Il fait beau.(今日は良い天気です。)
しかしそんなイタリアの空の下、立海レギュラーは迷子になってしまったようです。
立海がイタリアで迷子になっているようです。
1.紳士の場合
「・・・困りましたね」
地図を片手に、僅かに眉を下げたのは柳生比呂士だ。家族でイタリアに旅行中の彼は、今日は別行動を取ってかねてから行ってみたいと思っていた美術館へと足を運ぶ予定になっていた。観光案内の地図を片手に、イタリアの街並みを眺めながら道をゆく。途中で美味しそうなバールを見つけたり、おしゃれな雑貨屋さんの前を通ったりする度に寄り道をしたりして、ひとりだからこその気ままな時間を過ごしていたのだが、もしかしたらそれが悪かったのかもしれない。気が付いたとき、柳生は迷子になっていた。地図を見やるが、自分が今どこにいるのかも分からない。ああ、困りましたね。少し考え込むように顔を伏せ、そして上げる。
「せっかくの機会ですから、活かすべきですね」
そう言って彼は周囲を見回した。繁華街である通りはそれなりに賑わっており、店も人で溢れている。その中のひとつ、溢れんばかりの花屋から客が出てきたのに気づき、柳生はそちらへと足を進めた。Grazie.
と客を見送っていた若い女性が、柳生に気づき顔を上げる。
「Buon giorno.」(こんにちは)
「Buon giorno.」(こんにちは)
柳生の紡いだイタリア語に、女性は笑顔を返してくれた。
「Scusi, dov'è il Galleria dell’Accademia?」(すみません、アカデミア美術館はどこですか?)
「Galleria dell’Accademia? Al secondo semaforo a sinistora. Sempre diritto.」(アカデミア美術館? 二つ目の信号を左に曲がって、ずっとまっすくです)
女性の話す言葉をひとつひとつ噛み締めるように聞き取り、なるほど、と柳生は頷く。
「Quanto ci vuole?」(どれくらいかかりますか?)
「È circa dieci minuti.」(十分くらいです)
「Grazie.」(ありがとうございます)
柳生が礼を告げれば、女性はいえいえ、と胸の前で手を振る。赤茶のブロンドは日本ではあまり見かけないもので、透き通る肌にとてもよくお似合いですね、と柳生は心中で相手を褒め称えた。そして言葉を積み重ねる。
『花束を作っていただけますか? オレンジ色を中心に、可愛らしく』
『かしこまりました。リボンもお揃いの色にしますか?』
『あなたのチョイスにお任せします』
『はい』
笑って女性は足元もいくつものバケツから、綺麗に咲いている花を選び始める。少ししてマリーゴールドを中心に造られた花束は小ぶりだけれども、柳生の注文通りに可愛らしく仕上がった。リボンはオレンジ色のレースで、とても愛らしい。告げられた代金を払って柳生は花束を受け取った。そうしてそれを、目の前の女性へと差し出す。
『?』
目を瞬いた女性に、柳生は微笑みかけた。
「Questo è il grazie che insegnò un corso. Per favore lo riceva.」(道を教えてくださったお礼です。どうか受け取ってください。)
女性が目を丸くした。驚かれているのを知りながらも、柳生は女性の手を取り、その指に花束を握らせる。水仕事をするために少し荒れている指先だが、それこそが彼女の仕事に対するプライドだ。だからこそ美しく見えるのでしょうね、と柳生は笑みを深くする。ぽつり、女性が呟いた。
「・・・Sei Cinese?」(あなたは中国人?)
「No. Sono Giapponese.」(いいえ、私は日本人です)
「Giapponese・・・」(日本人・・・)
呆然としていた女性は、自身の造った花束を見下ろし、ふふ、と微笑む。そうして声を挙げて笑うと、彼女は柳生に抱きついた。
「Bellimbusto!」(なんてきざな人なの!)
