仁王君と柳生さん(おまけ小話)





1.柳生さんが通っているのは日吉古武術道場です。

「・・・分不相応だ」
氷帝学園二年、日吉若。初対面と言っても過言ではない相手は、仁王を上から下まで眺め倒した挙句、不愉快をあらわにそう吐き捨てた。不遜な態度に、仁王の決して悠長ではない気もぴくりと刺激を受けて跳ね上がる。弧を描いた唇は、どうやって日吉にダメージを与えてやろうか、そういう類のいやらしいものだったが、それが行動に移されることはなかった。眉間にこれでもかという程に皺を寄せ、日吉は仁王を睨み付ける。
「あんたは比呂士さんに相応しくない。あの人に見合うのは、心身ともに逞しく、誠実な、包容力のある男だ。あんたはあの人に釣り合わない」
はっきりとした言葉には、これ以上ないほどの強さが含まれていた。反論が浮かばずに、仁王は思わず言葉に詰まって息を呑み込む。その一瞬を図星と判じたのか、日吉は嘲笑した。彼は、仁王雅治という「男」を見下したのだ。





2.仁王が何かやらかしたらしい。

丸井に「いいから来い!」と腕を引かれて連れてこられたのは特別教室が並ぶ廊下だった。学年問わず人が集まっており、丸井はその中に突っ込んでいく。迷惑そうに振り向いた生徒たちは、丸井の連れているのが仁王だと気づくと左右に寄って道を譲った。何なんじゃ、と仁王が不審に思っていると、人垣の中央が見えてくる。見えた後ろ姿は、亜麻色の長い髪。柳生だ。彼女は誰かと向かい合っているらしいが、仁王からその姿は見えない。先頭まで来ると丸井は掴んでいた腕を放し、代わりに仁王の背をどんっと押した。たたらを踏んで、仁王は輪の中央へと押し出されてしまう。そこでようやく柳生が振り向いた。彼女にしては珍しく緩慢に。
「・・・ああ。仁王君ですか」
「柳生? 何じゃ、それ。どうした?」
確かめるように名を口にしたのは、彼女の顔にトレードマークとも言える眼鏡がなかったからだ。以前にも見たことはあるが、婀娜っぽい目付きは心の準備なしに目の当たりにすると、どうしたって情欲を掻き立てられる。けれども今は頬にうっすらと刻まれている赤い擦り傷が気になった。まるで爪先で引っ掻かれたかのように、うっすらと血が滲んでいる。
反射的に仁王は、柳生と向かい合っている存在に視線をやった。そこにいたのは女生徒で、名札の色からして自分たちと同じ三年だろう。びくっと肩を震わせ、どこか脅えた目で見上げてくる彼女に、仁王は覚えがなかった。だからこそ彼は素直に口にした。
「おまん、誰じゃ?」
単純な、余りにも素朴な質問に、けれども女生徒は顔色を失って立ち尽くした。大きな瞳に涙が浮かび始め、信じられない様子で彼女は仁王を見つめてくる。肩が震え、スカートが揺れる。けれども仁王は彼女に見覚えがなかった。それは昨年、一ヶ月とはいえ交際した相手に対して余りに不義理だった。不思議そうな仁王の横顔を、柳生は溜息を吐き出したい思いで見やった。わぁっと女生徒が泣き崩れ、周囲の生徒たちもひそひそと囁き始める。ただひとり現状の分からない仁王だけが、眉根を顰めて首を傾げていた。
「おい、そこ! 何している!」
騒ぎが大きくなり、誰かが職員室に走ったのだろう。学年主任の教師が人波を掻き分けるようにしてやってきた。教師は声を挙げて泣いている女生徒と、頬に瑕を作った柳生と床に落ちて割れた眼鏡、そして仁王を順番に見やって困ったような表情を浮かべる。その中で、柳生がそっと自身のスカートを払い、床に膝をついた。ポケットから取り出したハンカチを女生徒の目元に押し当てる。アイロンのかけられた、綺麗な白いハンカチだった。柳生は女生徒を抱き寄せて、彼女の背を優しく撫でた。
「先生。彼女と私は保健室に行っても良いでしょうか?」
「え? いや、だが・・・」
「事情はそこにいる仁王君がすべて説明してくれます。私たちは彼に巻き込まれただけですから」
そこでようやく仁王は、柳生がもしかしたら怒っているのかもしれないと思い当った。理由は分からない。けれども彼女の声は冷ややかで固く、何より茨を纏っていた。女生徒を支えながら立ち上がり、柳生は周囲の生徒の中から一人を見つけて声をかける。
「柳君、仁王君と一緒に行っていただけますか?」
「了解した。仁王の説明が間違っていた場合、フォローをしよう」
「お願いします」
何が何だか分からない間に話は進んでいき、仁王だけがぽつんと取り残される。女生徒を守るように肩を抱き、去り際、柳生は仁王を振り向いた。眼鏡のない瞳はやはり艶やかで色っぽく、そして侮蔑に溢れていた。
「女を舐めないでください」
それだけ言って、柳生は女生徒と一緒に人垣から出て行った。周囲から向けられる居心地の悪い視線の中、仁王が身じろぎすれば柳が出てきて「行くぞ」と促す。教師に従い、生徒指導室へと向かいながらも仁王は訳が分からなくて仕方がなかった。ただ、これだけは分かる。あの、柳生の瞳、言葉。
・・・自分は、彼女を怒らせたのだ。





