは仁王にしても例外ではなく、柳生は常に誰に対しても親切だ。正しすぎて何だかのう、と仁王はむず痒く感じることもある。
「今日はどんな本を借りに来たのですか?」
棚に向かう柳生の後をひょこひょこと着いていけば、小声で話しかけてくる。邂逅からこっち、柳生が当番の際には必ず顔を出し、カウンター越しに話しかけるようにしていたから親しくなるのは簡単だった。もちろん、まだ顔見知り程度の間柄ではある。それでも交わす会話はやはりレスポンスが早く、含みを持たせてもその裏を確かに理解し、言葉を返してくるやり取りが楽しくて仕方がない。仁王は頭の良い人間が好きだ。テストの順位ではなく、無意味な手間を取らせない、的確な反応を返してくる人間が好きなのだ。
「そうじゃのう、今日は料理の本がよか」
「お菓子でしょうか、それとも本格的な料理ですか?」
「どちらでも構わんぜよ。栄養学の本でなきゃな」
「それではレシピ集ですね。仁王君は料理をされるのですか?」
「見てるだけで満腹感を覚えるのが、写真の良いところじゃと思わんか?」
「美味しそうだと感じたら作ってみたくなるのが普通だと思いますけれど」
くすりと笑って、柳生は「料理の本はこちらです」と棚の間に身体を滑り込ませていく。狭くはないが、広くはない、擦れ違うことが可能といった幅の通路は、両側にそびえる本棚の高さによって見ている以上の圧迫感を覚える。蛍光灯さえも僅かに遮られ、少し薄暗い図書館独特の雰囲気は柳生に酷く似合っていた。同じ目線の高さにある横顔に、仁王はいっそ惚れ惚れとしてしまう。
「和食、洋食、どちらがお好きですか?」
「中華がええのう」
「それではトルコ料理にしましょうか」
「柳生は料理するんか?」
「両親が共働きをしていますので、時々は。凝ったものは作れませんけれど」
「食ってみたいナリ」
「人様にお出しできるようなものではありませんよ」
これではまるで友人同士の会話のようではないか。そんなことを考えて、仁王はまた笑い出しそうになる。柳生の敬語は昔からの癖らしい。他人行儀じゃのう、と唇を尖らせてみれば、すみません、と些か困惑したように返されたのは記憶に新しい。一人称は私。おまんは本当に男子中学生か、と仁王は呆れてしまう。柳生という人間は不思議だ。こんなにも普通で、正しく、派手なのに地味で、有能なのに目立たない。こいつを俺の手で引きずり出してやりたい。そんなことを仁王は思う。スポットライトの当たる舞台で、柳生は一体どんな風に立ち回るのか。きっと仁王の期待を上回ってくれるだろう。そんな確信がある。
「こちらなどいかがです?」
一冊の本を棚から引き出して差し出してくる。テーマは和食でも洋食でも中華でもトルコ料理でもなく、「一人暮らしに役立つお手軽料理」になっていた。ぱらぱらとめくってみれば、フルカラーで手軽に出来そうな料理が所狭しと載っている。写真は大きく、レシピは短く簡単。気が向けば仁王でも作れそうなメニューが多く、最後の方にはちょっとしたデザートも並んでいた。
「柳生は酢豚にパイナップルは入れるんか?」
「私の家では入れますね」
「うちでは入れん。あれは邪道じゃ」
「一見合わないと思うような組み合わせが合うことは意外と多いですよ。一度試してみてください」
「柳生が作ってくれるなら食ってもええのう」
「最近は料理の出来る男性が人気のようですが」
「柳生は人気者じゃ」
「仁王君に人気があっても」
小さく笑い、柳生は「それでは私は委員の活動がありますので」と抱えていた本を棚に入れるために離れていく。その後ろ姿を見送って、仁王は開いていたレシピ集を閉じた。柳生は賢い男だと、仁王は心底そう思う。今まで会話もしたことのなかった存在が近づいてきて、何らかの意図を持って接してきていることなど、とうに気づいているのだろう。そうありながらも仁王の戯れに付き合い、所望する本を選んでくれる。おかげで仁王はここ最近、図書館の常連だ。薦められた本もちゃんと借りて帰り、目を通している。柳生が選ぶ本はいつだって、きちんと仁王の好みに沿っていた。理解されている。そう判断した瞬間、背筋に走ったのは何だったのだろう。
「・・・本当に、恐ろしい男じゃ」
探っているようで探られている。この、不可思議な感覚を何と表現したら良いだろう。言葉を交わす度に理解と不理解が同時に生まれる。底が見えない。面白い。楽しい。楽しい。
仁王は初めて、他者に対して興味を覚えた。思えばこの図書館で過ごした僅かな時間が、すべての始まりだったのだ。
これではまるで、友達のようではないか。まるで普通の、ただの普通の。
2010年7月11日(title by hazy)