氷帝学園の王子様





1.日吉と向日

部活を終えて体育館を出てきた向日は、前方に幼馴染ふたりの姿を見かけて、途中だったローファーを慌てて履いた。女子テニス部の練習も終わったんだろう。ジローの頭は相変わらず眠そうに左右に揺れており、その隣では宍戸が綺麗な長い髪を風に揺らして呆れた顔でもしているのだろう。ふたりは女子だけれど、向日にとっては幼稚舎以前から付き合いのある幼馴染だ。一緒に帰ろうと思って、鞄を背負い直して駆け出そうとした。
「・・・また、宍戸さんと芥川さんと帰るんですか?」
耳に届いたのは女子にしては低めのアルトの声で、聞き覚えもあって向日は走りかけた足を思わず止めてしまう。校舎に連なる渡り廊下から出てきたのは、後輩の日吉だった。色のまっすぐなロングヘアーが特徴的で、同じ女子テニス部である宍戸やジローを通して向日とも顔見知りだ。けれど向日は、日吉のことが余り好きではなかった。好きではないというと大袈裟かもしれないが、可愛くない後輩くらいには思っていた。なので自然と表情も険しくなるし、返事も棘を含んだものになってしまう。
「だったら何だよ?」
「恥ずかしくないんですか。中学三年にもなって、異性にべったりだなんて」
これだ。日吉が話しかけてくるときは、大抵こういった生意気な内容でしかなくて、だからこそ向日もかちんと来てしまう。短気だと自覚している。それは相手が一歳年下の女の子だろうと関係なく、向日は挑発に容易く乗って反応を返す。
「うるせーよ、おまえ。男とか女とか関係ねーっつの。一緒にいたいと思う奴といて何が悪いんだよ」
日吉が唇を閉じた一瞬で、向日は彼女を睨み上げた。百五十八センチメートルしかない向日にとって、女子にしては平均より背の高い日吉を見上げることは屈辱でしかなかったけれど。
「可愛くねー女」
それだけ吐き捨てて、向日は宍戸とジローに追いつくべく駆け出した。だから彼は気づかなかった。その場に残された日吉が掌を握り締めて、そんなこと分かっています、と震える声で呟いていたのを。

(かわいくねーおんな!)





2.ジローと向日

ジローにとって、向日は幼馴染だ。性別は違うけれども大切な存在だし、親同士も仲の良いご近所さんということも手伝って、すでに第二の家族みたいな認識でもある。同じく幼馴染である宍戸は「中三なんだから、そろそろ止めとけよ」と言うけれども、今でもお互いの家に入り浸ることは茶飯事だ。特に向日の部屋はロフトがベッドの役割を果たしている分、床の面積が大きくて、絨毯の引いてあるそこに転がって寝るのがジローは好きだ。今日も学校帰りに向日の家に寄って、自宅から持ち込んだクッションを抱き締めて気持ち良さに浸っている。
「ジロー、パンツ見えてんぞ」
「岳人のえっちー」
「バーカ。短パン履かないのが悪いんだろ」
ほら、とドアを開けて入ってきた向日が、ジュースの入ったコップを差し出してくる。仕方ないから身体を起こして受け取れば、中身は果汁百パーセントのオレンジジュースだった。おいし、とふたりして笑う。
「ねぇねぇ岳人、今度の大会っていつ?」
「んー、来月のはじめ?」
「じゃあ俺、観に行くしー! 俺、岳人の床大好き! もちろん跳馬も好きだけどー」
「最高得点出してやるよ。個人優勝は貰ったぜ!」
にっと歯を見せて笑う向日は、体操部のエースだ。小柄だけども、その跳躍力は全国でも間違いなくトップクラスに分類される。バランス感覚に優れていて、向日の競技は見ているこちらが楽しくなるほどにパフォーマンス性が高いのだ。ジローは向日の舞う姿が好きだった。向日とならキスしてもいいと思うし、セックスだってしてもいいと思うけど、ただ一緒にこうしてごろごろして他愛ない話をしたりするのだって、とてもとても大好きなのだ。
「岳人も俺の試合、応援に来てよね」
「もちろん行くって。楽しみにしてるからな!」
ジローが再び絨毯に転がれば、向日も同じように横に寝転んで漫画を読み出す。さらさらの髪を横目で見ながら、岳人って男前、とジローは笑った。見かけは女の子のようなのに、この幼馴染は実に男前だ。がくと、すき。だからジローはいつだって、彼の隣でなら安心して眠ることが出来るのだ。