3.赤也と柳生さん

「俺、柳生先輩のこと誤解してました」
季節は秋から冬に代わり、図書室の窓はうっすらと温度差に曇り始める。生憎の天気で部活が休みになり、様々な事情が重なって、赤也は現在柳生に英語の宿題をみてもらっていた。図書室の奥まった机は他の生徒も立ち寄らず、ちょっとしたお喋りなら見咎められることはない。
「仁王先輩や真田先輩と仲がいいから、テニス部目当てで近寄ってくるミーハーな女かと思ってました」
「テニス部の皆さんは人気がありますからね」
「でも、違ったっす。全国大会の決勝の後、柳生先輩、言ったじゃないすか。送ってくって言った仁王先輩に対して、『今日はみんなで帰ってください』って」
今でも思い返せば悔しさが募る全国大会。力を尽くして戦ったが、準優勝という結果に涙を飲んだ。幸村たち三年生の最後の試合を、柳生も観戦に来ていた。誰に誘われたのか赤也は知らない。試合後、仁王をはじめとした三年レギュラーの誰もが柳生に声をかけていたし、彼女も誰しもに平等に接しているように見えたからだ。
「正直に言いますけど、あのとき俺、仁王先輩にむかついたんですよね。最後だってのに女かよ、みたいな感じで。でも柳生先輩はそんな仁王先輩をばっさり断ってくれた。『みんなで頑張ったんだから、みんなで帰るべきです』って言ってくれた」
目から鱗が落ちるとは、きっとあのときのようなことを指すのだろう。どうせテニス部の顔だけ見て寄ってきた女だと思っていたが、柳生はそうではなかった。彼女はテニス部のことを考え、仁王に否と言える人だったのだ。
「だから俺、柳生先輩なら先輩たちの彼女になってもいいと思ってるんです。ね、ね? 仁王先輩と付き合ってるってマジすか?」
「いいえ、仁王君は良いお友達ですよ」
「俺のおすすめは柳先輩なんすけど! 頭いいし優しいし、柳生先輩ともお似合いだと思うんすけどね」
どうすか、と好奇心いっぱいの目で問われ、柳生は苦笑する。そうですね、と呟き、いたずらに次の言葉を口にした。
「切原君は、その候補の中には入ってくれないのですか?」
冗談のつもりだった。けれども次の瞬間、握っていたシャープペンが奪われ、代わりのように絡められた指は骨ばった異性のものだった。柳生が顔を上げると、切原がまっすぐに自分を見ていた。
「いいんすか?」
にい、と吊り上げられる唇は肉厚で、それは柳生の感じていた以上に男らしい笑みだった。
「俺、マジになったら凄いよ? ―――いいの? ねぇ、柳生先輩?」





4.恋する仁王

関係のあった女は全部切った。ひとりひとりに頭を下げて回り、別れてほしいと素直に言った。身体だけの関係でいいからと言った相手もいたけれど、頑なに頷きはせずすべてを断った。携帯電話のアドレス帳には、もはや家族以外に女の名前はない。勉強を少しだけ頑張るようにした。元より出来の良い頭だけれども、授業をさぼらずにすべて出席するようにした。授業態度も、あからさまに机に突っ伏して寝るようなことは止めにした。だらしない格好をすることも止めた。さすがにきちりと制服を着こなすことはしないけれども、第三ボタンまで開けていたワイシャツは第二までにした。ネクタイも緩くだけれどちゃんと結んでいる。ルーズとおしゃれの境目を決して違えないように気を使うようにした。クラスメイトだろうと隣の席だろうと女子に思わせぶりな態度を取ることは止めた。対複数でも一緒に出掛けることをしなくなった。付き合いが悪くなったと言われようと構わない。本当は、この銀色の髪だって元の黒に戻しても構わないのだ。柳生が望むなら、何だってするつもりだ。
「まるでヘタレだね。詐欺師のおまえはどこに行ったの?」
「ぐっ・・・」
呆れた、と言葉と態度に出して言う幸村に、薄々自覚していたことだが仁王は図星を指されて顔を逸らす。そんな仕草にさえ呆れているのか、幸村はわざとらしく肩を竦めた。
「女遊びが派手でとっかえひっかえは当たり前、テニス以外は全部適当にこなしてたチャラ男なおまえはどこへ行ったのさ?」
「・・・そんなん、過去の話じゃ」
「まったく、見事に変えられちゃって」
でも、と幸村は続ける。
「悪くないよ、今の仁王」
顔を上げた仲間に、幸村は柔らかな笑顔を向けた。
「自分を変えられるほど好きになるなんて素敵じゃないか。一人の女のためだけに努力出来る男は格好いいよ。前のちゃらんぽらんな仁王よりずっといい」
「幸村・・・」
「柳生と出会えて良かったね」
優しい声音に、仁王は込み上げてくる思いを堪えながら頷く。そう、好きなのだ。初めてかもしれない恋なのだ。今も柳生の姿を思い浮かべれば、それだけでぎゅっと胸が熱くなる。好きだ。だから何だって出来る。好き。好き。好き。―――好き。
「まぁ、仁王が柳生を落とすにはあと十年はかかりそうだけどね」
「おまんが言うとシャレにならなくなりそうじゃから止めんしゃい!」
あっはっは、と豪快に笑われ、仁王は泣きそうになって否定を願った。誠実になりたいと今、心の底から思う。柳生に対しては誠実でありたい、と。





やっぱりすきです、仁王と柳生・・・!
2012年11月23日