握った掌に、海堂はぎょっとした。思い切り態度に出てしまったのだろう。向日が眉間に眉を顰めて、大きな目で不愉快そうに睨みあげてくる。
「何だよ?」
「あ、いや・・・ちいせぇな、と・・・」
「はぁ!? 馬鹿にしてんのかよ!」
つい率直な感想を漏らしてしまった海堂に、向日の目が更に吊り上る。その強さといったら、まっすぐさといったら、海堂をたじろがせるには十分過ぎた。握手に重ねられている手にも怒りのためか力が籠る。誤解されたことを悟り、違う、と海堂が慌てて弁解しようとしたが、それよりも先に隣で日吉と握手を交わしていた乾が笑った。
「ははっ! 分かるよ、海堂。俺もこうして同じコートに立ってると、向日が女の子だってことをつい忘れる」
今度はきょとんと、向日が目を瞬く。指先の力が緩まって、ゆっくりと海堂を振り返って見上げる。そうなのかと無言で問われている気がして、海堂は二度ほど首を縦に振った。向日が纏っているウェアは、男子のハーフパンツではなくフリルのたくさんついたショートパンツだ。細い身体は確かに女らしい曲線には足りないけれども、それでも確かに女の子だ。試合開始のコールがされるその瞬間まで、海堂はそう思っていた。けれど試合をしている最中、そんなことは綺麗さっぱり頭の中から飛んでいた。勝敗が決して、健闘を称え合う握手してようやく思い出したくらいだ。とてもとても小さく、細く、頼りない掌は、紛れもなく少女だけが有するそれだった。けれど硬い肉刺が、彼女の努力と誇りを確かに伝えてくる。にっと歯を見せて笑う向日は汗に塗れていたけれど、どんな女子より輝いて見えた。
「それ、すっげー褒め言葉!」
すくえなかった、あなたのなみだ
敗北は二度目だ。関東大会に引き続き、全国大会。正レギュラーとして恵まれた出場機会、そのどちらも自分は勝利を飾ることが出来なかった。負けた。その言葉だけが疲弊した肉体以上に、精神に酷いダメージを与える。ずたずたになったプライドを抱えてラケットを握り締め、俯く日吉の背中を向日が叩いた。ぐっと息を飲み込んで、日吉は隣に並ぶ向日を見下ろす。しかし向日は日吉を見てはおらず、まっすぐに自分の学校のベンチを見据えていた。
「顔、上げろ。チームメイトに情けない姿見せる気かよ」
そう言って、向日は一歩を踏み出して日吉の前を行く。ダブルスパートナーの背中に引きずられるように日吉も足を動かし、ふたりはベンチの前に立った。足を組み、顎に指を寄せたまま見上げてくる榊の審判を待つ。唾を飲み込もうとした喉が、切れる息に乾いて引き攣った。
「敗因が何だか分かっているか?」
「―――俺たちの決定力、それと体力不足です」
「分かっているならいいだろう。行ってよし!」
「失礼します!」
答えられない日吉に代わり、向日がきちんと言葉を返した。榊の指示に、腰から上半身を折って礼をし、日吉の腕を取ってベンチの前を去る。次に向かうのは跡部をはじめとしたレギュラー陣の並ぶ場所だ。段差から見下ろされる。整いすぎた跡部の顔が冷やかに感じられ、いつもなら睨み返すところだがそれも出来ず、思わず足を引きかける。けれど引き止めたのも、やはり向日の声だった。
「わりぃ。後、頼む」
「言われるまでもねぇな。次はないぞ」
「分かってる」
次はない。その言葉が日吉の心臓を抉る。そうだ、氷帝は敗者切捨てのテニス部だ。そのモットーに惹かれて、日吉とて入部したというのに。お疲れ様です、と鳳がタオルを差し出してくる。サンキュ、と向日が二枚とも受け取って、一枚は日吉に放られた。顔にぶつかろうとする瞬間に、古武術で培った反射神経が容易く掴む。フェンスの扉を開いて、コートを出た。次のシングルスを担う樺地と擦れ違う際に、一瞬だけ視線が重なった。何かを言うべきなのかもしれない。日吉は無意識に唇を開いたが、言葉は何も出なかった。それでも樺地は静かにひとつ頷き、コートへと入っていく。日吉はただ、その後ろ姿を見送った。
最初から最後まで全力で飛ばした試合は、負けたこともあり、茫然とした疲労感しか日吉に残してはくれなかった。コートを囲む氷帝テニス部員たちから少し距離を取ってベンチに腰おろせば、もはや立ち上がれる気力すら感じられない。負けた。自分は負けたのだ。勝てなかった。またしても、またしても。唐突に胸の奥から怒りが湧き上がる。屈辱だ。情けない。馬鹿じゃないのか。何で。どうして。もっと、俺は。
「俯くなよ、日吉」
めちゃくちゃに暴走しかけた衝動を、高い声が遮る。ふっと身体が軽くなったような気がして、日吉は我に返って隣を見た。今度こそ向日は日吉を見上げてきており、彼女はやっぱり、大きな瞳でまっすぐに日吉を見ていた。
「負けたのも、悔しいのも、全部ちゃんと糧にしろ。おまえには来年があるんだからさ」
息を飲む日吉に笑いかける向日の顔色は、青を通り越して白く変わっていた。限界まで体力を費やして試合したのだ、無理はない。ただでさえ向日は少女で、体力は男と比べて当然のごとく劣っているのだから。それでも最後まで跳び、舞い続けた姿。日吉の前に立ち、引っ張って行ってくれた。ダブルスの、パートナー。
「ちょっと休んだら樺地の応援に行くぞ。俺たちは負けたけど、他の奴らが勝てばチームは上に行けるんだからな」
「それは・・・」
「ぐだぐだ言ってんじゃねーよ。氷帝が勝てば俺たちの勝ちだ。次でちゃんと、俺たちも勝てばいいんだよ。跡部だって言っただろ? 『次はない』って」
あぁ、あれはそういう意味だったのか。気づいて、日吉は向日を見下ろす。こくり、小さく頷くと、向日も「よし」と緩く笑い、タオルを頭から被ってベンチに倒れこんだ。薄い胸が、肩が、息荒く上下を繰り返している。覗くうなじの白さにぞくりとした。恐怖のような感覚に胸がざわつく。顔が見えないことが、見られないことがせめてもの救いのように思えた。
「あー・・・ちくしょう・・・」
呟きはすれど、泣きはしない。いつもはストレートすぎるほどに感情をあらわにするひとだというのに、どうしてか。ぼんやりと日吉は、ベンチに零れる向日の鮮やかな髪の毛を見つめていた。照りつける日差しの中、遠くに聞こえる歓声。
夏は終わったのだと、唐突に感じた。
そして敗退した帰り道、学校が見えたところで跡部部長が言った「バーカ、意地張ってんじゃねぇよ」という言葉に、ぼろぼろと涙する向日さんを見て。このひとを勝たせるのが俺の使命だったのだと気づいた。俺はこのひとを勝たせたかったのだと、気づいた。それは余りに遅すぎる、自覚だった。
2010年11月13日