王子様立ち入り禁止区域
四天宝寺の財前光といえば、関西男子中学テニス界では「女王様」の一言で通じる。肩を掠める黒い艶やかな髪に、同じ色の長い睫毛。少し冷たい印象を与える整った顔立ちの中で、赤い唇はつまらなさそうに結ばれている。髪の合間から覗く形の良い耳朶には五色のピアスが常に輝き、彼女の純和風の容姿を百八十度反転させる。ワンピースウェアから続く足はすらりと形よく、絶妙な曲線を誇るそれは一種の芸術とまで評された。クールとでも言えばいいのか。冷静沈着とやる気のなさを程よく同居させ、対戦相手の男たちを実力でばっさばっさと切り刻んでいくところからも「女王様」と讃えられて止まない。毒舌で高慢なところがまたいい。うっとりと語る他校の選手たちにとって、財前は高嶺の花だった。綺麗で、クールで、棘があって、そして良い意味で期待を裏切ってくれる。足蹴にされたい、椅子になりたい。そうのたまう男たちとて存在するのが、関西男子中学テニス界の実情だった。
しかしそんな女王様とて、謙也にとっては大切なチームメイトであり、大事な大事なダブルスパートナーである。今日も今日とて暇だったらストリートテニスでもしないかとメールで誘いをかけたのだが、一向に返信はない。面倒くさがりな財前だけれども、流石に仲間からの連絡を無視はしないし、忙しかったら忙しかったでばっさりと断ってくるので、無応答の現状に謙也は首を傾げた。試しに電話をかけてみたけれどもコール音が鳴るばかりで繋がらない。うーん、と謙也は少しばかり悩んだ。携帯を弄れないような場所にいるのかもしれない。だったらとりあえず財前の家に行ってみて、そんでもって彼女が不在だったら諦めて、その時はご近所さんの金ちゃんでも誘おう。さっさとそう決めて、謙也は自宅を出た。ちりりりんと自転車を走らせること二十分。
「光? あの子やったらまだ寝とるけど。ごめんなぁ、謙也君。今起こすから上がって待っとって」
扉を開けて出迎えてくれたのは、財前の母親だった。つんと澄ました表情が常の財前とは違い、よく喋る感じの良い女性である。何度か訪れていることもあるので、謙也は案内されたリビングのソファーに座ってラケットバッグを床に下した。麦茶を出されて、すんません、と頭を下げれば、ええのええの、と朗らかな笑みを向けられる。その足で母親は廊下に出て、階段の下から「光ー! はよ起きなさーい!」と声をかけた。反応はない。寝起き悪そうやしなぁ、と麦茶を啜りながら謙也がのほほんと待つこと五分。ぺた、ぺた、というのっそりとした足音に苦笑を浮かべながら振り向き、謙也はぎょっとして固まった。もしも麦茶のグラスを手に持っていたのなら、間違いなく落としたであろう硬直だった。
リビングの扉を開けて現れたのは財前だった。しかしそれは、謙也がいつも学校で会っている財前ではなかった。ストレートの黒髪が、ぴょこぴょことあらぬ方向に飛んだり跳ねたりし、寝癖で真っ白な額が露わになっている。いつもはどこか睥睨している目も、眠気のせいか違う意味でとろんとしており、文句を言うことの多い唇も今は少しだけ開いたままだ。何より、格好が違った。試合で纏うワンピースのテニスウェアでも、練習で着るジャージとハーフパンツでも、制服のスカートでも、私服のおしゃれな格好でもない。だるだるっと裾の伸びているタンクトップに、ふわふわもこもこのショートパンツ。柔らかいピンク色の水玉模様は、はっきり言って財前の持つクールな雰囲気とは縁遠い。胸を押し上げている膨らみはブラジャーをつけていないのか常より柔らかで、無防備に晒されている足はレッグウォーマーもスリッパも履いておらず、小さな踝がちょこんと存在を主張している。少しばかり猫背なのはやはり寝起きだからか。うにゅーという効果音さえ発しそうな態で、財前は目元を擦っている。眠そうな顔がゆっくりと持ち上げられ、窓から入る日差しが眩しいのか目を眇める。その視線がのろのろと動き、硬直している謙也と重なった。
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・ざ、財前?」
反応がなくて謙也が恐る恐る声をかけると、半分瞼の降りていた財前の瞳がかっと見開かれる。そうして唇は限界まで開かれ、謙也は彼女の声なき叫びを聞いた気がした。一瞬後には、実際に物凄い叫び声が鼓膜を震わせたのだけれども。光、叫ぶんやないのー。二階で洗濯物を干しているらしい母親の声が、やけに場違いに聞こえる。
