青学の柱になれば? ただし、俺が引退してからね。





「ドライブC」
得意げな、余裕を見せ付けるかのような声と共に、手塚の足元をテニスボールが駆け抜けた。少したりともバウンドせず、浮かび上がらず、打ち返す隙さえ与えなかった打球は、そのままに手塚の敗北を決定付ける。ネットを挟み、にっと笑って見せたのは越前リョーマだ。青春学園三年生、男子テニス部部長。手塚の、ふたつ上の先輩。
荒く切れる息を、額から顎へと流れていく滝のような汗を、手塚自身信じられない。否、そのようなことを思ってはならなかった。慢心など決してしてはいけない、身を引き締めて試合に当たらなければと、いつだって思ってきていた。手を抜くことなど一度たりとてしなかった。だからこそ勝利を掴んできた、その道程がいけなかったのかもしれない。自分が誰よりも強いだなんて、そんな驕り、抱いたことなど一度もなかったはずなのに、それなのに、今この胸を締める屈辱感といったらどうだろう。自分よりも強い選手が同世代にいるなんて、思いもしなかったわけではない。それでも、現実的に捕らえていたわけではなかったのかもしれない。だとしたらやはり己は驕っていたのだ。だからこそこうして、リョーマは自分を負かせてみせたに違いない。
「まだまだだね」
うっすらと汗を滲ませているだけの、青学の紛れもない柱である男は笑う。FILAの帽子を押し上げる様は、決して大柄というわけではない。身長だって、二年生の桃城や海堂よりも低いのに、それでも彼は青学の頂点に君臨しているのだ。押しも押されぬ絶対的な存在として立っている。ラケットを握り締める、手塚の指が震える。
じわり、じわりと込み上げてくる、この衝動は紛れもない歓喜だ。倒すべき存在が目の前にいる。その現実は、手塚の魂に火をつけた。越えたいと、心の奥底から焦燥する。
「全国には・・・」
リョーマが振り向いた。コートに膝をつく手塚は、紛れもない敗者だ。だが、いつまでもその処遇に甘んじているつもりはない。
「全国には、あなたよりも強い人がいるんですか?」
「いないよ」
返答はあっさりと返される。いっそ厚顔だと笑い飛ばすのを忘れるくらいに、さも当たり前のようにリョーマは告げる。
「俺と同じくらい強い奴なら大阪にひとりいるけど、俺より強い奴は全国どこを探してもいない。だから手塚、おまえが目指すのは俺だけでいい」
くるりと左手でラケットを回して、リョーマはそれを突きつける。己が高揚しているのを、嫌が応にも手塚は感じていた。出逢いに感謝すらする。今まで自分がどんなに狭い世界でテニスをしてきたのかを、まざまざと見せ付けられた。ばりん、と世界を区切っていた壁さえ硝子のように音を立てて崩れゆく。
「いつか俺を倒すことが出来たら譲ってあげるよ。そのときはおまえが『青学の柱』だ」
「っ・・・必ず、あなたに勝ってみせます」
「上等。ま、とりあえずは地区予選からだね。慣習を破ってランキング戦に参加させてあげたんだから、それなりの結果は出してもらわないと困るんだけど」
「はい、頑張ります」
「いい返事。じゃあ野外特訓はこれで終わり。何か食って帰る? マックくらいなら奢ってあげなくもないけど」
「いえ。もう少し練習していきます」
「ほどほどにしないと背が伸びないよ。まぁいいや、じゃあまた明日、部活で」
「はい。お疲れ様でした。ありがとうございました!」
立ち上がり、深く頭を下げれば、リョーマは「お先に」と手を振って去っていく。高架線の下、電車の音が反響して耳にうるさい。視界の中、黄色いボールが目に映る。翻弄された。好き勝手に走らされた。一矢を報いることさえ出来なかった。ぽつり、雫が手塚の眼鏡に当たる。
強くなりたい。マグマのように身体中を駆け巡る決意は、手塚が初めて覚えたテニスへの「餓え」だった。





青学部長、リョマさん。日本中のテニスプレイヤーが名を知っている、プロアマ問わない完全なる全国区。部活は面倒くさがりなので放任主義だけど、普通に後輩がついてくる。
2010年8月29日