仁王君と柳生さん
きっかけは非常にありふれた一般的なものだった。立海大学付属中学に入学し、同じクラスになり、席が隣になった、ただそれだけだ。決して日常の一部を逸脱していなかったし、誰しもに与えられる経験でしかない。柳生という苗字の彼女は出席番号順で最後だったが、立海は基本的に女子よりも男子が多い。男女別に席を並べればどうしても男子の方が一列多くなり、廊下側と窓際はどちらも男子のものになる。故に入学したばかりということもあり、出席番号順で振られた座席で、仁王は柳生と隣り合うことになったのだ。左を向けば彼女がいて、その向こうに男子生徒がもうひとりおり、そして窓から空が見える。関わるようになった理由はそんな些細なものだった。しかし、そうして仁王雅治は柳生比呂士と出会ったのだ。
「おまえさん、何を楽しみに生きてるんじゃ?」
ひと月が経過した頃、仁王は肩肘をつきながら尋ねてみた。休み時間、柳生は日直でもないのに黒板を消して、手を洗ってから座席に戻ってきたかと思うとすぐに次の時間の準備を始める。引き出しから現れるノートや教科書にも、きちんと名前が書かれている。ペンケースはシンプルなグレーの皮製のもので、地味だけれどもチャックが煌めいたロゴに象られていてセンスが良い。柳生の持っている小物はすべてがそんな感じだと仁王は思う。派手ではないのにセンスが良くて、そして質のいい物なのだ。中学一年生の女子ならば大抵はピンクやら流行のキャラクターやらでごてごてとした物を選ぶだろうに、柳生はそういった面が一切ない。ペンケースの中身もシャープペンシルと黒と赤のボールペン、消しゴムと万年筆に定規くらいの簡素なものだ。飾り気がない。質実剛健、なんて言葉が仁王の脳裏に浮かぶが、流石に女子に当てはめるには失礼だろう。シンプル・イズ・ザ・ベストくらいにしといちゃるか、と考えていれば、隣の柳生が振り向いた。
「何を楽しみに、とは?」
「品行方正、絵に描いたような優等生。この一ヶ月で俺はおまえさんが娯楽を手にしてるところを見たことがなか。読書っちゅうても読んどるのは推理小説や純文学ばっかりじゃ。ドラマや歌の話もせんし、噂話にも興味はなかろ? どんな話題を振ればええんか、いい加減に流石の仁王君もお手上げぜよ」
「おや、そんなに気を使ってくださっていたのですか? ありがとうございます」
くす、と柳生が笑みを漏らせば、彼女の肩を亜麻色の髪が静かに流れる。自然な色のそれは艶もあってとても綺麗で、だからこそ仁王は右隣の女子ではなく柳生に話しかける気になるのだ。右隣の女子は確かに「今時の中学生」といった感じで、ペンケースもビニール製の安そうなハート柄のものだったし、カラフルなボールペンを何本もその中に入れている。ドラマや人気歌手の話題で話しかけてくることも多く、別にそれ自体は悪いことではないのだけれども、仁王の興味をそそるには至らなかった。画一的なものに仁王は関心を抱かない。それならば中学生らしくない落ち着きを持つ、それこそ持ち物のように派手ではないけれども、その実とても綺麗な顔立ちをしていて、独特の静かな雰囲気を持っている柳生の方がはるかに仁王の観察対象に含まれた。
「そうですね、楽しみでしたらたくさんありますよ」
「例えば?」
「最近では、新しいレシピを試すのが楽しいですね。両親が共働きをしているので夕食は私が作るのですが、妹がにんじんが嫌いなので、どう料理すれば食べてくれるのかな、とか」
「ほう、柳生は料理が得意なんか」
「得意というわけでもないですよ。後は、そうですね、仁王君とお話をすることも最近の楽しみのひとつです」
「それは光栄ナリ。理由を、聞いてもええんかのう」
「仁王君は私とは異なる物の見方をされますから。あなたからなら例え私の知らないドラマや歌のことであったとしもちゃんと聴きますよ」
「俺も柳生と話すの嫌いじゃなか。おまえさんはいい声しとるナリ。合唱部でも入ればええのに、部活に入らんのは家事があるからか?」
「はい。仁王君はテニス部ですよね? どうですか、面白いですか?」
「今は程ほどじゃな。素振りばかりでつまらんぜよ」