ちゅ、と軽い音を立てて頬に送られたキスに柳生が目を丸くする。通りすがりの若いカップルが口笛を吹いてふたりを眺めた。
(柳生:事前に最低限の会話能力を身に着けるタイプなので、特に困ることはない。道に迷っても地元の人と話せるチャンスと考え、進んで聞きに行く)
2.皇帝の場合
「む・・・?」
はたと気が付いたとき、真田弦一郎は迷子になっていた。外見はともかく実年齢が中学生の彼の歳で迷子というのも中々に珍しいが、場所が母国日本ではなく遠いイタリアの地であれば土地勘もなく仕方がないかもしれない。周囲を見回し、数分前まで一緒にいたはずの家族の姿がないことに気づき、真田は顔色を変えた。自分ひとりがここにいて、他の家族がいないとなると、流石に迷ったのが家族ではなく自分なのだということは分かる。しまった。真田は後悔した。これもすべてアンティークショップの美しい壺に魅入っていたのが悪かったのか。
「いや、落ち着け。焦りは禁物だ」
自身に言い聞かせ、真田は再度周囲を見回す。けれどもイタリアの街並みの中に、目立つだろう日本人の黒髪は自分以外に見つけられない。真田は若干、途方に暮れてしまった。外見はともかく彼はまだ一応仮にも信じがたいが中学生なのだ。言葉の通じない外国で、ぽつんとひとり。心細くなっても仕方がない。
「・・・警察だ」
しばし立ち尽くし、硬直していた真田の思考回路がようやく働き出す。そうだ、警察だ。道に迷ったときは交番で聞けばいい。日本でのお決まりの迷子解決手段を思い出し、真田はひとり頷く。そうと決まれば行動だ。真田は力強く足を踏み出した。
周囲にはイタリア語の看板が山ほどあるが、真田自身はイタリア語がさっぱり分からない。頼りに出来るのは鞄の中の、宿泊場所であるホテルの住所と電話番号を書いたメモだけだ。確かガイドブックも持っているはずなので、そこにもしかしたら多少のイタリア語会話文みたいなものが載っているかもしれないが、今の真田はそこまで気が回らない。
「とにかく警察だ。警察に行かなくては!」
祖父が警察関係者である真田は、今回の旅行が決まった際に真っ先にイタリアの警察について調べた。カラビニエリと呼ばれるそれはイタリアの国家憲兵であり、陸軍、海軍、空軍、イタリア軍の四つで構成されているらしい。警察活動を行い、有事の際には軍としても機能する彼らの制服は、ズボンに赤いラインが入っているのが特徴だ。赤いライン赤いライン。真田は血走った眼で道行く人々をチェックする。そんな彼の眼力に脅えて、近くのイタリア人少女が悲鳴を挙げた。
そうして真田がパトロール中の隊員を見つけるまでに、三十分。彼が片言過ぎるイタリア語でホテルの場所を教えてもらうまで、更に一時間以上かかるのだった。
(真田:必死に警察を探して訴えるタイプ。そのうち意思疎通の難しさを悟った警察の人が日本の大使館に連絡してくれる)
3.スペシャリストの場合
「やっべ、ここどこだ?」
地図を手に周囲を見上げた丸井ブン太は、目指していたはずの道から外れていたことにようやく気が付いた。やはり先程の角を右に曲がったのがいけなかったのだろうか。いや、しかし地図にはパン屋の角を曲がると描かれており、そのパン屋はなかったけれども過ぎてきた通りの数からすれば、あそこで曲がるのが正しかったわけで。この地図、古いんじゃね? 丸井は唇を尖らせる。
「このままじゃお目当てのカフェが閉まっちまうだろぃ。まぁ、適当に歩いてりゃ着くか」
