[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
観音様がみてる
くあ。カーディガンの袖で隠しながらも大口を開けて欠伸し、仁王は未だ眠気を訴える目を瞬く。出来ることならこのまま瞼を閉じて寝てしまいたいけれども、通学途中でさすがにそれは不味いだろう。今日は部活の早朝練習もなく、いつもより一時間は多く寝れたのだが、成長期の身体にとって睡眠はいくら摂っても足りないものだ。自身の夜更かしを棚に上げ、仁王はそんなことを考える。
最寄駅から立海までは徒歩十分だ。バスを使う距離でもないので、ほとんどの生徒が歩いて向かう。そんな中、仁王は前の横断歩道で信号が変わるのを待っている集団に見慣れた後ろ姿を見つけ出した。朝だというのに眠気なんて感じさせない、ぴんと伸びた背筋。真田のように威圧は感じさせないものの、正しすぎて近づくのを躊躇うそれは、テニス部では柳と柳生だけが持っている。ちなみに幸村は、近づいて声をかけるのは容易い。けれども彼の隣には並べない。一歩引いた場所から見つめたい、そういった背中をしている。前を行く清廉を絵に描いたような背中は仁王と身長がほとんど変わらない。染めていれば校則違反だが、地毛らしく教師の御咎めを食らわない亜麻色の髪は、柳ではなく柳生の証だ。故に仁王はひょこひょことその背中に向かって近づいた。柳生は例え横切っている車がなくとも、歩行者用の信号が赤から青に変わるまでじっと大人しく待っている。信号無視なんてしない。至極当然過ぎて誰もが無視しがちなことを、決して怠らずにきちんとこなすのが柳生なのだと仁王は考えている。
「仁王君。おはようございます」
「おはようさん」
声をかけるよりも先に、気配に気づいたのか柳生が振り向いた。柳生という人間は、こういうところが聡いと仁王はつくづく感じている。基本スペックは柳と似ているのだろうが、柳が計算して意図的に行動を起こす代わりに、柳生のすべては自然、あるいは厚意によるものだ。そこに思惑はなく、だからこそ柳生は紳士と呼ばれるに相応しいのだろう。下心や悪意、逆に先読みすらない純然たる親切は、誰もの心に素直に響く。柳生は天然で厄介。それが仁王の彼に対する評価だ。
信号は未だ青に変わらない。車が通らないから、何人かの生徒は信号を無視して道路を渡る。風紀委員の柳生とて、学外でまでそういった輩に注意することはない。真田なら別かもしれないが、柳生は自身の振る舞いは自身に返るものだと考えているからだろう。道から外れた行いは、その人の品位を貶める。言わば自業自得。そこまではっきり思っているわけではなかろうが、柳生は優しく他人を突き放す。それもまた自立を促すための一つの親切のように思えるから紳士は得ナリ。仁王はそんなことを考えながら、おとなしく柳生の隣並んで信号が変わるのを待っていた。柳生が隣にいるのだから、始業ベルが鳴るまでは十分に時間があるはずだ。くあ、と今度は欠伸を噛み殺す。
「おや、仁王君」
「ん」
「タイが曲がっていますよ」
眼鏡を押し上げながら柳生が指摘してきたのは、仁王のネクタイだった。身だしなみには気を付けないと、と伸ばされる手を仁王は甘受する。自分で直すのも面倒くさいし、柳生がやってくれるならそれに越したことはない。細く長く、男らしく少し骨ばった指が静かに、丁寧に、それでいて的確に滑らかに動いて、仁王のネクタイを締め直す。柳生本人はしっかりと結んでいるが、仁王相手にそうしたところですぐに緩められると理解しているのだろう。だらしなくはない、けれどもきちんとしすぎてもいない、風紀委員の服装チェックをぎりぎり通り抜けられるだろうラインは互いにとっての妥協点だ。出来ました、と掌が一度仁王の胸元を優しく押してから離れていく。それを見送り、仁王は唇の端をきゅっと吊り上げて礼を告げた。
「アリガトウゴザイマス、お姉様」
ぴたりと柳生の動きが止まった。によ。によによによ。信号が青に変わるが、仁王にとっては歩き出すよりも柳生の反応の方が優先だ。周囲を立海生が追い越していく中、企みに歪む唇を隠すことなく柳生の行動を見守る。きっかり三秒沈黙した後に、紳士スマイルが返された。否、この場合は淑女スマイルと言うべきか。
「構いませんよ。スールとして、姉が妹の面倒を見るのは当然ですから。そうでしょう? ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン?」
流石アデューを決め台詞に使っているだけあって、フランス語の発音は完璧だ。Rosa gigantea en bouton(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)―――白薔薇のつぼみ。美しさの化身ともされるその花は、今回に限って別の意味を持っている。
「何じゃ、知ってたんか」
唇を尖らせ、仁王がつまらいとポーズを作れば、柳生が肩を竦めて苦笑する。歩行者の青信号は点滅し始め、周囲の生徒は小走りになるが柳生は渡らないため仁王もそのまま横断歩道を見送った。
「『マリア様がみてる』でしょう? 先月の図書委員会便りに、推薦図書として載っていましたから。柳君にも勧められて読んでみました」
「参謀も読んだんか? あのライトノベルを?」
「少女小説ですが、読者の八割は男性だそうですよ」
「参謀が百合に目覚めてたらどうする?」
