その年は、黄金世代と呼ばれる軌跡の幕開けだった。中学、高校、大学と、後に彼らはいくつもの輝かしい記録を打ち立てていく。多くの逸材が揃った、新世代の始まりだった。
氷帝学園、跡部景吾。二百人という数多の部員を抱え、敗者切り捨てをモットーとする氷帝において、入部と同時に当時のレギュラー全員を破り、一年生ながらに部長に君臨した鬼才である。そのインサイトは対戦相手自身すら気づいていない弱点を見抜き、容赦なく攻め込む姿勢は飽くなき勝負への意気込みを感じさせる。カリスマを持って統べる彼の氷帝は、この全国大会ではベスト16の成績に終わった。しかし跡部はただの一敗もしなかった。氷帝のキングとして、彼の名は大会の歴史にに刻まれた。
獅子楽中、千歳千里。同校の橘桔平も目立ちはしたが、比べれば千歳に軍配が上がる。一年生とは思えない長身に、長い手足から繰り出される威力のあるショット。時に「神隠し」を交えて相手を翻弄しながらも、千歳は更なる何かを追い求めている。その目に宿るのは探究者としての好奇心であり、求め続ける気概は彼をまた一つ上のステージへと押し上げていく。求道者である千歳の属する獅子楽は、この全国大会ではベスト16の成績に終わった。しかし千歳はただの一敗もしなかった。九州二翼の一翼として、彼の名は大会の歴史に刻まれた。
青春学園、手塚国光。部の慣習によって一年生である彼は夏の大会に出場できなかったが、秋以降は必ずや台頭してくるに違いない。眼鏡の奥の瞳は冷静な炎を燃やし、コートに見据える姿はクールとはかけ離れている。試合に執着する様は正しくテニスプレイヤーであり、だからこそ己に集約する「手塚ゾーン」は確立された。眼前で繰り広げられる激戦に参加することが出来ず唇を噛み締める彼の青学は、この全国大会では初戦で敗退していた。手塚はただの一試合もすることが出来なかった。彼の名は大会の歴史に刻まれなかった。
四天宝寺中、白石蔵ノ介。純粋な実力の結果として、彼は上級生を押しのけてレギュラーを勝ち取ることが出来なかった。平均的な身長と体重、並以上ではあるけれども突出したところのない能力。勝者となるには才能が足りず、成り上がるには限りない努力と忍耐を要求されるだろう。苦難の道程を往く決意に拳を握る彼の在籍する四天宝寺は、この全国大会ではベスト8の成績に終わった。白石はただの一試合もすることが出来なかった。彼の名は大会の歴史に刻まれなかった。
挙げた四人だけでなく、多くの良プレイヤーがこの学年には存在している。例えば青学の不二、大石。例えば氷帝の忍足、宍戸。地区予選敗退の学校を含めれば、例えば比嘉の木手、例えば山吹の千石、例えばルドルフの赤澤、例えば六角の黒羽、佐伯。一時代を築ける彼らが今、同じ学年に集結している。そして。
「ゲームセット・アンドマッチ! ウォン・バイ・柳! 6-0!」
立海大附属中、柳蓮二。一年生ながらに王者立海でレギュラーを勝ち得、精密なテニス、何より正確無比なデータは同校の勝利に大きく貢献した。シングルスも上手かったけれど、本領を発揮したのはダブルスだった。コートに立つ中で最も小柄ながらに、彼はゲームの主導権を終ぞ握り放さなかった。涼やかな声が敗北の確率を淡々と告げた。柳はただの一敗もしなかった。立海の三強の一人として、達人として、彼の名は大会の歴史に刻まれた。
「ゲームセット・アンドマッチ! ウォン・バイ・真田! 6-0!」
立海大附属中、真田弦一郎。一年生ながらに王者立海でレギュラーを勝ち得、気迫のテニス、何より勝利へ邁進する志気は同校の勝利に大きく貢献した。まだ大きくはない身体から発されるプレッシャーは圧倒的で、正々堂々と勝負を挑み、相手に逃げることを許さない。太く低い声が一喝して対戦者のテニスを打ち砕く。真田はただの一敗もしなかった。立海の三強の一人として、皇帝として、彼の名は大会の歴史に刻まれた。