非常に大雑把な物の考え方である。テニスでは技巧派で相手を唸らせる丸井だが、プライベート、特に自身のことに関しては結構アバウトだ。それなりに考えて動きはするが、最終的には「どうにかなるだろぃ」といった主観を有している。よって彼は異国の地であるイタリアでも、迷子になっても慌てたり焦ったりすることはせず、のんびりと歩みを再開させた。繁華街の店を冷やかしながら、きょろきょろと周囲の珍しい文化に目を輝かせる。
「・・・ん?」
くん、と鼻先を掠めた匂いに丸井は顔を上げる。くんくん。くん。一歩進んでは鼻を動かし、その匂いを追って右へ曲がり、道路を渡る。そうして辿り着いたのは小さなバールだ。イタリアや南ヨーロッパでバールといえば、軽食などを出す喫茶店のことを指す。中にはレストランに近い食事がメインのリストランテや、コーヒーが主なカフェ・バールもあったりするが、丸井が辿り着いたのはジェラテリア・バールだった。イタリアが誇る氷菓のひとつ、フィレンツェ発祥のジェラートである。アイスクリームよりも濃厚で、それなのに低カロリーという素晴らしいデザートだ。店先のウィンドウ越しに並べられているジェラートに、丸井の目は釘付けになった。そうして彼は迷うことなく、そのバールの扉に手をかける。
「Buonjorno!」(いらっしゃい!)
中に入ると同時に、カウンターの向こうから恰幅の良い中年男性が声をかけてくる。しかしその間も丸井の視線はジェラートに注がれたままだ。ガラス越しに並んでいるジェラート各種。つけられている説明はすべてイタリア語のため理解することは出来ないが、その美味しさは容易く想像された。ごくり。丸井の喉が鳴る。食べないという選択肢はなかった。幸いにも財布の中にはユーロがちゃんと入っている。
「どれも美味そうだけど、何が入ってんのか分かんねぇ・・・! 何で俺、イタリア語勉強してこなかったんだよ!」
食いもんだけでも覚えてくりゃ良かった、と頭をかかえて丸井は項垂れた。しかし、そんな彼の視界に写真が飛び込んできた。大き目のワッフルコーンに三種類のジェラートが盛り付けられたそれは、丸井の手持ちのユーロで十分買える。よし、と姿勢を正し、丸井は写真を指さして店主に告げる。
「これ! これ!」
「È questo?」(これかい?)
「そう、これ! よろしく!」
完全な日本語である。しかし店主は理解してくれたのか、にこにこと笑ってコーンにジェラートを盛り付け始めた。その間も丸井は食い入るように店主の一挙一動、もといジェラートを見つめており、そんな様にレジに立っていた若い女性が苦笑する。料金を払い受け取ろうとすると、店主がおまけして四つ目のジェラートをほんの少しだけつけてくれた。
「ぐらっちぇ!」
カタカナで礼を言い、丸井はほくほくとして近くの椅子に座る。いただきます、と彼が両手を合わせて食への感謝を捧げると、不思議そうに周囲のイタリア人たちは首を傾げた。そうしてジェラートを掬い、スプーンを口に運ぶ。しょり。しょり。しゃく。ジェラートが舌の上でとけきると同時に、丸井は歓声を挙げた。
「うっま! 何だよこれ、美味すぎだろぃ!」
やはり日本語であったため何を言ってるのかは理解できないだろうが、それでも丸井が喜んでいることは店主にも伝わったのだろう。ぱくぱくと次から次に食べ進める様は本当に美味しそうで、見ている周囲の客たちまで自然と笑顔になっていた。
「なぁ、これってレモン?」
「? È un limone.」(? それはレモンだよ)
「りもーね? レモンだよな、多分。じゃあこっちは苺? えーと、ストロベリー?」
「Si. È una fragola.」(ああ、そっちは苺だね)
「これは? これが一番美味いんだけど!」
「È un pistacchio. Sarà delizioso?」(それはピスタチオだよ。美味しいだろう?)
