狙いを定めて、外さないでね
「この本を返却したいんじゃが、どうすればええんかのう」
さりげなさを装い、カウンターの向こうにいる柳生に声をかけた。時は放課後。仁王は図書館を利用するタイプではないので、もちろん本を借りたことはない。なので適当な棚から適当な一冊を引き抜いて、柳生の前に偽って問いかけてみれば、本日の図書当番である彼は顔を上げて仁王を見てきた。柳生比呂士は図書委員。どこの男子だったか女子だったか忘れたが、手に入れた情報のひとつを利用して仁王は柳生に接触した。ああ、と納得した顔で頷き、柳生が手を差し出してくる。
「こちらで返却の手続きをしますので、渡してくだされば結構ですよ」
でっかい手じゃ。仁王はそんなことを思う。指の腹を上に向けて差し出された手は、女子のように細いものではなかったけれど、綺麗だとそんなことを思わせる。大きくて、節くれだった間接ひとつとっても芸術品のように見えるのは、色が白いからだろうか、それとも爪がきちんと整えられているからか。ラケットを握りやすそうな手じゃ。そんなことを考えながら、仁王は柳生の手のひらに本を載せた。確かに、と柳生が受け取る。しかし仁王は本から手を離さなかった。
「あの・・・?」
不思議そうに柳生が見上げてくる。眼鏡はどんな細工がしてあるのか、不思議とその向こうの瞳を映さない。それが柳生を地味に見せている一因でもあるのだろうと仁王は考える。柳生比呂士という人間は、整った容姿をしているくせに派手ではないのだ。だから印象が薄い。目という感情が最も表れる部分を明かしていないからこそ、その傾向は更に強まる。しかし仁王は、どんな相手でも本質を読み取れる自信があった。例えばテニス部なら横柄な真田よりも柔和な幸村の方が、実は支配者の素質を秘めているといった、そういうもの。
一冊の本を互いに握り合い、唐突に仁王は力を込めて本を手前に強く引いた。大抵の場合、相手はその動きについてくることが出来ず、反射的に引き摺られるか、もしくは引き摺られまいと自分も力を込めてくるかの二択に分かれる。しかし柳生はそのどちらでもなかった。彼はぱっと手を離したのだ。ブレザーの裾から覗いている手首の筋肉の収縮を見て、これは反射ではないと仁王は見切った。柳生は仁王が本を引き寄せることを察知し、自ら手を離した。仁王が動き始めてから判断したというのなら、それは素晴らしい反応速度だ。この男は駆け引きを知っている。確信が更に仁王を興奮させた。柳生は期待を裏切らない。しかも更にその上をいく。面白い、純粋にそう思う。
「返却されるのではないのですか?」
「いや、返却じゃ。それと新しい本を借りたいんじゃが、場所が分からん」
「本の題名は? もしくは著者の名前を」
「『好奇心には道徳がないのである』」
「それは三島由紀夫の著書、『仮面の告白』の一節ですね」
「ほう。タイトルは忘れてたから助かったナリ。そんじゃ『潔癖さというものは欲望の命じる一種のわがままだ』も分かるかのう?」
「それも同じく『仮面の告白』の一節ですよ。三島由紀夫がお好きなんですか?」
「いんや、印象的だったから覚えとっただけじゃ」
「日本人小説家の棚は、ここをまっすぐ行った右手にあります。著者名であいうえお順に陳列されていますので、三島なら十八から十九番目の棚にあるかと」
「そうか。助かった、礼を言うぜよ」
「図書委員として当然のことをしたまでです」
今度こそ本を差し出せば、柳生は再度受け取った。仁王もちゃんと手を離し、カウンターに背を向けて歩き始める。文豪には悪いが、彼の作品に興味はない。ただ貸し出し手続きをしていない本を返却することに対して、柳生が首を傾げないうちに姿を消す必要があった。しかし、あの賢さ。長いとはいえない会話を反芻して、仁王はくつくつと肩を揺らす。打てば響くとは、まさにこのことではないか。知識量の豊富さはデータマンを自称する柳と良い勝負かもしれない。普通、短い一節だけで何の本かなんて図書委員どころか司書でさえも判断できない。しかしそつなくこなしてみせた、あの柳生の態度。記憶力なんて言葉では片付けられない。テストの順位など付随してくる瑣事に過ぎないのだろう。あれは異常じゃ。仁王は笑う。すべてが「正しく」て、だからこそ異常すぎる。
邂逅は上出来だ。仁王は柳生比呂士という人間を気に入った。あれは非常に面白い。
柳生は活用目的で知識を仕入れるのではなく、嗜んだ結果が知識の宝庫になってるんじゃないかと。
2010年7月10日(title by hazy)