(宍戸嬢は思春期なので、向日の家には余り来ない。)





3.宍戸と向日

「それはおまえ・・・言い過ぎだろ」
宍戸が少しばかり呆れながらコメントすれば、向日は唇を尖らせる。先日の帰り道、やけに向日が不機嫌だったので数日おいてほとぼりが冷めた頃に理由を聞いてみたら、なんと後輩の日吉と軽い言い合いをしたという。だってあいつ生意気なんだぜ、と向日が返しに来た教科書を丸めようとするので、宍戸は慌てて取り戻す。
「日吉が口が悪いのなんて前から分かってるだろ」
「そりゃそうだけどさー。あいつ、生意気すぎね?」
「まぁ、そうだけどな」
宍戸は脳裏に、テニス部の後輩を思い描く。黒髪ではないが、大和撫子を体現しているような容姿をしていながらも、口を開けば慇懃無礼な印象を与えるのが、日吉若という少女だ。宍戸も特別懇意というわけではないが、それでも同じレギュラーとして頼りにしている。そんな日吉は、一応先輩に対する最低限の礼儀は弁えているはずだ。しかし時折、向日に対してそれが崩れることを宍戸は知っている。その理由も、何となく。
「あいつはなぁ・・・」
おまえのこと、好きなんじゃねぇの? 思わず零れてしまいそうになった一言を、宍戸は慌てて飲み込んだ。向日が不思議そうに首を傾げているけれども、こればっかりは言うわけにはいかない。けれどこの予想が間違っていないんじゃないかという確信も、宍戸の中にはあるのだ。
向日は確かに女の子みたいに可愛らしい容姿をしているけれども、れっきとした男だ。低い身長に隠されがちだけれども、その性格はとても男らしい。短気だけれど割り切るのも早いし、宍戸やジローという女子の幼馴染を持つからか、異性には自然に優しい。だから日吉が向日のことを好きになっても、何ら不自然なことはないのだけれど。
「・・・複雑だぜ」
「何がだよ」
「いや、こっちの話」
はぁ、と溜息を吐き出して、宍戸はひらひらと手を振った。胸の中でもやもやと広がるこの気持ちは、一体何なのだろうと思うけれども、気づくのはまだ怖い気もする。まさか嫉妬じゃねぇよな? そんなことを考える宍戸の向かいで、向日は遠慮なく彼女の鞄から勝手に取り出したポッキーを食べようとしていた。相変わらずな姿に苦笑してしまう。うん、まだ、幼馴染だ。

(まだ幼馴染、だよな?)