「ピスタチオ? マジ美味い! この店、当たり過ぎるだろぃ!」
ばりばりばりばり。コーンまで美味しくいただいた丸井は、やはり両手を合わせて「ごちそうさまでした!」と告げる。そうして彼は再び財布を手にしてガラスの前に立った。店主を見上げて、にっと歯を見せて笑う様は完全な食道楽である。
「今度はこれとこれとこれの三つ! 大盛りで頼むぜ!」
「È un bambino che mangia bene. Io do un servizio specialmente.」(よく食べる子だ。特別にサービスするよ)
お代わりの注文に、店主も笑ってジェラートを盛り始める。先程よりも多い量に丸井が「ひゃっほう!」と歓声を挙げた。スプーンを構えて待っている姿に、女性店員がくすくすと笑う。
そうして全種類のジェラートを食べつくす頃には十分に店主と意気投合し、言語の壁などどこへ行ったのか、丸井はイタリアンドルチェの美味しさについて熱く語り、また幸いにもホテルへの帰り道を教えてもらうのだった。
(丸井:適当に歩いてたら別の美味しそうな店を発見。言葉が通じないのに店主と意気投合し、道を教えてもらえるタイプ)
4.参謀の場合
「ほう、これは面白い」
自身がどうやら道に迷っているらしいと認識したとき、柳蓮二はそう呟いて仄かな笑みを浮かべた。うっすらと瞳すら開いていたかもしれない。そしていそいそと手にしていた地図をたたみ、鞄の中へとしまう。そうして取り出したのはまたしても地図だった。異なるのは、先程までのが日本語で描かれたイタリアの地図だったのに対し、今度はイタリア語で描かれたそれだということだ。道の端により、柳は地図を広げる。列車やバスには乗っていないし、徒歩で移動したにしても距離は感覚的に四キロメートルといったところか。最後の目印として覚えていたブランド店の名前を探す。日本語とイタリア語ではスペルが少し異なるが、まもなく見つけることが出来た。
「ここから半径四キロとすると・・・」
隅についている縮尺を基に、ブランド店を中心にして円を描く。その線上のほど近い場所に自分はいるはずだ。さて、と柳はようやく顔を上げて周囲を見回す。イタリアの街は日本とはまた違った趣があるな、と感心しながら歩いていたのが迷った原因なのだろうけれども、柳に限って言えば、迷ってみたかった、という理由もある。計算するのが好きなくせに、不測の事態も嫌いじゃなくて、好奇心が旺盛な上に、冒険も意外と楽しむ性質だ。もしもここに同じ立海のチームメイトたちがいたなら、きっと指摘しただろう。柳、おまえ凄く楽しそうだな、と。
「Una libreria・・・本屋」
店先に並んでいる品ではなく、上の看板を読み上げて、そこが何を取り扱っているのか判断する。その隣に視線を移し、柳はまた読み上げる。
「Una banca、銀行。Un negozio di caffè、喫茶店。Un negozio di biancheria intima、ランジェリーショップ」
分からない単語があったので鞄から更に辞書を取り出し、その場で引き始める。道行く地元のイタリア人たちからは少し不思議そうな顔をされたけれども、観光の国だから慣れているのだろう。己の世界に没頭するように、柳は周囲の店を並べ、そして地図に当たりをつける。
「ここである確率、七十パーセント」
若干いつもより低目の数字なのは、場所が日本ではなくイタリアだからだろう。ある程度の読み書きは出来るようにしてきたが、言語は現地で学んでこそ、その真髄を得られるというもの。口にしたすべての店が並ぶ一箇所を中心にして、柳は地図の端を折り畳む。ここから目的のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂まで向かうとするなら、歩いても構わないけれどバスが良さそうだ。イタリアのバスはバス停が見つかり辛い上に、時間通りに来ない、どこで降りれば良いのかも分からない、帰りのバス停が降りた向かいにはないという散々な噂を聞いている。本当かどうか検証してみる必要があるな、と柳は手元の腕時計を確認した。時間は十分にある。チャレンジしない理由はない。