「基本は大事ですからね。怪我にはお気をつけて」
そこでチャイムが鳴り、会話は途切れる。担当教師が現れれば、それ以降柳生が私語を発することは一切ない。発言するとしたら、それは教師に指されたときくらいのもので、本当に絵に描いたような優等生だ。一ヶ月でその評価はすでに柳生の代名詞ともなり、教師陣の覚えもいい。少し大人びた女生徒ということで、クラスでは浮いているような浮いていないような、憧れの対象として見られている形に近い。柳生はいい。本質がええんじゃろうなぁ、と仁王は評する。
彼にとって柳生比呂士という少女は、テニス部でも好みが近しいわけでもない、重なるところが欠片もない、それでも友達である唯一の存在だった。
***
学校と自宅の往復に文句など抱かない。医師としてひとつでも多くの命を救おうと奔走する両親のことを尊敬しているし、今年小学校に入ったばかりの妹はとても可愛いと思っている。学校帰りにスーパーで買い物をする以外にも、本屋で好みの本を物色したり、焼き立てパンの香りに誘われてベーカリーの奥さんと話し込んだりもしたりするから、意外と活動範囲は狭くないのだ。「何を楽しみに生きてるんじゃ?」という仁王の問いかけは、柳生にとって失笑を齎すものでしかなかった。そんなに私はつまらなさそうな人間に見えるのでしょうか、と思わず己を振り返ってしまったくらいだ。確かに仁王のような派手なパフォーマンスを好むタイプからしてみたら、柳生の日々の楽しみなど矮小なものでしかないかもしれない。それでも、自分はこれで良いのだと柳生は分かっている。日々の中に見つける楽しみはいつだって刹那的で流動的だ。一瞬の感動を心に焼き付ける、それは素晴らしいことだと柳生は考えている。
仁王雅治という少年はいいな、と柳生は思う。他人に対して礼を失した物言いだとは分かっているけれども、言い換えるのならば、素敵な方ですね、と柔らかく柳生は微笑むだろう。立海大学付属中に入学して、同じクラスになり、隣の席になった男子生徒。教室に入った瞬間に目を奪われた銀色の髪は、染めているらしいけれども生まれつきのように彼に馴染んでいる。飄々とした掴みどころのない雰囲気を放ち、体重をかけて椅子を揺らしている様はとてもじゃないが中学一年生には見えず、クラスメイトは恐れと多分の好奇心を持って彼を遠巻きに眺めていた。
今でも憧れと少しばかりの畏怖の対象として見られている仁王が、好き好んでその評価を得ていることを知って、柳生は「仕方のないひと」と思わず笑ってしまった。仁王は自分を飾るのが好きなのだろう。例えば彼の持つ小物ひとつ取っても個性的でないものは何もなく、もしくは簡素な品でも細工次第で仁王自身を映えさせるのだから審美眼は本物だ。自分に何が合うのかを、きちんと仁王は把握している。見事なものだと思う柳生自身、普通の十三歳と比べたら大人びているかもしれないという自負はあったが、仁王は「大人びている自分」を演じているのだ。彼は日常生活のすべてで、自分が思い描く「仁王雅治」を演じている。それは並大抵の己の確固や価値観からでは不可能なことだ。おそらく仁王の隠された本質は、とても几帳面で神経質で、そして完璧主義者なのだろう。だからこそ柳生は仁王を美しいひとだと思う。彼女は意外にも、こういった人物が嫌いではないのだ。
そんな仁王が自分に話しかけてくる理由を、柳生は的確に理解していた。彼は容姿が良いし、テストの成績も運動神経も秀でているから、女子生徒にとても人気がある。特に中学生ともなれば、恋に対して積極的になり始める年齢だ。男女の付き合いも俄然と現実味が増すし、仁王を彼氏にしたいとアプローチを仕掛ける女子も多いと聞いている。その大半が少し派手めな感じの女の子なので、仁王としては、その真逆である自分に新鮮さを見出しているのだろう。隣の席から時折かけられる言葉はセンスが良く、会話のテンポも分かっている。賢いひとだ。触れ合う度に新たな仁王を発見するつもりで、柳生は彼に接していた。男子生徒の友達がいるというのも悪くない。
