恋はアンフェア、戦略に邪道なし





「柳生」
図書館という場所を踏まえてか、まるで囁きのような小さな声に名を呼ばれて柳生は振り向いた。本棚と本棚の間、お世辞にも広いとは言えない通路にひとりの女生徒が立っている。知己の彼女に、柳生も声量を落とした声で笑みを返した。
「柳さん」
「すまない。少し、手を貸してもらえないか? 一番上の棚にある本が取れなくて」
「分かりました。私でお役に立てるなら」
少しだけ薄暗い通路を踏み出せば、こっちだ、と言って柳が半身を翻す。彼女を追うようにして、肩で切り揃えられている漆黒の髪が光を放った。案内されたのは柳生のいた海外小説家の棚からいくつか離れた場所で、柳の好みである純文学の書物が所狭しと並んでいる。その中で、一番上の棚にある背の低い文庫を指さして、あれなんだが、と彼女は言った。なるほど、と柳生は見上げる。柳は女生徒として決して背が低い方ではなかったが、如何せん本棚が高すぎた。脚立を持って来れば取れるかもしれないが、スカートを履いている女生徒にそうさせるのは柳生のポリシーに反する。指を伸ばして背表紙に引っかけ、引き抜けば案外すんなりと手に取れた。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ。読みたかった本なんだが、ずっと貸出し中で。やっと返ってきたと思ったら一番上の棚にあるし、困っていたんだ」
差し出しだ文庫の表紙を眺めて、柳がほのかに唇を笑みに変える。中学三年生とは思えない、おとなびた雰囲気を持つ柳はとても静かに喜色を浮かべる。上品なその仕草を柳生は好ましく思っている。だからか、彼女の細く長い指先が、文庫を支える柳生自身のそれに重なったのに気づくのが遅れた。
「柳さん?」
名を呼ぶのと、とん、と軽い衝撃を受けるのは同時だった。本を持つ指に、添うように絡められている指先。一歩半の距離にあった身体が、今は柳生の腕の中にある。互いのネクタイが押し付け合って形を乱し、タイツに包まれている柳の膝小僧が、スラックス越しに柳生のそれと擦れる。首筋にはまっすぐな髪の感触を覚え、息を呑んで見下ろした先、近すぎて柳の瞳は見えなかった。囁きが、今度は直接、吐息と共に鼓膜を震わす。
「・・・ありがとう、比呂士」
唇さえ触れなかったものの、それは十分に男を惑わせる所作だった。柳生でさえ、一瞬言葉に詰まってしまう程に。その間に柳はそっと身体を離し、両手で抱えた文庫を「大切に読む」とこれまた静かに美しい笑みを浮かべて言って、棚の向こうに姿を消してしまった。僅かに翻るスカートの残像を見送り、柳生は知らず強張っていた肩を落とす。そして彼は失笑した。からかわれてしまいましたね、と。
「・・・公共の場で、あ、あのような行為をするなど・・・たるんどる!」
手続きに則って本を借り、図書館を出たところで後ろからついてきた存在にそう言われ、柳はくすりと笑みを漏らした。同じ女子テニス部に所属しており、幸村も交えて互いに親友だと思っている真田が、本棚をひとつ隔てた隣の通路にいたことに柳は気づいていた。どうやら柳生は気づかなかったようだが、これは向けられていた視線の差だろう。何しろ真田は射殺すような嫉妬の目線で、柳のことを睨んでいたのだから。
「自分には出来ないからといって、八つ当たりはいけないな」
「なっ・・・! お、俺は、中学生に相応しい節度ある交際をだな!」
「残念ながら俺は、そんな悠長なことを言っていられるほど余裕がなくてな。柳生相手なら、女としての武器も使っていくまでだ」
正々堂々、内容はともかくはっきり言い切れば、真田が言葉に詰まると分かっていての物言いだ。案の定、眉間に深い皺を刻みながらも沈黙した真田をちらりと見やって、柳は心中で呟く。俺は、おまえのようにまっすぐにアプローチすることは出来ないからな。羨ましいと思わなくもないが、個性の差だ。だとしたら持てる武器を最大限に活用することこそ、勝利への近道でもある。
身体を預けたとき、眼鏡の隙間から柳生の切れ長の目が一瞬だけ垣間見えた。ぞくりと震えた己の身体が、恐怖からではないことを柳は知っている。漏れる吐息は自然と熱を帯びる。次もまた、一番上の棚にある本を借りよう。そう画策して、柳はひとり小さく笑った。





柳は手段として身体が先でも構わないと思ってる。真田は結婚を視野に入れた交際が基本。
2010年11月28日