エンジェルと淑女のご関係





夜九時過ぎ、忍足家の電話が着信を鳴らした。立ち上がって受話器を取った母親は、「もしもし?」の後で相手が誰だか分かると明るい声で話し始める。おかんの知り合いか、と考えながらドラマの時間をチェックしていた忍足は、そろそろ風呂に入ろうかと新聞を折り畳む。携帯電話を握ってソファーを立ったところで、話中だった母親が通話口を手で押さえたまま振り向いた。
「侑士、あんた岳人ちゃんから連絡来てへん?」
「岳人? いや、来てへんけど」
「ほんま? ・・・ごめんなぁ、向日さん。侑士のとこには来てへんって。携帯にはかけてみたん? 大丈夫やって、岳人ちゃん、ええ子やし。ちゃんと帰ってくるって」
「何や、岳人がどうかしたんか?」
ダブルスを組んでいる少女の名に、忍足の眉が自然と顰められる。やはり通話口を押さえて、母親は振り返る。
「岳人ちゃん、お父さんと喧嘩して家を出たんやて」
「何やあいつ、またかい」
「いつもならうちに来るけど、今日はどないしたんやろうなぁ。侑士、あんた岳人ちゃんに電話してみてくれる?」
「ええよ」
「ほな向日さん、うちの侑士が連絡してみる言うとるから。またすぐにかけなおすわ」
立ち上がりかけたソファーに逆戻りして、忍足は携帯電話を開く。着信はなく、センターに問い合わせしてもメールはない。時刻はもうすぐ九時半を回ろうとしていて、何やっとんのやあいつ、と忍足は思わず呟いてしまった。父親と些細な喧嘩をして、向日が家を飛び出すのは珍しいことではない。けれど忍足と知り合ってからは、飛び出した後に向かう先はほとんどが忍足の家だったし、それを両家の親も暗黙の了承としていた。ダブルスパートナーとはいえ、同じ年の少年がいる家に娘が向かうこと自体、おそらく向日の父親は良しと思っていないのだろう。けれども忍足の家には母も姉もいるし、向日はそのふたりにとても可愛がられている。やましいことなど何もない関係に、心配することあらへんのに、と忍足は毎度呟いてしまう。
けれども、今日は一体どうしたことだろう。着信履歴から引っ張って、忍足は向日の番号を画面に映した。発信ボタンを押せば、電源は切っていないのか呼び出し音が鳴り始める。もう夜も遅い。凹凸の少ないスタイルを持つ向日とはいえ、彼女も立派な女の子だ。ひとりで出歩くのは危ないというのに、どこで何をやっているんだか。呆れと僅かな憤りが忍足の中をせめぎあっていると、ぷつっとコール音が切れて回線が繋がった。
『もしもし、侑士?』
「もしもしやないやろ。岳人、おまえ今どこで何しとるん?」
『何でそんなこと聞くんだよ? もしかして、おまえんちに連絡いった?』
「おう、めっちゃ来たわ。岳人のお母さん心配しとるで? いい年の娘さんが、こないな時間に出歩くんやない」
『出歩いてねぇよ。今は家だし』
「家って、誰の」
『柳生んち』
出てきた名前に、忍足はきょとんと目を瞬いてしまった。柳生とは、立海の柳生だろうか。王者と呼ばれる神奈川の伝統校で、女子ながらに男子テニス部でレギュラーを勝ち取った稀有な少女。向日も女の子だけれど氷帝でレギュラーを務めていることから、立場の似ているふたりが交流を持っていることは忍足も知っていた。けれど家出先に選ぶほど、ふたりの仲は親しかっただろうか。少々混乱していると、電話口の雰囲気が変わる。
『もしもし、忍足君でしょうか?』
「え、あぁ、そうやけど。自分、ほんまに柳生なん?」
『はい、立海大付属中の柳生比呂士です。こんばんは』
「こんばんは・・・」