彼女にとって仁王雅治という少年は、日々の楽しみのひとつだった。彼という存在は見ていて飽きないし、どう「仁王雅治」を演じるのか、その先を想像してみるのも面白い。柳生が観察対象とする存在が、仁王だった。
***
梅雨が来た。仁王にとっては夏と冬に続いて好きではない季節のひとつだ。湿気が多くて、肌に纏わり着くようなじんわりとした暑さが気持ち悪い。雨のせいで部活が筋力トレーニングに変わったり、あるいは休みになったりすることもあり、予定通りにいかないのがまた仁王の気に障る。最も気に食わないのは、髪が緩いウェーブを描いてしまうことだ。仁王の髪は軟らかく、天候に左右されやすい。ドライヤーをかけすぎれば、ただでさえブリーチを繰り返しているのに、更に髪質を悪くしてしまう。襟足を伸ばすつもりでいるけれど、まだ結ぶには足らないので、時折ぴょんと跳ねてしまう髪先が我が事ながら憎らしい。仕方ないのでワックスで四方に散らしても、午後には湿気でぺったりとしてきてしまうのだから、やってられん、と仁王はごちて益々梅雨を疎ましく思う。
「柳生の髪はええのう」
席替えは学期ごとに行うと教師が宣言したため、仁王の左隣は未だに柳生だ。昼休み、友人と弁当を食べ終えて席に戻ってきた柳生を捕まえて話しかければ、彼女は振り向いて不思議そうに首を傾げる。仁王が一目置いている亜麻色の髪の毛は、梅雨ということもあってか左肩でひとつに結ばれている。ゴムはシンプルな黒一色だけれども、その髪型は本人の希望というよりも、ただでさえじめじめとした季節に長い髪を揺らして、周囲を不快にさせないという配慮なのだろう。柳生はそういう人間だ。周囲の目をきちんと意識して、己を振舞うことが出来る。だからこそ彼女は模範生であれるのだろう。他人に自分がどう望まれているのかを察するのが上手く、そして見事それに合わせることが出来るキャパシティを有しているのだ。底が見えんのう、と仁王は柳生の一挙一動を見る度に感心する。
「髪、ですか?」
「そうじゃ。さらさらのストレートじゃろう? 艶もあって張りもあって、猫っ毛じゃないからスタイリングもしやすそうナリ。シャンプー、どこの使っちょる?」
「母が選んだものですが」
告げられたのはスーパーやドラッグストアで売っているようなメーカーではなく、聞いたことがないから美容院で直接購入しているものなのだろう。なるほど、柳生の綺麗さはこうして保たれているのかと仁王は感心した。与えられるものをただ甘受するだけの人間ではないから、きちんと許容して利用しているのだろう。柳生のママさんはさぞかし美人じゃろうなぁ、と思いを馳せる。
「仁王君の髪はぴょこぴょこと跳ねてますね」
「言わんでほしいぜよ。湿気に弱くての、気にしとるんじゃ」
「それはすみません。ですが、とても可愛らしいと思いますよ。まるで猫のようで」
「男に可愛いは禁句ぜよ」
「ふふ、でも本当ですよ」
伸ばされてくる指先が余りに自然で、仁王は拒むことさえ忘れてしまった。他人に触られるのは基本的に嫌いだ。最近ではべたべたと触ってくる女子が多くて、見え透いたアプローチに嫌気さえ差している。まぁ中一ならこんなもんじゃろ、とぼんやり思っていたうちに、柳生の指先が仁王の髪を梳いていた。左の耳辺りから、首筋にかけて、一度。ふんわりと触れて、そして離れる。
「ああ、本当に軟らかいのですね」
微笑んだ柳生に予鈴のチャイムが重なった。ランチボックスを鞄にしまって、次の授業の支度を始める彼女の姿に、仁王は呆気に取られ、次いで我に返り机に顔を伏せた。仁王君、授業はちゃんと聞くものですよ。そんな嗜めが降ってくるけれども今は知るものか。やわくなぞられた耳が死ぬほど熱くなっている。何じゃこの女。そんな動揺ばかりが仁王の胸を駆け巡っていた。何じゃこの女。何じゃこの、女。これほどまでに明確な、それでいてさり気無いセックスアピールは、仁王にとって生まれて初めての経験だった。柳生本人にその気はないというのだから、尚更に性質が悪すぎる。
梅雨のじめじめとした空気の中、仁王は初めて、他者に欲情させられる自分を知った。
