番外編:マサハルとヒロシとイリュージョン
ミュージカル・テニスの王子様・レジェンド。それは向日岳人や忍足侑士、仁王雅治や柳生比呂士をはじめテニプリキャラに酷似している少年や青年たち数名がオーディションを受けたことに端を発した、テニミュが全身全霊をかけて世に送り出したまさに「伝説」と呼べるミュージカルである。容姿も中身もそっくりである彼らを、それこそスタッフたちは日本全国、果ては海外まで足を延ばして探したらしい。向日や仁王がいるんだから、きっとリョーマや手塚や跡部、もしくは木手や白石だってどこかにいるはず。それを信じて駆けずり回ったスタッフたちの努力が実り、結成された舞台はまさに夢の楽園だった。テニプリキャラとしか思えない彼らが、三次元に存在している。それは奇跡に近かった。
テニミュ・レジェンドは期限を二年間と定め、世界へ向けて発信された。チケットはそれこそ発売五秒後にソールドアウト。オークションでは三十倍の値段で買ってもいい、なんて輩まで出る始末。海外のファンすらもテニミュのために来日するという社会現象とまでなりつつあった。それだけ舞台に立つ彼らは、生きた「キャラクター」だったのである。
それはヒロシがバックステージに戻るまでの、刹那の間だった。横浜アリーナの舞台は広く、メインステージだけでも端から戻ってくるのは数秒かかる。立ち位置の関係から最も遅く、ジャッカルの背中に続いてバックステージに引いたヒロシは、そこが俄かに騒然としているのに気が付いた。すぐに次の曲に移らなくてはいけないというのに、芥子色のジャージを纏った面子が団子のようにごった返している。前のジャッカルに突っ込みそうになり、何をしてるんですか、とヒロシが口を開きかけたときだった。アカヤと丸井に囲まれているのは、最も先にバックステージの引いたはずの仁王、ヒロシの双子の弟であるマサハルだった。その彼の右腕が今は真っ赤に染まっている。押し付けられたタオルが水気を帯びてすぐに色を変えた。
「仁王先輩っ、それ!」
「うるさいぜよ。ちょっと引っかけただけじゃ」
「救急箱! 早く!」
常は冷静な柳でさえ、取り乱して声を張り上げている。右腕から血を流している仁王の傍には顔色を蒼白に変えたスタッフがおり、彼とぶつかった際に怪我をしたのだろう。度の入っていない眼鏡の奥で目を瞠り、ヒロシは息を呑んだ。マサハル、と駆け寄ろうとしたけれども、それより先に幸村が眉を顰め、焦りを浮かべる。
「どうする、次は仁王の『イリュージョン』だよ」
「待て! ここは仁王の治療が先だろう。青学パートと順番を入れ替えて貰っては・・・!」
「おいっ! イントロ始まったぞ!」
「―――私が行きます」
真田やジャッカルまでが慌て始めたが、それを最後まで見ずにヒロシは今まさに去ったばかりの舞台へ踵を返す。こっちは任せて、と幸村の声を背で聞いた。漆黒のカーテンを抜けた先には、このオールキャラのドリームライブを楽しみにして集まった一万人というファンがいるのだ。振られるペンライトは立海のオレンジ。決して穴は開けられない。軽やかにターンして、ヒロシはひとりステージに降り立った。
それは日替わりネタなどでは決してなかった。柳生が仁王の「イリュージョン」を歌って踊るだなんて、それこそ二次元の世界でもお目にかかれない。舞台に現れたのが銀髪の仁王雅治ではなく、亜麻色の髪に眼鏡をかけた柳生比呂士であったことに、観客たちは僅かに疑問を抱き、それでも歌が始まった瞬間にすべてが吹っ飛んだ。「イリュージョン」は本心を悟らせない、どこかニヒルで艶めいた仁王雅治というキャラクターのために作られた曲だ。ダンスは激しく時にセクシーで、歌は格好良い。それを「紳士」と称される柳生が踊り、歌うのだ。悲鳴が挙がらない方がどうかしている。