もしもここに立海のメンバーがいたのなら言っただろう。柳、何でおまえ迷子になってるのにそんなに楽しそうなんだよ、と。そうして地図を片手に歩き出し、バスが果たして本当に来るのかどうか、柳はわくわくしながら時間を計ったという。
(柳:周囲と地図を照らし合わせて、きちんと現在地を把握できるタイプ。なので時間があるときは目的地まで直行しない)
5.いい人の場合
「やべぇ・・・!」
そのとき、ジャッカル桑原は蒼白になった。ブラジル人の父親を持つ彼はハーフであるため、元が色黒で分かり辛かったが、確かに顔色を変えたのだ。右を見る。左を見る。前を見る。後ろを見る。どこを見回しても両親の姿はない。せっかく家族三人水入らずで、豪華イタリア旅行に来ているというのに、どうやら迷子になってしまったらしい。自覚して、ジャッカルはますます顔色を悪くする。それもやはり分かり辛いものであったが。
いや、でも、ぐるぐるとごちゃ混ぜになる頭で必死にジャッカルは考える。ツアーの自由時間を終えて、後はもうホテルに戻るだけだった。ただ母親がもう少し店を見てみたいと言ったため、じゃあ俺は先に帰ってるよ、とジャッカルは手を振って両親を見送った。たまには二人きりで夫婦の時間を過ごしてもらいたい。イタリアまで連れて来てくれた両親に対する、ジャッカルのちょっとした思いやりである。腕を組もうとする母に父は照れたような困ったような顔をしていて、ジャッカルは身内のことながら笑ってしまった。そうしてホテルへの道を辿っていた。バールの角を曲がり、突き当りにあるポストの横の通りを入り、更に次の角を左に曲がったところに、ホテルはあるはずだったのだが。
「・・・どこだよ、ここ」
周囲を見ても、それらしき建物はない。というか目の前に広がっているのは公園であり、カップルや子供たちが夕暮れの一時を過ごしている。ジャッカルは途方に暮れてしまった。しかし、少しの間の後に我に返り、慌てて首を振る。早くホテルに帰らなくては。両親が戻ってきて、もしも自分がいないと知ったらさぞかし心配するに違いない。それだけは避けたくて、ジャッカルは慌てて鞄の中を漁った。こういうときのために、日本を発つ前にチームメイトである柳生が本を貸してくれたのである。「初心者でも話せるイタリア語〜旅行編〜」というタイトルに、ジャッカルは今心の底から感謝していた。柳生にはちょっと多く土産を買って帰ろう。そう決めて本を開く。道の聞き方道の聞き方道の聞き方道の聞き方。索引からページを開き、ページに皺が出来るのではないかというくらいに強く握り、ジャッカルは目を走らせる。一分間ほどぶつぶつ呟いていただろうか、よし、と上げた顔には決意の色が浮かんでいた。そして公園を見回し、とあるベンチへと向かってまっすぐに歩いていく。
「あの、すみません! っじゃなかった、ス、Scusi!?」(すみません)
切羽詰った声だっただろうに、ベンチに座っていた老夫婦はジャッカルの言葉に振り返り、微笑んで「Buona sera.」と返してくれた。そのことにほっとして、ジャッカルは慌てて本を見て、言葉を続ける。
「えっと・・・Un albergo? Io vado? Io voglio andare?」(ホテル、行く、私は行きたい)
発音に自信がなくて、すべてが語尾上がりになってしまった。若干泣きそうにながらも、ジャッカルは顔を上げて老夫婦を見つめて同じ言葉を繰り返す。
「Un albergo. Io voglio andare」(ホテル、私は行きたい)
「Un albergo?」(ホテル?)