噂の淑女は、こんなときであろうと礼儀正しい。評判に納得していると、柳生の向こうで向日が何やら喋っている声がする。そこでようやく忍足は、はぁ、と深い溜息を吐き出した。
「何や、岳人のやつ、ほんまに柳生の家におるんか」
『ええ、三十分ほど前にいらっしゃいまして。お父様と喧嘩したから泊めて欲しいとのことなのですが』
「よくあることや。まぁ、いつもは俺の家に来てたんやけど」
『私の家なら、お泊めすることは構わないのですけれど、どうすれば・・・?』
「ん、せやったらもうこないな時間やし、今回はお言葉に甘えさせてもらってもええか? 岳人にはちゃんと家に連絡させてや。柳生も話してくれたなら、岳人のお母さんも安心するやろうし」
『分かりました』
「迷惑かけて堪忍な。もう一回、岳人に代わってもろうてええ?」
『はい。向日さん』
柳生の落ち着いた気配が遠ざかると、今度は賑やかな向日の空気が伝わってくる。電話越しだというのにそれが不思議で、忍足は小さく笑ってしまった。侑士? と問うて来る声が何故か可愛らしくて、今は叱らなければならないというのにどうしようもない。日吉辺りによく言われるが、忍足はどうも向日には甘いのだ。
「岳人、ちゃんと家に電話するんやで?」
『んー・・・分かったよ。侑士と柳生に迷惑はかけらんないもんな』
「それと次はちゃんとうちに来てや。女の子同士もええけど、俺らはダブルスパートナーやろ? こういうときはちゃんと頼ってな」
『でもそれじゃ侑士が迷惑じゃね?』
「阿呆、おまえをひとりで歩かせる方が心配や。ほな柳生にもよろしく伝えてや。明日の部活、遅刻するんやないで」
『うん。ありがとな、侑士』
「おやすみ、岳人。また明日な」
向こうで通話が切られたのを確認してから、忍足も電源ボタンを軽く押して携帯を閉じる。キッチンから戻ってきた母親に、どうやら女友達の家に行ったらしいと伝えれば、ほっとした安堵の表情が返ってくる。おとなびた息子を持つ忍足家で、年齢相応の明るさと元気の良さを持つ向日は、実の娘のように可愛がられている。実際、忍足の姉も「ほんまの妹になってくれたらええのに! 侑士の嫁さんになるんは勿体ないけど!」とまで言っている始末だ。岳人と結婚なぁ、と忍足もその度に考えてみるが、どうもふたり並ぶと立っている場所がテニスコート以外に想像できないのだから、つまりはそういうことなのだろう。
「せやけど彼氏の家やなくて良かったわぁ。侑士、あんた岳人ちゃん逃がすんやないで? あないな可愛い子、他におらんのやから」
「言いすぎやろ。まぁ岳人は可愛えけどな、今は妹みたいなもんで」
「あぁ、向日さんに電話せんと! 今度一緒にお茶でも出来へんかしら。いろいろ話したいわぁ」
「・・・おかん、人の話聞く気ゼロやろ」
嬉々として電話に向かっていく母親に、忍足はずるずるとソファーに滑り込む。どうやら時間も経ってしまったらしく、見たい恋愛ドラマが始まるまで十分もない。風呂は無理やなぁ、なんて考えながらソファーに転がれば、少しばかり胸を焦がすのは焦燥だ。向日が自分以外のところに行ったからなんて、認めてもいいような、認めたらいけないような。
「・・・まぁ、日吉や跡部のとこやないだけマシやな」
柳生やったら心配ないし、女同士たまにはええやろ。携帯電話が震えて取り出せば、メールが届こうとしている。差出人を確認して開けば、可愛らしい兎の絵文字が飛んでいた。
『おやすみ、侑士』
これやから岳人は可愛えんや。ひとり呟いて忍足はくつくつと笑った。





向日さんが一番頼りにする女友達が、柳生さん。無意識めろめろ侑士。
2010年10月11日