もしもリョマさんが山吹中のテニス部員だったら。
アメリカで生まれ、アメリカで育ち、この先もずっとアメリカで生きていくのだと無意識の内に考えていたリョーマは、そのとき初めて自身が日本人だったことを思い出した。両親共に日本人であるため家での会話は日本語が中心だが、リョーマにとっては英語の方がナチュラルに口をついて出る。それもそのはず、通っている現地の小学校には日本語を喋れる知り合いなんてひとりもいないし、英語でなくては会話ひとつ成立しない。時折、父の南次郎を訪ねてやってくる日本人がいたけれども、彼らと接する機会だって決して多いというわけではなかった。価値観形成のすべてに影響を与えたといっても過言ではないこの国が、自分の血統的に母国ではないとリョーマは初めて認識したのだ。
「ごめんなさいね、リョーマ」
「別にいいよ」
眉を下げて謝ってくる母親は、リョーマの家庭において唯一と言っても良い収入源だ。国際弁護士としてアメリカを舞台に活躍する女傑だが、知り合いに頼まれてしばらくの間日本で仕事をすることになったらしい。単身赴任を考えなかったわけでもないようだが、残される南次郎とリョーマのふたりで人間的な生活が送れるのかと考えたとき、彼女の出した答えは否だったという。よって越前家は総出で、倫子に追従してアメリカを離れ、日本に転居することとなった。プロテニスプレイヤーを引退した南次郎はからからと笑い、どこだかの伝手で寺の臨時住職という仕事まで手に入れてきた。時期的にアメリカの小学校を卒業することは叶わなかったが、春からは日本の中学校に通わなくてはならない。新しい家は東京都内らしく、幸いにも近くに南次郎の母校があるらしい。そこでいいよな、と問う父親の言葉に、どこでもいいとリョーマは頷き、すべての手続きを南次郎に任せた。それがそもそもの間違いだったのだ。
リョーマが来日したとき、すでに青春学園の入学試験は終了していた。二次試験まで、すべて。
「・・・もう、ここしか残ってないじゃん」
必死に集められたパンフレットの中から、入試日程で選別され唯一残った一枚をリョーマは眺める。そんな彼の後ろでは、南次郎が鬼と化した倫子によって正座されられ、延々と説教を受けている。初めての異国、もちろん血筋としてはリョーマの母国にあたるわけだが、とにかく初めて訪れる土地で息子に出来る限り苦労させたくないという母の願いは、夫によって無残にも散り果てたのだ。確かに怒りたくもなるだろう。妻に弱い南次郎が必死に謝罪を繰り返しているのを、いい気味、とリョーマは笑いながら眺めていた。そうしてもう一度パンフレットに視線を落とし、そのページを一枚めくる。
「っていうか俺、白い制服とか似合わないと思うんだけど」
真っ白な制服が印象的なその学校は、七十年以上の伝統と実績を誇る名門、私立山吹中だった。四月、リョーマは同校の門をくぐった。
新校舎の二階にある職員室からはグラウンド、体育館、武道館、テニスコート、外で活動するすべての運動部の様子が窺える。いくつも並んだ机は雑多な印象を与え、きちんと整っているものもあれば本やプリントが山積みになり、今にも雪崩を起こしそうなものもある。教師といえど人間。南次郎を見て育ったリョーマは、そもそも大人が完璧な生き物だとは露ほどにも思っていない。袖を通してまだ一週間しか経っていない制服は、白さだけが目立って汚さないよう気を使う。本来、そういった気配りが苦手なリョーマは早くも山吹に入学したことを後悔し始めていた。事、制服に関してだけは。
「一年生の仮入部は、再来週から始まります」
「ふーん。遅いんすね」
「四月はまだ、皆さん環境に慣れるので精一杯ですからね。二週間の期間を経て、それぞれの部活に本入部です」
「その間は全然打たせてもらえないんすか?」
「いいえ、男子テニス部は人数が少ないので、一年生でもコートに立つことが出来ますよ」
「そう、良かった」
職員室の奥まった場所にある、衝立だけで区切った簡易的な応接コーナーで、ソファーに腰かけているのは来賓ではなく小さな一年生だった。それこそ真新しい純白の制服に着られているような状態のリョーマに、男子テニス部の顧問である伴田は笑みを深める。ふたりの位置からはテニスコートの三面すべてを臨むことが出来、今日も練習に勤しんでいる部員たちの様子が見て取れた。ユニフォームは鮮やかなグリーンに校名にもなっている山吹色のラインが入っているらしいが、ここからは良く見えない。それでも三面あるテニスコートを持て余してしまいそうな人数しか把握することは出来なかった。だが、動きは悪くない。