「う・・・。えっと、はい、は・・・Si. Piccolo Hotel Verona」(はい。ピッコロ・ホテル・ヴェローナ)
「Verona.」
ああ、といった感じで老夫婦は互いに頷き合い、髪に白いものの混ざった男性の方が、道路を指さして話し始める。
「Vada dritto e poi giri a destra.」(まっすぐ行って、右に曲がるんだよ)
「へ? え、ちょ、ちょっと待ってください!」
返事は貰えたらしいが、やはりイタリア語で言われてもジャッカルには何のことか理解できない。デストゥラ、デストゥラ。カタカナで呟きながらジャッカルが会話集に目を走らせていると、少し皺のある指先で、女性がとんとん、と一箇所を指し示してくれる。右、という日本語訳が一緒に載っていたそれに、ジャッカルはほっとした。
「Destra?」(右?)
「Si. Destra」(そう、右)
そう言って男性は、右手でピースを作る。それを下に向けたかと思うと、人差し指と中指を交互に前進させるようにして動かし始めた。ジャッカルがきょとんとしていると、苦笑してから左手で、ジャッカルと自身の右手を指し示す。
「uno, due, tre, quattro, cinque・・・」(1、2、3、4、5・・・)
さすがに聞いたことがあったので、ジャッカルは男性が数を数えているのだということを理解した。数字ごとに人差し指と中指を交差していき、そこでようやく歩数を言っているのだとジャッカルは気づく。慌てて一緒になって数え始めた。イタリア語の数字なんて三までしか分からないけれど、男性がカウントするのと同じようにジャッカルは心中で日本語で数えていく。三十まで数えたところで、指は一度立ち止まり、くるりと右に九十度曲がって歩き出す。そして今度は四十まで数えると立ち止まり、男性はジャッカルの目を見て「Piccolo
Hotel Verona」とにこりと笑った。つまり約三十歩まっすぐ行って右曲がり、約四十歩進めばいいのか。見えた光明に、ジャッカルには目の前の老夫婦が神様に見えて仕方なかった。立ち上がり、深く頭を下げる。
「ありがとうございます! じゃなかった、Grazie! Grazie, Grazie!」(ありがとうございます、ありがとうございます)
「Prego.」(どういたしまして)
お辞儀を初めて見たのか、老夫婦は驚いた顔をしていたけれども、目尻に皺を刻んで頷いてくれた。男性から、次いで女性から手を差し出され、ジャッカルはそれを握り返して再度「Grazie」と感謝を告げる。
「Ci vediamo.」(また会おう)
「Spero che tutto vada bene per te.」(あなたがうまく辿り着けますように)
手を振ってくれる老夫婦に深々と頭を下げ、ジャッカルは公園を出る。ここから三十歩進んで、そして右に曲がるのだ。uno、due、tre。やっぱり三までしかイタリア語で数えられないけれども、ジャッカルは足取り軽くホテルへと向かう。五分後、ホテルに無事辿り着いた彼は、世界にはいい人がたくさんいるんだな、としみじみ感慨を抱いたという。
(ジャッカル:ぼろぼろの単語でも、懸命に相手の目を見て話すので真摯な態度が伝わり、相手も好感を持ち優しく教えてくれる)
6.悪魔の場合