「嗜好は人それぞれですから。いいんじゃありませんか?」
仁王が肩を震わせて笑っているうちに、信号は再び赤になってしまった。ようやく眠気も覚めて、今は愉快な気持ちが大きい。
「マリア様がみてる」とは、中高生女子をターゲットとしたライトノベルだ。リリアン女学園という高校を舞台に繰り広げられる、少女たちの美しく華やかな青春劇。それだけなら巷に溢れていそうなものだが、「マリみて」が他のライトノベルと異なる理由は、リリアン女学園の制度にある。少女ばかりが集う学園では、上級生が下級生を厳しくも優しく導くために、スールという姉妹関係が結ばれるのだ。下級生は上級生をお姉様と呼び慕い、上級生は下級生にロザリオを授けて愛を注ぐ。そのどこか倒錯的な関係が人気を呼び、本来のターゲットである女性だけでなく、男性ファンも多く獲得した異色のシリーズである。ちなみにロサ・ギガンティアとは、リリアン女学園の生徒会である「山百合会」の三人のトップのうちの一人、白薔薇の呼び名だ。アン・ブゥトンがつけば、それは白薔薇とスール関係にある妹、つまり「白薔薇のつぼみ」を意味する。他にも紅薔薇(ロサ・キネンシス)や黄薔薇(ロサ・フェディダ)などが存在し、そんな少女たちによって紡がれる物語は、まるで箱庭の夢物語だ。女子校など、男である仁王にとっては秘密の花園だし、姉を持つ身としては人外魔境だとも思っている。ああいうのは真実を知らず、夢を見ているだけが良いのだ。
「しかし、何で白薔薇なんじゃ。薔薇っちゅーたら普通は紅じゃろう」
「おや、ロサ・キネンシスが良かったんですか? しかし紅薔薇はまさに主役、幸村君や真田君に相応しいかと思いまして」
「幸村が姉で、真田が妹じゃな。柳と赤也は黄薔薇か?」
「そうですね、本当は柳君にもロサ・ギガンティアの称号が似合うと思うんですが。仁王君はどう考えます?」
「そうじゃのー・・・柳と赤也が白薔薇で、ジャッカルと丸井が黄薔薇っちゅーところか」
「それでは山百合会に私たちの居場所がなくなってしまいますね」
「俺らはロサ・カニーナ、黒薔薇ぜよ。山百合会のポジションを狙う邪道の薔薇様。お似合いじゃろう?」
「ええ、そうですね」
くすくすと笑う横顔に仁王は手を伸ばす。先程のネクタイに伸ばされた柳生の指と酷似しているけれども、仁王の方が若干色が白い。スポーツ選手として爪は短く切り揃えているから、頬に触れても傷つけることはない。柳生の肌はきめ細かく、そこら辺の少女にも決して劣ってはいないだろう。それは特別な手入れをしているわけではなく、規則正しい食事バランスや生活習慣によるものだ。故に、仁王よりも柳生の肌はすべすべしていて滑らかだ。むかつくのう。そんなことを考えながら、仁王は柳生の眼鏡のつるを摘まむ。視界を突如揺らされた柳生が振り向く。眼鏡が抜き去られ、露わになった目元は鋭く、剣呑な色気を帯びている。僅かに度の入った柳生の眼鏡をかけて、仁王は笑った。
「ロザリオの代わりにこれを貰うナリ。今日は任せるぜよ、比呂士お姉様」
「・・・また音楽の授業ですか? 歌ならまだしも、リコーダーなら仁王君でもどうにかなるでしょう」
「・・・最悪なことに、歌のテストでのう」
「まったく、あなたという人は」
溜息を吐き出しながらも柳生は自身のネクタイの結び目に指をかけ、きちんとしていたそれを緩く乱す。それは了承の意であり、代わりに仁王は自身のネクタイをきつく締めた。横から手を伸ばして、優等生然とセットされていた亜麻色の髪を軽くかき混ぜる。触り心地の良い髪はあっという間に四方に散って、自然な雰囲気を纏わせる。襟足が短いけれども、それは学校に着いてから付け足せばいいだろう。髪の色だって変えなくてはいけないし、口元のほくろも忘れちゃいけない。
「貸し一つですからね。お忘れなく」
「百倍にして返してやるぜよ」
「それでは今日の三時間目の古文のテスト、満点回答でお願いします」
「・・・善処するナリ」
信号が青に変わって、今度こそ仁王と柳生も歩き出した。少し時間を使ってしまったけれども、柳生の登校時間だ。学校についても余裕は有り余っているだろうし、互いに化けることには慣れているから十分もあれば終わるだろう。仁王は鼻歌を歌いながら如何にして今日一日、テニス部レギュラーに会わずに過ごすかを画策する。入れ替わりは、さすがに一緒にいる時間の長い彼らには通用しない。もちろん仁王と柳生が本気を出せば騙すことは可能だが、何せあちらには幸村がいる。呆れこそされ教師に密告されることはないだろうが、何事も知られないのが得策だ。ふふふんと上機嫌で歩く仁王の視界に立海の校門が見えてくる。
「マリみて」で交わされる挨拶は「ごきげんよう」だと決まっている。スカートのプリーツは乱さぬように、セーラーの裾は翻さないように。リリアン女学園もびっくりな淑女、いや違った紳士を演じてやるぜよ。詐欺師と紳士の皮を同時に被り、仁王は笑った。
同じ頃、仁王と柳生の十五メートル後方では。
「なぁ・・・。あいつらの言ってることが分からない俺が悪いのか・・・?」
「まさか。あの二人は完璧に異次元だろぃ」
爽やかな早朝だというのに胃を押さえるジャッカルと、相変わらずガムを膨らませて匙を投げているブン太がいたのだった。
コバルト文庫「マリア様がみてる」より。黄薔薇組はブン太が姉でジャッカルが妹。面倒見が逆転しているスール関係。仁王が音楽が苦手なのはファンブックより。
2012年4月1日