類稀なる才能を持つ選手たちが一堂に会し、けれども彼らはたった一人から目を逸らすことが出来ずにいた。視線が奪われて止まない。一瞬でも見失おうものなら、それは後の破滅に繋がる。そうとさえ思わせる強制力は、もはや暴力に近かった。それでも彼らは敵味方関係なく、ただ一人を見ることしか出来ずにいた。審判がコールする。
「これより全国大会決勝戦、シングルス1の試合を始めます! 両校選手、前へ!」
湧き上がる歓声の中で、心臓が緩やかに音を大きくしていく。誰もが震える己を叱咤して、その場に足をつけていた。ラケットを手に立ち上がる、その姿から目が離せない。才能ある者たちの視線を釘づけにして、今、プレイヤーがラインを超える。審判が彼の名を呼んだ。
「立海大附属中一年、幸村精市!」
揺さ振って放さない。離れることが出来ない。それは彼が「最強」だからだ。
神様の子供
ふわり、ふわり、柔らかな波を描く藍色の髪が揺れる。炎天下の日差しに晒され、健康的な肌色の腕が、自身の肩に纏っていたジャージを取り去る。踏み出す足は筋肉がついているけれども、決して逞しくはなく、逆に細い。それは全身に対しても言えることで、大柄ではなく、小柄ではなく、細すぎはしないけれども、強さを印象付けるものもない。長い睫毛を瞬いて、握手の手を差し出す姿は柔和なものだ。
「よろしくお願いします」
声変りを終えていない挨拶は、まるで鈴を転がしたようだった。微笑みは穏やかな少女のようで、それが本質であったのなら、彼は「天使」と呼ばれたことだろう。けれどもそうならなかった理由が、確かに彼の身の内に存在している。
「幸村、サービスプレー!」
黄色いボールがまっすぐに青空へ向かってトスされる。次の瞬間、それは相手コートに突き刺さっていた。軌道さえ見ることの出来なかった者も多いだろう。立ち竦む相手選手を一瞥して、審判から新たなボールを受け取る。そうして再度、黄色が空を舞う。あっという間に一ゲームが先取された。
幸村精市は最強だった。鋭いサービスエースを決めるだけのバネがあり、相手のサーブを跳ね返すのパワーがある。かけられた回転を打ち消すだけのテクニックがあり、コートを端まで駆けて戻って来られるだけのスピードがある。息を切らすことなく次の動作に移れる体力があり、すべてのショットを打ち返すだけの精神力がある。最速ではないし、最高でもない。それでも幸村が最強である所以は、彼が彼であることだった。彼はスポーツ選手に必要なすべてを持っている。
跡部景吾が、手のひらをきつく握り締める。コートの中を幸村が駆ける。例えどんな試合だろうと、どんな相手だろうと、幸村は慢心しない。驕らない。全力を出すことをしないときもあるけれど、それでも対戦者に対する礼儀は必ず弁えている。常に冷静な判断力は、どんな状況にも対応出来るということだ。幸村は取り乱さない。クールとは違う。彼は熱く、それでも自分を見失わない。客観的に物事を見ることが出来、その上で勝負を仕掛けに行く大胆さも持っている。常に足場を固め、上を見る姿勢を貫いている。その彼が率いる立海を、跡部は倒さなくてはならないのだ。震える。これは、慄きだ。
千歳千里が、青褪めた顔色で立ち尽くす。コートの中を幸村が舞う。容赦のないショットは速く、鋭く、威力がある。それが何球続いても衰えないことが、どれだけ恐怖か分かるだろうか。ミスを望むことは出来ない。幸村は努力を知っている。才能だけでは、こうも奇跡は続かない。才能が有り、努力を続け、それを繰り返すことが出来るところに彼の強靭な精神力を見ることが出来る。長引いても勝てない。短期決戦を挑むには隙がない。精神的に崩すことも出来ず、肉体的な疲労を待つことも出来ない。完璧な彼は、間違いなく千歳の先を行っている。震える。これは、怖さだ。