***
七月になるとプールの授業が始まる。中学生ということで男女別に行われるが、柳生はその授業が憂鬱で仕方がなかった。泳げないわけではないし、水着姿になることが嫌なわけでもない。月経が重なれば休むことになるけれども、それに恥ずかしさを覚えるほど子供ではなかったし、医者の娘として人体の仕組みは当然のことだと受け止めている。それなら何が嫌なのかといえば、口にするには余りに些細なことで、ほんの少し羞恥が募るけれども、それでも柳生にとっては大きな問題のひとつなのだ。彼女は、眼鏡を外すことが嫌だった。
柳生が眼鏡をかけ始めたのは、意外にも中学に入学する直前だ。同じ神奈川第四小学校出身の者なら知っているだろうし、彼らは柳生の素顔を見たこともある。それでも柳生がどうしてそんなに自身の目元を隠したがるのかは知らないだろう。同世代の子供たちは気づかない。どちらかといえば大人、特に女性は察し、気を使ってくれる。そして極僅かな一部の大人、特に男性は、逆に柳生の敵へと回るのだ。
初めては、小学校二年生のときだった。赤いランドセルを背負って学校から帰宅途中だった柳生は、年上の男に声をかけられて足を止めた。残暑が厳しい季節だというのにその男はコートを纏っていて、それでもすぐに怪しさに気づけなかったのは認識と危機感が足りなかったのだろう。お嬢ちゃん、と呼ばれて、何か、と答えた次の瞬間に、男は自らのコートの前を一気に開いたのだ。その下には服も下着も何もなかった。見せ付けられた男の裸体は嫌悪感を与えるよりも先に、柳生を呆然とさせてしまった。にやりと唇を吊り上げた男が手を伸ばしてきたところで、近くを通りかかった主婦が悲鳴を挙げて助けを求め、男は「ちっ!」と舌打ちをしながら走り去っていった。主婦に抱き締められながら、柳生は警察や両親が駆けつけてくるまで呆然と立ち尽くしていた。それが初めて体験した、変質者という出来事だった。
驚くべきことに柳生が性犯罪者と遭遇するのは、それきりではなかった。知らない男に声をかけられることは度々あったし、そういうときはすぐに近くの店に駆け込んだ。電車に乗って痴漢に遭ったときは、大声で近くの家族連れに助けを求めた。おいでよ、と手首を物凄い力で握られて、連れ去られそうになったこともある。そのときは常備している警報ブザーを鳴らして事なきを得たけれども、柳生がそういった危機に晒される回数は、他の子供と比べて格段に多かった。本人に理由は分からず、どうして私が、と項垂れる娘を両親は優しく抱き締めて慰める。他人に危害を加えられる。それは柳生にとって凄まじい恐怖だった。
ついに辱めを受けたのが、小学校六年生のときだった。その頃の柳生は下校は常に友人と行っていたし、出来る限り外でひとりになることは避けていた。それでも自宅までの約二百メートルの距離は避けられず、駆け足で門扉を目指していた、その腕を取られた。何が起きたのか、柳生は理解することが出来なかった。視界一面に広がった黒と、金色のボタン。学生服だったから、相手はおそらく中学生か高校生だったのだろう。それでも柳生からしてみれば十分に大人の男で、彼女を怯えさせるに足る相手だった。無理やりに顔を上げさせられ、唇に何かが押し付けられたのは一瞬だったけれども、次の瞬間にはぬるりとしたものが柳生の眼球を舐め上げていた。唾液を押し付けるように執拗に、何度も何度も。どれだけ硬直していたのかは分からない。それでも柳生がはっと我を取り戻して身を捩れば、相手はそれ以上拘束を続ける気はなかったのだろう。力はすぐに緩んで逃げ出すことに成功し、柳生は死に物狂いで両親の開設する自宅に隣接した病院へ駆け込んだ。馴染みの受付事務員が慌てて寄ってくるが、抜けてしまった腰に従って入口にへたりこみ、ただ震える身体を抱き締めることしか出来ない。穢された。柳生はただ?それだけを感じていた。穢された。汚されたのだ。自分は、見ず知らずの男に。身体は唇だけだとしても、心の何より清らかな部分が。穢された。穢されたのだ。その事実に柳生は声をあげて泣くことを堪え切れなかった。最後に男の舐めていった、目。これがそもそもの原因だったのだとようやく分かった。柳生の目は子供が持つにしては余りに艶やかで婀娜っぽく、男を誘うそれだった。踏み外した輩にとって、幼い柳生は十分に性の対象だったのだ。
