パジャマのお姫様





U-17合宿所に非常ベルが鳴り響いたのは、日付も変わろうかという頃だった。避難訓練でしか聞いたことのないような、それでも反射的に行動を取らせるベルが、合宿所中に響き渡った。取るものも取らず、初日に案内された限りの避難経路に従って外へと逃げる。しかし満天の星空で振り返ってみた合宿所は、どこから煙が出ているわけでも、変質者が侵入してきているわけでもなかったらしい。ただ単に、ふざけ合っていた高校生が誤って非常ベルに体当たりして、押してしまっただけで。何て人騒がせな。日中のトレーニングの疲れを少しでも睡眠で癒していた選手たちは、夜空の下で不満を漏らした。そんな彼らをからかように、秋風がぴゅうっと背中を撫でる。
「あの・・・すみません。安全が確認できたのなら、もう戻ってもいいでしょうか・・・?」
寒さに震える声音で問いかけられて、くるりと振り向いた入江は思わず目を瞬いてしまった。一瞬、ここはどこかのリゾート地かと思ってしまったのは、やはり男だらけの合宿所に慣れてしまっていたからだろう。しかし今年に限っては中学生に四人、女子選手が参戦しているのだ。その証のような、女の子だけに許される華やかなパジャマ、いわゆるネグリジェというそれが闇の中で輝いている。亜麻色の長く綺麗な髪の毛が、風に悪戯に遊ばれている。見上げてくる瞳は切れ長なのにどこか色っぽさを湛えていて、入江は目を瞬いてしまった。
「・・・ごめんね、誰かな?」
「柳生です。立海大付属中学校の、柳生比呂士です」
「柳生さん」
そのときの、グラウンドに避難していた高校生組の衝撃と言ったらなかった。昼間は高い位置でポニーテールに纏め、素顔を覗かせない眼鏡をかけている優等生然としている少女の、明らかになった素顔。そして纏っているネグリジェが、更にその印象を異なったものに高めていた。一般的な男子が想像するネグリジェと言えばいいのか、大き目に開いた首回りに胸の下で切り替えられたシルエット。パフスリーブの袖に至る所にレースがあしらわれているそれは純白ということも相まって、まるでお姫様が纏うドレスのようだった。膝小僧を隠し、半分晒されているふくらはぎがまた艶めかしい。そしてやはり、襟ぐりから垣間見える年齢にそぐわない豊満な谷間に視線を奪われてしまうのは、高校生男子としては仕方がないのかもしれない。
「・・・眼鏡を外すと、印象が変わるんだね。それとも服装のせいかな」
「あっ・・・まり、見ないでいただけますか? 流石に恥ずかしいので・・・」
「ああ、ごめんね」
素肌の二の腕を抱えるようにして己を抱きしめて、少しうつむく少女。淑女とされている彼女は、異性の前にこんな夜着姿で立つことに耐えられないのだろう。羞恥で染まる頬を見下ろして、入江は思わず笑ってしまった。容姿は大人びていてとてもじゃないが中学生に見えないのに、こんな些細なところはやはり年相応だ。着ていたジャージを脱いで、入江は柳生の肩に被せた。はっとして顔を上げた瞳に、にこりと微笑みかける。
「寒いでしょう? 着ていていいよ」
U-17合宿所は広いため、災害時の避難所も複数設けてある。入江のような上位コートの面々はグラウンドだが、中学生たちはおそらく入り口ホールなのだろう。コーチ陣に近い部屋を与えられている女子選手たちだけが、流れで入江たちと合流していた。うわっと声を上げて、ひとりの青年が寒さに震える向日へと走り寄る。
「向日! おまえ、そんな格好で何やってんだ!?」
「あ、部長。だってさぁ、寝てたとこ急に起こされたし」
「風邪でも引いたら跡部に怒られるぞ? いや、あいつなら馬鹿にする方かもな・・・」