手塚国光が、音を立ててフェンスにしがみつく。かつて小学生の頃、一度だけ試合をする機会に恵まれた。あのときは時間切れのため決着はつかなかったが、スコアは手塚が負けていた。今更ながらに気づく。あれは、彼の全力ではなかったのだ。全力であったのなら、きっと手塚は今、ここにはいない。テニスを辞めていたかもしれない。聴力を奪われ、バランスを崩してコートに転がる対戦相手に自身を重ねる。強者としての在り方を、幸村は知っている。強き者は強くなくてはならない、その心構えを知っている。真田のように叩き潰すのではない。根こそぎ食らい尽くす、その強大な恐怖に手塚の身が震える。これは、畏れだ。
白石蔵ノ介が、竦んだ足で一歩下がる。触覚を奪われ、コートに這い蹲る相手を見下ろす様に、悍ましさしか覚えない。柔らかな微笑みでコートに立ち、真摯な眼差しでサーブを放ち、そして傲慢なテニスで相手を屈服させる。すべてを見ていたにも関わらず、見ていたからこそ白石は恐ろしくて堪らなかった。幸村は一人ですべてを成してしまったのだ。絶望、その言葉がまさに相応しい。相手の自己さえ奪い尽くすプレーに、身の毛がよだち奥歯が鳴った。強すぎる精神力に脅えが走り、ありえへん、と無意識に呟きが漏れる。同じ年にあんな存在がいるなんて信じられない。震える。これは、震撼だ。
幸村は、心技体を極めたプレーヤーだ。精神力が強く、優しさを兼ね添えながらもテニスに対して誠実であり、それは時に無常なまでの諦観を相手に齎す。繰り返される努力に裏打ちされた技術は、彼の自信を正しいものへと変えていく。肉体的にも練習を怠らず、スピードとパワーとテクニックに日々磨きをかけて、決して慢心を許さない。万全万能な選手、それこそが幸村精市だった。
あっという間に試合はマッチポイントを迎えてしまった。全国大会の決勝戦で、相手も歴戦を勝ち抜いてきた強豪だというのに、幸村はたったの一ポイントも与えていない。会場中の誰もが、もはや言葉を失って呆然とするしかなかった。それだけ幸村のテニスは別格だったのだ。
五感を奪うなんて、それは人ではない。だからこそ彼は「神の子」と呼ばれた。天使と呼ぶには禍々しくて、悪魔と呼ぶには美しすぎた。誰もの身体が慄き震える。全国制覇を成し遂げたいなら、立ち向かって行かなくてはならないのだ。この、最強の存在に。
「ゲームセット・アンドマッチ! ウォン・バイ・幸村! 6-0! 優勝は立海大附属中学校!」
危ぶむ展開になることなど一度もなく、幸村は勝利を手に入れた。湧き上がる立海ベンチやギャラリーとは別に、跡部や千歳、手塚や白石たちは嫌な鼓動を立て続ける己の心臓と戦わなくてはならなかった。丸井やジャッカル、仲間たちの抱擁を受けて幸村が笑う。その様はあんなにも穏やかで可憐だというのに、ネットを隔てた場所に広がるのは地獄の淵だ。対戦相手がテニスを辞めたという噂が広まるのは、秋の話だ。真田と柳もゆっくりと親友に近づいていく。脅える心を必死に隠したのは、果たして一体誰だったのか。テニスを続ける限り、上を目指す限り、決して避けて通ることは出来ないのだ。死を覚悟して挑まなくては。
幸村は間違いなく最強だった。彼らの年代の最強は、幸村精市、ただ一人だった。
幸村のあのテニスが、一年生の全国大会でお披露目されていたら、さぞかし衝撃だったと思います。周囲にどれほどの脅威と絶望を与えたのか。考えるとやっぱり、この年代の最強は幸村だと思います。
2012年4月12日