三日間泣き寝入りをして、ぼんやりと重い瞼を押し上げて柳生はすべてを割り切った。原因が分かっただけ幸いだ。それなら対策を立てればいい。とりあえず目を隠さなくては。後、何か護身術を習おう。自分の身を守れるような、例え力では敵わない相手に捕まったとしても、せめて逃げることだけは出来るような、そんな技術を身につけよう。もそもそと布団を出て、服を着替える。来年には中学生になるし、そうなればもはやセックスの対象として見られることになるかもしれない。幼いから、きっとあれでもまだ容赦されていた。この先は純粋なる戦いだ。自らの矜持を、貞操を、認めぬ輩に奪われて堪るか。決意は柳生を突き動かした。ファーストキスはそのための勉強代だったのだと、割り切って溝に捨てることにした。その日以来、柳生は少し離れた場所にある古武術の道場に通うようになった。ミラーコーティングされた、瞳の見えにくい眼鏡をかけ始めたのもその頃だった。
以上の経緯より、柳生は自身の目を出来る限り他人の前で晒したくはなかった。それでも水泳の授業はどうしたって眼鏡を外さなくてはならない。周囲が女子生徒ばかりで、担当教師も女性なのがせめてもの救いだ。溜息を吐き出しながら、学校指定の水着に着替える。女子の着替えは魔法だ。先に靴下を脱いで、スカートの前に中のスパッツやショーツを脱いでしまう。そして水着を履いてからスカートを脱ぐのだ。ブラウスから器用に腕だけを抜いて、肩にかけたままブラジャーのホックを外す。ブラウスの前をかき集めたら、後はささっと水着を引き上げてしまえばいい。最後にブラウスを丁寧に折り畳んでロッカーにしまえば、後は肩紐やパットを直したりの微調整だけとなる。長い髪を簡単にゴムで纏めて、ついに柳生は眼鏡を外した。もともと視力はそう悪くないのだ。僅かにぼやけた視界の中で帽子を被ってしまえば準備は終わる。さて、プールに。そう思って踏み出そうとした柳生は、向けられていた視線に気づきぎょっとした。
「柳生さんって、やっぱり美人なんだね・・・」
隣で着替えていたクラスメイトの女子にそう言われて、思わず戸惑ってしまう。彼女は「足も細いし、胸もちゃんとあるし、色白いし、下着も大人っぽいし、何かいいなぁ」と言われてもどうすればいいのか。確かに柳生は自分自身を手入れすることはマナーとして欠かさないけれども、そこまで褒められるような容姿をしているとは思えない。ありがとうございます、と控えめに礼を告げて、足早にプールに向かう。時折向けられる視線や、「あの、もしかして柳生さん?」と確認されたりする度に、思わず苦笑いを浮かべてしまったけれども、周囲が女子だけで良かったと心底感じる。柳生は男が、時にとても憎かった。
身体的な成長が、ようやく艶やかな瞳に釣合い始める。眼鏡を外した柳生は、もはや到底「女の子」と呼べるようなあどけなさではなかった。
***
仁王に最初の恋人が出来たのは、夏休みが来る前の話だった。席が離れても機会さえあれば仁王と柳生は会話をしたし、それでも数はやはり減っていた。確か通知表がどうだったかという話をして、夏には全国大会があると仁王が告げて、応援していますと柳生が応え、そのついでだったかと思う。そもそも柳生は他人の噂話に、特に当人同士の問題である恋愛には好んで口を出したりしない。仁王も好きだから付き合っているのではなく、単に「別にいいか」くらいのつもりだったからこそ特に話すべきこともなかった。それじゃあ、と手を振って別れたのが終業式の話で、久し振り、と笑い合って挨拶したのが始業式の話だ。
「そういえば夏休みに、仁王君を見かけましたよ。髪の長い女性と一緒でしたが、例の彼女さんですか?」
「ああ、別れたから元カノじゃ。テニス部の練習が忙しくて会えんかったら、もういいって言われてのう」
「大変ですね、スポーツ少年も」
「慰めてくれんのか? 薄情ぜよ」
「すみません。それでは、どうぞこちらを」
「何じゃ?」
「夏休みに家族で旅行に出かけたので。金沢の和菓子です。甘いものはお嫌いですか?」