髪にメッシュを入れている青年は、自分のジャージを脱いだかと思うと、向日に頭からすっぽりと被せて着せた。小花柄のキャミソールとショートパンツに包まれていた身体が、すっぽりとジャージに隠れてしまう。こちらはこちらで非常に露出の高い格好をしていた向日だが、凹凸のないスタイルが逆に幸いだったのか、それほど性的な印象を与えなかった。むしろ折れそうな細さに心配となってしまったのだろう。氷帝の元部長らしい青年にチャックを首元まで上げられて、ありがとうございます、と向日が明るく笑う。くるりと回ってみせると、ジャージの裾がまるでワンピースのようにはためいた。
艶やかだったり、可愛かったり、常と違って露出が多く、女の子らしさを感じさせる少女たちに、高校生たちが何も感じなかったと言えば嘘になる。少しばかり不埒な想像をしてしまった輩もいたが、それでも精神面のコントロールができるからこそのU-17合宿上位コート組なのだ。如何わしさを切り捨てて、あくまで紳士的に対応する。女だてらに合宿に乗り込んできて、そして懸命についてきている彼女たちに対する、それが礼儀なのだと彼らはきちんと理解していた。
「ほら、着ておけ」
「え・・・あぁ、ありがとうございます」
鬼にジャージを差し出されて、財前はきょとんとしていたけれども押し付けられたそれを受け取った。四人の少女たちの中で、財前だけが唯一ティーシャツにジャージという色気のない格好をしていたが、逆にそれが素顔を晒しているようにも見える。テニスコートに立っている際のクールな印象が薄れ、いかにもプライベートといった様子だ。昼はセットされている髪が、無造作に結わかれているのも気の抜けた感じに拍車をかけている。ジャージに腕を通して、指先も出ない大きさに「ぶかぶか」と財前が柔らかく目を細めた。
「ねぇ、俺も寒い」
くいくいと袖を引かれて、徳川は溜息を吐き出しながらジャージを脱いだ。リョーマは一般的なパジャマを着ており、ライトピンクのチェック地のそれは、どこか彼女の挑発的な態度を和らげている。徳川のジャージを羽織って、リョーマも楽しげに袖を揺らした。まだまだ子供といったあどけなさがあるけれども、男ものの服を上から着せればやはり女だというのを実感させる。華奢な体躯は、それこそ軽く包み込んでしまえそうだ。
四者四様、それぞれに異なった魅力であふれている。人当たりの良さから対中学生のスポークスマンを務めることの多い入江は、そんな少女たちに殊更優しく話しかけた。
「もうすぐコーチたちが来ると思うけど、君たちは先に戻っていいよ。寒いし、そんな格好じゃ風邪を引いちゃうしね。コーチには僕から言っておくから」
「ですが、それではご迷惑を・・・」
「気にしないで。暖かくして寝て、明日に備えるといい。合宿はまだまだ続くからね、時には厚意に甘えるのも必要だよ」
柳生が戸惑ったように向日に視線を向けると、「いいんじゃん? 俺も部長のこと信頼してるし」とあっけらかんと答えが返る。財前は瞼をこすっており、リョーマは噛み殺すことなく欠伸している。そんな様子を見て、柳生も入江の言葉を受け入れた。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、お先に失礼します」
「おやすみ。また明日」
「あの、ジャージは洗ってお返ししますので」
「いいよ、気にしなくて。おやすみ、柳生さん」
丁寧に頭を下げて、柳生は今にも眠りに落ちそうなリョーマの手を引く。向日は氷帝元部長の先輩に手を振って、財前は鬼に一礼をしてから後に続いた。身体に見合わない大きなジャージを被った姿が四つ、建物の中へと消えていく。
「・・・いいもの見たなぁ」
どこからかついに漏らされた純粋な感想に、その場にいた誰もが頷いた。明日からまた頑張れそうだよな。まさしくそれが、健全な男子高校生たちの本音であった。





高校生は四つの派閥に分かれる。入江さんが柳生派、徳川さんがリョマ派、氷帝メッシュ元部長が向日派、鬼さんが財前派をそれぞれ仕切ることになる。
2010年10月30日