「嬉しいですよ。越前君が山吹中に来てくれて」
にこにこと笑う伴田は、南次郎曰く「厄介なおっさん」らしい。南次郎の恩師である竜崎スミレをもってしても侮れないと言わせる性格は、きちんと部員たちの性質を踏まえた上で操るように個性を伸ばしていくからだろう。まぁ、顧問としての腕は確かだぜ。妻に散々叱られ罵られた後で、まるでフォローのようにそう言った南次郎の台詞が間違っていなかったことを、リョーマはようやく認めた。遠目に見ても部員たちの動きは悪くない。二年生と三年生だけで今現在十七名しか在籍していないらしいが、その少人数で関東大会まで毎度のように勝ち抜くのだから相当だ。楽しめそう、とリョーマは唇を吊り上げる。
「あのオレンジ色の髪の人、名前は何て言うんすか?」
「ああ、千石君ですね。三年生のシングルスプレイヤーです。昨年ジュニア選抜にも選ばれた、うちのエースですよ」
「じゃあ、あの人に勝ったら俺がエース?」
「ええ、もちろんです。ああでも越前君の他にもうひとり、逸材をスカウトしている最中なんです。彼と千石君に勝てたら、君がエースですね」
「もうひとり? 誰それ」
「秘密です」
変わらぬ笑顔は、やはり底知れない印象を与える。厄介なおっさん、という評価を思い出しつつもリョーマはそれ以上の追及を辞めた。代わりにテーブルの上に載っている饅頭に手を伸ばす。もともと山吹に入学するにあたり、リョーマはテニス部に入部するつもりだった。だが、顧問の伴田とは直接の面識がなく、別にそれで構わないと思っていたのだが、どうやら南次郎からスミレ、スミレから伴田へと話が行き、こうして声をかけられるに至っている。南次郎の息子という身上は、スミレや伴田など当時を知っている世代にとっては見逃せないものらしい。七光りに頼るつもりはないが、それらがついて回ることを理解しているリョーマは、まぁいいけどね、と無感動に饅頭を咀嚼する。三つ食べ終えたところで満足し、足元の鞄を持ち上げた。部活はまだ始まらないということでラケットバッグではない。教科書はすでに机の中に置きっぱなしなので、中身は軽い。
「じゃあ伴田先生、また部活で」
「伴爺でいいですよ。部員はみんなそう呼びます」
「伴爺? ふうん、分かった。そんじゃ失礼します」
「待っていますよ、越前君」
ぺこりと頭を下げてソファーから立ち上がる。最後まで笑顔のまま見送られて、リョーマは職員室を出た。入学して一週間ではまだ校舎の間取りを覚えていない。それでも昇降口が一階にあるのは分かっているので、近くの階段を降りることにする。上履きからスニーカーに履き替え、今日はテニスコートに背を向けて学校を去った。
「一年一組、越前リョーマっす。テニス歴は小学校に上がる前から。この春までアメリカにいたんで日本での経歴はありません。よろしくお願いします」
お辞儀をしなかったのが印象的だったなぁ、と千石清純はつい三十分前のことを振り返る。四月も半ばを迎え、一年生の仮入部期間が始まった。男子テニス部は関東大会常連校と中々の成績を治めているが、何故か毎年人数不足に悩まされている。レギュラーの数は最低限いるものの、どうしてか一学年十人を超える数は集まらないのだ。その理由は、山吹中のある東京都が男子テニスの最高激戦区だからである。昨年関東大会二位の氷帝学園、同じく関東大会四位の青春学園。近隣では何より神奈川に王者立海大付属があり、本気でテニスの頂点を目指す少年たちはその三校に行ってしまうのである。特に氷帝学園はその設備とネームバリューから二百人超のテニス部員を有することで知られている。故に昨年関東大会ベスト16の山吹は、先述の三校と比べるとどうしても余り見向きされなくなってしまう。加えて校内だと中学生にしては珍しい相撲部や、他の部活動もそれなりに良い成績を治めているから、テニス部ばかりが目立つということはないのだ。
だから今年も仮入部の期間でさえ訪れた一年生は決して多くなく、こんなもんかな、と千石は思っていた。だが、そのルーキーの中で毛色の違う少年がひとりいたのだ。ラケットが三本は入る本格的なバッグを肩に下げ、指定の体操着ではなく襟のついたポロシャツにハーフパンツ。シューズはオールラウンド用で、それだけ見ても経験者だと良く分かる。赤いラケットは目に眩しくて、そのグリップテープの巻き方ひとつ取ってもすでに確立されている個性を感じさせた。面白い。千石の目が興味に細められる。だからこそ声をかけた。