「いや、好きナリ。ありがとさん」
「どういたしまして」
小さな和菓子の詰め合わせから饅頭をひとつ受け取り、そういえば自分は全国大会で九州に行ったのに何も買ってこなかったな、と仁王は思う。柳生がそういったことを気にする性質とは思えなかったが、次は何か買ってこよう。そう考える仁王に二人目の恋人が出来たのは十月の話で、そしてまたしても破局を迎えたのは十一月の話だった。
***
「仁王、何だよそれ? 飴? チョコ? マドレーヌ? 違う、ジンジャークッキーだろぃ? 当たり?」
朝練が終わって着替えている最中、目ざとく発見されて仁王は呆れると同時に舌を巻いた。ジャージをバッグに入れる間だけ、型崩れしないようにロッカーの棚に移動させていた、その隙を丸井は見逃さなかった。しかもシンプルな包装を見ただけで中身を当ててしまう食い意地の汚さは、いっそ感心してしまうほどである。
「ほんに、丸井は食い物にかけてはピカイチじゃのう。当たりじゃ」
「ひゃっほーい! くれよ!」
「誰がやるか。よう見てみんしゃい、ラッピングされとるじゃろ。プレゼント用じゃ」
「マジ!? クリスマスプレゼントだろぃ? 誰にやるんだよ、今付き合ってる彼女?」
「あー・・・そういえば何も用意しとらんのう」
「じゃあ誰にやるんだよ? おまえのことだから女子だろぃ?」
その絶対的な発言の根拠は何だろうと思わないでもないが、どうせ三人目の彼女の存在だと返されるのだろう。しかし、そんな存在へのプレゼントなど、仁王は綺麗さっぱり忘れていた。もとより、プレゼントを贈るという発想すらなかった。今まで付き合ってきた相手に対しても何かを贈ることなどなかったし、そんなことに金を使いたいとも思わない。けれど今、この手の中にあるクッキーは、仁王が自ら財布を開いて購入したものだ。小さいけれど、味は確かだ。このクリスマスの季節に合った可愛らしいジンジャーマンの形をしたクッキーは、見ればほのかな笑みさえ誘う。夏休み明けに土産をくれた柳生に対する、今更ながらのお返しだ。二学期はどこにも遠出をしなかったのだから、遅くなってしまったのは見逃してもらいたい。
「ささやかで目立たないが、丁寧で洒落たラッピング。クリスマスという季節を踏まえた上で、相手に気兼ねさせない値段のチョイス。本命に渡す確率は八十九パーセントだ」
「・・・おまえ、彼女がいるのに別に本命もいるのかよ。いつか修羅場になっても知らないぞ?」
「そんなヘマはせん。そもそも本命じゃなか。勝手なこと言うんもんじゃないぜよ、参謀」
「へぇ? 如何にも『現在落とそうとしている女の子用です』って感じだけどね。そもそも仁王は女子に何かあげようなんて思わないタイプだろう? そんなおまえがわざわざ用意したんだ。フフ、興味深いね」
「・・・性質悪いぜよ、幸村」
部活内では比較的仲の良い柳やジャッカル、幸村が絡んでくる。特に幸村は柔和に微笑みながらも的確に嫌なところを突いてくるから厄介だ。伊達に「神の子」と呼ばれているわけではない。それなら仁王とて「コート上の詐欺師」らしく交わしてみせよう。にやりと唇の端を吊り上げて、ひらりとクッキーの袋を揺らしてみせる。
「そうじゃの、いずれは俺の女にしてもええとは思っちょる。そんときは紹介しちゃるき」
「期待してるよ。二割ぐらい」
「おまんは本当に性質が悪いぜよ・・・」
ふふふ、と笑う幸村には何を言っても無駄だろう。仁王はラッピングの端を少しだけ直してから、鞄の中へとそれを入れた。丁寧な扱いににやにやと向けられる視線を感じたけれども無視だ。そういえば、こういうときこそ「たるんどる!」と怒鳴りそうな真田はというと、見事幸村に口を塞がれている。こいつもこいつで苦労しとるんじゃなぁ、と同情にも似た眼差しを向けて一足先に部室を出た。途端に吐く息が白く濁り、季節は年の瀬なのだと知らせる。今日の終業式を終えれば、もう冬休みに突入だ。一年なんかあっという間じゃのう。仁王は小さく呟いた。
ここまで書いて、こりゃあくっつくのに十年かかるわ、と思ったので諦めました・・・。
2012年11月23日