「なっ、何で謙也さんがおるんすか!? ここ、俺んちやで! あんたんちは別やろ阿呆!」
「あー・・・えーと・・・」
すまん。言い訳もせずに謙也は謝ったが、財前はぴゃっとキッチンに隠れたまま顔だけを出している状態だ。それでも寝癖だらけの髪は丸見えだし、露わになっている額は新鮮でどこか幼い印象を受けて堪らない。細い眉は怒りに吊り上っているのに、謙也はぷるぷると震えそうになる拳を堪えるので精一杯だった。その間も財前はキッチンから噛みついてくる。
「・・・約束、何もしてへんっすよね?」
「お、おう。あれや、暇やったらストテニ行かへんかなー思うてメールしたんやけど、返事がなかったから直接来てもうたんや」
「普通、返事来んかったら諦めるやろ。勝手に人んち上がりよって」
「す、すまん。えーと・・・すまん」
ここで「寝起きも可愛えよ」とでも言おうものなら、間違いなく天岩戸状態になってしまう。部屋から出てこなくなる財前が容易く想像出来て、謙也はとりあえず謝り続けるしかなかった。すすす、と財前の頭がキッチンに引っ込んで見えなくなる。それでも恨めしい声だけはリビングの謙也の元まで届いてきた。
「最悪や。最悪すぎるわ。謙也さんに寝起き見られるなんて・・・。部活のひとが来てるっちゅーから金太郎やと思うて慢心しとった。そうや、金太郎やったらおかんが部活のひとっちゅーわけないわ。最悪や。ほんま最悪や・・・」
こないな姿見られるなんて。呟きに謙也は思わず笑ってしまった。
いつもクールに決めている財前の、こんなに気の抜けた姿を見られるなんて思ってもいなかった。というか、寝起きの財前があんなに隙だらけの姿をしているなんて、一体誰が思っただろう。しかし彼女もやっぱり中学二年生の女の子なのだ。女王様なんて呼ばれて、いつもは毒舌で先輩を先輩とも思わないようなことを言うけれど、無防備な一面もちゃんとある。人前にあるときは格好つけていたいらしい財前の可愛らしい顔を知ってしまって、謙也は何だかとっても嬉しくなった。顔が自然と綻び、出す声は知らず甘くなる。
「ええとな、財前、俺は何も見てへんから」
「嘘や。あれだけ大口開けて見といて今更何言うとんねん」
「財前が忘れろっちゅーなら忘れるし。なぁ、ストテニ行かへん? 昼もどっか外で食おうや」
「・・・俺、今日は新譜買いに行くつもりなんやけど」
「せやったら先にショップ寄ったるし。チャリで来とるから速いで?」
「・・・善哉、奢ってくれます?」
「しゃーない。今日だけ特別や」
笑えば、キッチンの壁から再び財前が小さく顔を出す。相変わらずの白い額に、眉間に皺を寄せて睨み付けてくるけれども、そこにもいつもの迫力はなくて謙也は噴き出しそうになるのを堪えなくてはならなかった。拗ねている様は子供のようで、彼女が自分よりもひとつ後輩なのだということを今更ながらに感じ入る。
「忘れてください。今朝のことは記憶から消去してください。誰かに言うたり、今後蒸し返したりしたら謙也さんとはダブルス解消するんで。ほんまに、絶対誰にも言うたりしないでくださいね」
「ん。約束や」
「・・・着替えてきます」
ぴょこんと額が引っ込む。キッチンから洗面所を経由して廊下に出るルートがあるのか、財前はリビングを横切らなかったけれども無防備な踝が一瞬だけ垣間見えた。リビングの扉を何気なく気にしていれば、駆け足で財前が通り過ぎていく。相変わらずふわふわもこもこの気の抜けたピンクの水玉ウェアだ。だけど、可愛い。可愛い。可愛すぎて謙也は堪え切れずソファーに突っ伏した。ぷるぷると震える拳はもはや耐えるのが限界だ。高速で鞄から携帯電話を取り出してメールを開く。ぴこぴこぴこぴこ、と文字を打ち込んで送る先は東京の従兄弟だ。送信してから脱力し、ソファーに顔を押し付ければ冷たくて、自分がどれだけ真っ赤になっているのか否応なしにも知らされる。だけど、あれは。
「反則やろ・・・!」
クッションを抱き締めて、謙也はじたばたとその場で悶絶するしかなかった。もう少ししたらやってくる財前は、きっと隙のないいつもの彼女だろうけれども、もはや謙也には可愛いとしか思えないだろう。うわああああ、と他人の家にも関わらず、謙也は床を転がった。何しとるの、と財前の母が不思議がって聞いてくるけれども、ちょっと答えられそうにない。めっちゃ可愛え。謙也はその日、ダブルスパートナーの愛らしさを心身ともに再認識したのだった。
確かに財前ちゃんの足は国宝級や。せやけどうちのがっくんのほうがかわええ。とかいうメールが返ってくる。
2011年3月20日