ちょっと泣きそうだ。いや、目尻は確実に濡れていたし、それは汗ではなく涙であった。もしかしたら冷や汗だったかもしれないけれど、とにかくそのとき、切原赤也は情けなくも立ち尽くすことしか出来なかったのである。右を向いても左を向いても、前を向いても後ろを向いても、上を向いても下を向いても、そこに一緒に旅行しているはずの両親の姿はない。耳に入ってくるのは赤也の唯一理解できる、真田が聞けば眉を顰めるかもしれないが、唯一日常会話には多分支障のない日本語ではなく、もはや奇怪な呪文にしか思えないイタリア語だ。つーかイタリア? 何だそれ。っていうか、ここどこだよ。口にすることが出来なかったのは、それほどまでに赤也が追い詰められていたという事実でもある。彼は道に迷っていた。今いる場所が分からない。イタリア語も分からない。地図も持っていない。英語の成績は五段階評価でも下から二つ目。最悪にも近い条件下で、赤也は迷子になっていたのだ。
「・・・俺、ここで死ぬのか?」
飛躍しすぎているが、赤也にとって言葉の通じない異国は、RPGに出て来る戦場よりも致死率の高そうな場所だ。何かを食べようにもユーロはあっても言葉が伝わらないし、何よりこれで意外と人見知りの気のある彼は、言語の壁を取っ払ってまで外国人に話しかけられるほどオープンではない。俺、ここで死ぬのか。赤也の脳内を絶望と飢え死にの二文字が埋め尽くす。まだ立海三連覇もしてないのに。来年こそ青学に借りを返して、立海が優勝するって決めてたのに。高等部に上がったらまた先輩たちと全国を目指して努力しようって思ってたのに。俺、こんなところで死ぬのか? 嫌だ、そんなの。嫌だ、嫌だ、嫌だ! 奥歯を噛み締めて呻き声を洩らし、それからの赤也の行動は早かった。
鞄の中から携帯電話を取り出し、リダイヤルから通話ボタンを押す。繰り返されるコール音にじりじりとその場で地団駄を踏み、ぷつ、と繋がった先、相手の第一声も待たずに声を張り上げる。
「柳先輩! 助けてください! 俺、こんなとこで死にたくねぇっす! すんませんお願いします助けてください、柳先輩!」
『・・・とりあえず、おまえの現状を大まかに説明してくれ』
「迷子になってます!」
『寝言は寝て言え』
「寝言じゃないっすよ! 俺、イタリアで迷子になってるんすよ! 気づいたら姉ちゃんも父さんも母さんもいないし、言葉は通じないしもう俺ここで死ぬんじゃないかと思って! 可愛い後輩でしょ、助けてくださいよ!」
『・・・では、その可愛い後輩とやらに教えてやろうか。おまえたち下級生は休みだから知らないかもしれないが、俺たち三年生は明日、高等部への進学に関わる大切な模試を控えている。そして赤也、日本とイタリアの時差は何時間だ?』
「へ? えーっと」
『八時間だ。イタリアは今何時だ?』
「午後の六時っす。ってことは、日本は・・・?」
『深夜二時だ。俺が模試の最中に睡眠不足で寝てしまい高等部へ進学することが出来なかったら、そのときの責任はおまえに取ってもらうとしよう』
「すんませんっした!」
イタリアだというのに、電話の向こうの相手には見えないというのに、赤也は腰を九十度で折り曲げて深く頭を下げた。その間も携帯電話は耳にくっつけたままである。通りすがりのイタリア人の男性がぎょっとした顔をしていたけれど、赤也にとっては先輩に迷惑をかけてしまったことの方が大問題だ。はぁ、と電話越しに聞こえる柳の溜息も寝起きのためか掠れている。ほんとすんません、と赤也は先ほどとは違った意味で自身が情けなくなってしまった。それでも、やはり柳は頼れる先輩だった。
『土産は期待してもいいんだろうな?』
「っ・・・もちろんっす! 後で欲しいもののメールください! 何でも買ってきます!」
『その言葉、忘れるなよ。・・・さて、イタリアで迷子中の赤也、おまえはどこに行くつもりだったんだ?』
「あ、ホテルっす。今日は観光も終わって、もう帰るだけだったんで」
『そうか。ホテルの名前は?』
「コロンビアっす」
『今、おまえの周りで何か目印になるようなものはないか? 大きなデパートや、公園、教会などだ』
「えーっと・・・」