「ねえっ! あれって本当にヒロシ!? それともマサハル!?」
「どっちでもいいよぉ! 格好いいっ!」
友人も赤の他人も関係なく、隣同士で騒ぎ合っては何度もオレンジのペンライトを振り回す。間奏に入れば遠慮の要らない悲鳴が飛び交った。仁王役のマサハルと柳生役のヒロシは本物の双子の兄弟ということもあって顔立ちは確かに似ていたが、それでもふたりは役に合った性格をしており、互いの気配を感じさせることはそれこそ関東大会の決勝戦で行われる「入れ替わり」くらいのものだった。あれは本当に見分けがつかなくて、ファンが歓喜するシーンだった。しかし今は、柳生比呂士が「イリュージョン」を歌っている。清廉な容姿を持つヒロシが、まるでマサハルのように色っぽく、それでも柳生比呂士らしさを決して損なうことなく踊っているのだ。それはまさに柳生比呂士の「イリュージョン」だった。立海ダブルス1のファンなら誰もが一度は見てみたいと願うだろう、妄想と願望の結晶だった。
「どこを見てるぜよ俺はここだ!」
ヒロシの声で、マサハルの口調で、激しいダンスを披露して、最後に笑う。「プリッ」の代わりに「アデュー」と締めくくった瞬間の悲鳴は、間違いなく今日一番のものだった。もうどちらかなんて判断できずに、ふたり共通の苗字を叫ぶファンさえ続出した。
「やーぎゅ。よくも人の舞台を奪ってくれたのう」
ライトがマサハルを照らし出せば、やはり客席から歓声が上がる。先ほどは半袖のユニフォームだったのが、今は長袖のジャージをその上に着ている。おそらく手当てした右腕を気づかせないためのものなのだろう。すっと瞳を眇めてヒロシが振り向けば、マサハルは微かに笑った。それだけで大丈夫なのだと分かり合えるのは、おそらく彼らが双子であり、培ってきた日々と精神の近さ故なのだろう。だからこそヒロシもにこやかに笑い、柳生として言葉を返す。
「すみません、仁王君。君の姿が見えなかったものですから、つい。どうせ裏門で猫に餌でもやっていたのでしょう?」
「にゃあ。にゃあにゃあ。俺は良い子じゃけぇ、そんなことはしないぜよ」
「どうだか」
「おまんらも本家本元の『イリュージョン』を聞きたいじゃろう? 今度は俺が歌っちゃるぜよ」
「待て! 仁王、柳生、おまえたちのオンステージはここまでだ! ここから先は我ら立海大付属の誇りを見せつける時間!」
「おまえたちばかりに良い格好はさせられないな」
「そうっすよ! 俺も歌いたいっす!」
「・・・やれやれ、仕方ないのう。今日は柳生に譲ってやるナリ」
わらわらっと真田や柳をはじめ、全員がステージに現れる。少しばかりのイレギュラーは発生したが、これで流れは元通りに戻るだろう。仁王の「イリュージョン」が見られないことに残念がる声もあがったが、それでも柳生のレアなソロを見られたことで満足したのだろう。どこか先ほどよりも場内は熱気が籠っており、送られる歓声は殊更に黄色い。「崖っぷちギリギリ」の立ち位置に移動しようと動く際、ちょこんと寄ってきたマサハルが耳元で「ありがと」と囁く。声は聞こえていないだろうに、そんな所作にさえ反応して叫ぶのだからファンは恐ろしい。笑ってヒロシは、自らのパートに戻った。
むしろ久堂の見たいもの、柳生のイリュージョン。これは奇跡の一回だったのでDVD特典にも再録されず、ファンの間では「見たかった!」とぎりぎりハンカチを噛み締める人が続出したらしい。
2011年4月3日