4.跡部と樺地と向日

昼食のカフェテリアは、いつだって混雑している。今日は和食の気分ということで五穀米の御膳セットを選び、向日は空いている席を探してきょろきょろと四方に首をめぐらせていた。奥にひとつだけ椅子が見え、そちらに向かって歩き進める。
「跡部、ここいい?」
「アーン? 向日か。好きにしろ」
「サンキュ! 樺地もありがとな。どこも席空いてなくてさぁ」
四人掛けの丸テーブルは、周囲から僅かに距離を取って優雅な空間を作り出している。それもそうかと向日は納得しながら椅子に座った。何せ、ここは氷帝の女王とも呼ばれる跡部の特等席だ。いつも一緒の樺地と昼食をとっている姿は、相変わらず絵になるほど綺麗で、性格さえまともならいい女なんだけどなぁ、と向日は思う。もちろんこの性格あっての跡部景吾で、そんな彼女を気に入っているからこそ向日は友達をやっているわけなのだが。
「そういや向日、おまえこの前のパーティーをすっぽかしただろ」
「げ。嫌いなんだよ、ああいうの。親父ならともかく、俺が出なくても良くね?」
「バーカ、後継者の顔を売っとく機会も兼ねてんだよ」
「でも俺、後継ぐ気ねぇし。うちの会社に就職するとしても、どうせなら技術者がいいしさぁ」
「だったら尚更だろ。子息がMECの中にいるのといないのとじゃ大違いだ。次はちゃんと親の顔を立てるんだな」
「ちぇっ。分かったよ」
これでも一応、大企業の息子だという自覚もあるので頷けば、跡部は軽く笑った。食後の紅茶も飲み終えたのか、さらりと縦巻きの髪を翻して席を立つ。おまえはゆっくりしていけ、と去っていく彼女を向日が卵豆腐を食べながら見送っていると、二人分の食器を片づけていた樺地が、ぽつりと呟く。
「・・・跡部さんはパーティーのとき、とてもつまらなさそうです。大人たちの話に付き合わされてばかりで」
だから、と樺地は続ける。
「向日さんが来てくれたら、きっと喜びます」
「・・・樺地にそこまで言われたら、行かないわけにもいかねーよなぁ。そんじゃ次のパーティーでは精一杯、景吾姫のナイト役を務めさせていただきます?」
おどけてウィンクをしてみれば、樺地が淡く微笑んだ。お辞儀をして跡部を追っていく姿を、ひらひらと手を振って見送る。堅苦しいパーティーなんて好きじゃないし、おべっかを使うのも苦手だけれど、たまにはいいだろう。女王様のエスコートをする自分を思い描いて、向日は少し笑ってしまった。

(普通の友達をやってくれる異性が向日だけなので、跡部嬢は向日がお気に入り。)





5.鳳と日吉

鳳と日吉の出会いは、幼稚舎の頃に遡る。少しばかり周囲より大人びて見えるふたりは、自然と一緒にいることが多かった。何でもべらべらと話し合うような友達ではないけれど、鳳は日吉のことを親友だと思っている。だから数日前から暗い顔をしている彼女のことが、実は気になって仕方なかった。そして半ば無理やりに理由を聞きだしてみたのだが。
「日吉・・・。そんなことばっかりしてると、向日先輩に嫌われちゃうよ・・・?」
「っ・・・分かってる。うるさいんだよ、おまえ」
苦虫を噛み潰したような顔で悪態をついてくる様子にも、いつものような覇気はない。いつだったか、鳳は日吉から聞いたことがある。向日さんの前に出ると緊張してしまうんだ、と。うまく話が出来ない。いつも心にもないことを言ってしまう。どうしたらいいのか分からない、と。姿勢の良い背中を丸めて、小さな声で内面を語った日吉を、鳳はとてもいじらしく感じていた。可愛いなぁと思うし、恋をしているんだなぁとも思うのだ。だから鳳はいつだって日吉の味方だし、彼女を励ましてきた。しかしここに来て、うーんと首を傾げてしまう。
「・・・もしかして、もしかしてなんだけど」
「何だよ」
「宍戸さんも、向日先輩のことが好きなんじゃないかなぁ」
俺の予測だから間違ってるかもしれないけどね。鳳はそう付け足したが、がばっと顔を上げた日吉にはこれ以上ないほどの悲壮感が漂っている。けれど何となく、鳳はそんな感じがするのだ。同じ女子テニス部の、尊敬する先輩。長い髪の毛がとても綺麗で、性格も格好良くて面倒見が良い。素敵な人だなぁと憧れて、幸運にもダブルスを組んでいるからこそ分かってくることもある。時折、向日のことを話してくれる宍戸の表情は、とても柔らかいのだ。内容は向日とジローがまた馬鹿なことをやったという呆れ交じりのものが多いが、それさえ楽しそうに語る宍戸の姿は、どこか日吉を彷彿とさせた。つまり、宍戸は向日に恋を。
「・・・・・・最悪だ。本当に最悪だ。宍戸さんがライバルなんて、勝てるわけがないだろう・・・!」
「え、あ、そんなことないよ! ほら、日吉がいつも言ってるじゃない。下剋上だよ!」
「だったらおまえ、宍戸さんじゃなくて俺の味方をしてくれるんだろうな・・・?」
嘆いて机にうつぶせた態勢から、ぐっと睨み上げられて鳳は思わず言葉に詰まる。親友の日吉と、敬慕している先輩の宍戸。鳳には順位なんてつけられない、どちらも大切な存在だ。ううう、どうしよう。必死に頭をめぐらせて、鳳ははたと気づいた。ぽんっと手を叩いて、彼女は「これこそ解決策!」と満面の笑顔を浮かべる。
「だったら俺も向日先輩を好きになるよ! そうしたらみんな平等だし!」
もちろんその後、怒り沸騰した日吉によって、鳳の脳天にチョップが叩き込まれたのは言うまでもない。