「ねぇ君、越前君だっけ?」
「そういうあんたはラッキー先輩?」
「わ、俺のこと知ってんの?」
「さっき自己紹介で自分で言ってたじゃないすか、ラッキー千石って」
「うん、じゃあ千石先輩って呼んでくれた方が嬉しいなぁ」
準備体操とランニングを終え、これから本格的な練習というところで近づいていった千石を、部長である南や東方は咎めない。彼らも気になっているのだろう、このどこからどう見ても本格的な経験者であるルーキーを。それにしても近距離になれば分かる、この小ささ。テニス選手としては決して背の高くない千石からしてみても、二十センチメートルは小さいだろう。FILAの帽子の下には大きな瞳があり、その意志の強い輝きがなければ女の子にさえ見えたかもしれない。だが、彼は少年だ。まっすぐに見上げてくる視線に、千石は久し振りの挑戦者の気概を感じ、ざわりと背筋を震わせる。それでもにこっと笑ってみせたのは、先輩としてのプライドだ。
「越前君、俺とラリーしない?」
「いいんすか? 俺、一年ですけど」
「構わないよ。経験者だし、テニス部に入るって決めてるんでしょ? だったら問題ないって」
むしろ経験者を逃がしたくないと、南などは考えているのだろう。貴重な戦力になりそうなルーキーだ。だが、千石の脳裏を占めているのは純粋な好奇心だ。この一年生はどこまでやれるか、どの程度の実力なのか。気になっての誘いに、ふうんと返された笑みは予想以上だった。
「俺も伴爺から聞いてるっす。千石先輩は山吹のエースだって」
声は明らかに含みを持っており、これは挑戦なんて生易しいものじゃない。食いつかれているのだと、ようやく千石は気づく。ねぇ、とリョーマは一歩踏み込んで下から千石を覗き込む。
「ラリーが終わったら試合しましょうよ。俺が勝ったら、エースは俺っすよね?」
「・・・まいったなぁ。俺、結構強いよ?」
「俺は凄く強いよ。一年の挑戦だし、受けてくれますよね、千石先輩?」
にやりと吊り上げられる唇を、生意気と思うよりも先に面白いと思ってしまったのが運の尽きだ。いいよ、と了承した千石に、流石に背後から南がストップをかけようと名を呼んだが無視をする。この一年生が発言通りの実力を有しているのだとしたら、それを把握するのは少しでも早い方がいい。来たるべき夏、悲願の全国大会出場のために。そのためだったら千石は、エースという看板さえ捨てたっていい。今年は自分にとって最後の夏なのだ。コートのひとつを占領して、短いラリーを交わす。身体を温めるだけのそれでも十分に互いの実力は伝わった。徐々に早まってくる鼓動は緊張と興奮と、僅かながらの恐怖。そしてそれを覆す高揚だ。ラケットを立て、リョーマがグリップを捻って回す。
「フィッチ?」
「コートを貰うよ」
「それは当ててからでしょ」
「当たるよ。俺の勘は外れたことがないんだよね。それじゃ一応、ラフで」
―――そう、千石の勘は外れないのだ。自分はきっとこのルーキーに、一年生に負けるだろう。エースの看板は譲ることになるだろう。だが、そうして出会えたプレイヤーは同じ山吹の選手なのだ。ダブルスは優秀だが、シングルスは層が薄いとされていた。そこに今年、切り札が加わるかもしれない。そうすれば山吹はまたひとつ上のランクに上がれる。都大会を勝ち抜き、関東大会の五位内に入り、そして全国大会に。行ける。そう千石が確信した瞬間、ラケットは緩やかに一度ネットに当たり、音を立てコートに倒れた。ラフだ。
「へぇ、凄いじゃん」
リョーマが感心したように目を瞬く。ありがと、と言って千石はラケットを拾い上げ、差し出した。そうして背を向け、ラインへと向かう。シューズのソールに力を込めて振り向いても、ラケットを握る手が少し震えた。二年生の室町が、試合の始まりをコールする。次の瞬間、自身の顔面をめがけて跳ね上がったサーブに、千石は反応することが出来なかった。
その日彼は、山吹中エースの名を失った。悔しかったけれども、それ以上に喜ばしい喪失だった。
何故山吹に入れたかというと、山吹が一番強い選手が欲しいんじゃないかなと思ったので。
2014年8月13日(pixiv掲載2012年3月23日)