(鳳嬢はふわふわちゃん。)





6.忍足と向日

「侑士! おまえ、また俺をだしにして告白を断っただろ!」
休み時間、教室に乗り込んできた小さな姿に、忍足は読んでいた小説から顔を上げた。話が速いなぁ、と感心すれば、俺に氷帝で知らないことはねぇの、との言葉が返される。男女関係なく交友関係の広い向日は、確かに氷帝一の情報網を持っていると言っても過言ではない。さすががっくん、と手を叩けば、ぺしっとその指先にでこぴんを食らった。
「『小さくて可愛くて男前な、岳人みたいな奴としか付き合いたくないねん』って、おまえ俺を馬鹿にしてんのか?」
「まさか! 俺としては最高の褒め言葉やったんやけど」
「貶されてるとしか思えねーっつの。くそくそ、見てろよ! 高等部に上がったら侑士の背なんか簡単に追い越してやるからな!」
そんなことを言う向日は、相変わらず可愛くしか忍足の目には映らない。百七十センチメートルを超える彼女と比べれば、向日とはカップルの理想的な身長差だ。もちろん男女逆ではあるけれども。それ以外にも、忍足は向日が可愛くって堪らない。
氷帝で、最初に仲良くなった相手だ。大阪から東京に出てきたばかりで、氷帝学園という特殊な校風を持つ学校に馴染めず、少し距離を置いていた忍足に遠慮なく話しかけてきたのが向日だった。その頃から忍足は大人びていて、大学生の恋人がいるとか、社会人の男と付き合っているとか色んな噂があったけれども、向日はそれらを気にしていなかった。いや、仲良くなってから聞いてきたところを見ると、気になってはいたけれども、本人に直接確認するまでは噂を信じないタイプなのだろう。見かけによらず男前やな、と思って素直に「残念ながら独り身や」と答えれば、向日は「そっか」と笑って頷くだけだった。そこには下心も何もなくて、逆に忍足は驚いたことを覚えている。
ああ、こいつええ奴やなぁ。入学当時に抱いた感想は、三年の月日で「こいつええ男やなぁ」に変わっていた。忍足は向日が可愛くて堪らない。食べてしまいたくて、そして食べられてしまいたいのだ。
「何だよ?」
「いやぁ、がっくんは男前やなぁって思うて」
「褒めても何も出ねーよ。侑士もいい女だぜ?」
「おおきに」
どんなに容姿の良い男に褒められたって、向日に言われたよりも嬉しくはなれないのだから仕方はない。今は親友の位置に甘んじているけれども、いつか俺の男にしたる、と下心を隠して忍足は笑う。つまりはメロメロということだ。

(氷帝の女豹担当、忍足嬢。)





7.日吉と向日

ばんっと背中を叩かれて、日吉は衝撃で息を呑んだ。その間にも小さな身体は隣をすり抜けて、昇降口へと向かって走っていく。
「おはよ、日吉!」
赤い髪だった。小さな背中、だけど大きな背中。振り向いたりなんかしない、その潔さに惹かれた。好きで、本当に大好きで。だから。
「おっ・・・おはようございます!」
鞄の持ち手を知らず全力で握り締めながら、大きな声で挨拶をしたら、少し先で向日がくるりと振り返った。歯を見せて笑う。日吉の大好きな、大好きな顔だ。
「おお!」
大きく手を振って駆けていく。小さくなっていく姿に涙が滲んで、嬉しくて、ほっとして、日吉はこっそりと目元を擦った。放課後、ちゃんと謝ろう。今日はちゃんと、一緒に帰りませんかって、誘おう。自然と笑い、決意して一歩を踏み出す。朝日はきらきらと、少年少女を輝かせていた。

(向日さんは罪作り。)





2010年11月14日