指示されるがまま、赤也は周囲をぐるりと見回す。いくつもの建物に人、それこそ店などで溢れているが、赤也にはそのどれが何なのか理解できない。しかし、後ろを向いたときに目に入ったものは、流石に何だか言うことが出来た。
「駅があるっす」
『ほう、名前は?』
「・・・すんません、読めません」
『綴りだけでいい、順に読んでくれ』
「っす。えっと・・・エム、アイ、エル、エー、エヌ、オー、シー、エル、イーです」
『ミラノ中央駅か。他に何が見える?』
「何かってのは分かんないすけど、俺は今広場にいます。エムって看板が近くにあるっすけど」
『ドゥーカ・ダオスタ広場か』
「へ?」
『正面に半円の形をした広場があるだろう?』
「あー・・・あります」
『ならばドゥーカ・ダオスタ広場で間違いないな。喜べ、赤也。そこからならホテルまでは徒歩三分だ』
「・・・柳先輩、今、日本にいるんすよね?」
何で俺が今どこにいるのか分かるんすか。俺にだって分かんないのに。本来ならば恐怖を抱くべきところなのかもしれないが、先輩たちを純粋に慕っている赤也からすれば、すべてが「柳先輩、すげぇ」に繋がってしまう。率直な疑問に電話の向こうで柳が笑った。
『世の中には、ぐーぐるぐるまっぷ、という便利なものが存在してな。まぁ、これはおまえが帰ってきたら教えることにしよう』
「はい。ありがとうございます!」
『道を言うから、その通りに歩いていけ』
「っす。・・・あの、柳先輩」
『何だ?』
「自分から電話しといてアレなんすけど・・・明日の模試、大丈夫っすか? 俺なら道さえ教えてもらえれば、それで・・・」
ふ、と柳の空気が電波越しにも和らいだ。
『この柳蓮二、たかだが睡眠時間を三十分削られたくらいで崩れるほど軟ではないさ』
それに、おまえがちゃんとホテルに辿り着いたか確かめないと、おちおち不安で眠れない。そう続けられて、赤也は感極まって、ぐす、と鼻を鳴らした。ありがとうございます、と小さく告げれば、やはり柳が笑った気がした。
(赤也:柳に電話)
7.詐欺師の場合
ぴたり。仁王雅治は足を止めた。そうして彼は一分間ほど、その場に立ち止まって周囲を見上げていた。いきなり足を止めた仁王に通りを行き交う人々は怪訝な顔をしたり首を傾げたりしていたけれども、話しかけてくる輩はいない。銀髪という自然界には有り得ない色のせいで分かり辛いが、彼の顔立ちは明らかにこの国の、イタリアのものではなかったからだ。ぽつんと立っていた仁王は、ゆるりと肩を落とす。そしてポケットに入れたままだった手を出し、踵を返す。今までの進行方向とは真逆に歩き始めた。そう、それは辿ってきた道を正確になぞるかのように。
服屋の曲がり角に来て、一度立ち止まる。振り返り、背後の景色を確認する。曲がらずにまっすぐ進む。バールの曲がり角に来て、また立ち止まる。振り返り、背後の景色を確認する。今度は曲がって歩き始める。仁王がしているのは正しく、進んできた道を戻る行為だ。景色を確認しながら、別の道へ行かないように、順番に記憶を巻き戻している。これは仁王の観察能力があって初めて出来ることでもある。仁王は常に周囲を見ており、だからこそ彼はイリュージョンで他人に成り変わることが出来るのだ。十個目の曲がり角を曲がったところで、ポケットの携帯電話が軽快な音を鳴らし始める。舌打ちして仁王は、通話ボタンを押して耳に当てた。
『雅治? あんた、今どこにいるの?』
「姉貴か。ホテルの近くにいい感じの公園があったから、そこで日光浴してるぜよ」
『はぁ? あんた、美術館で合流するって言ってたじゃない』
「すまんが、それはお流れじゃ。俺抜きで楽しんできんしゃい」
『あっきれた。お土産はないからね』
「おん。親父たちによろしくナリ」
甲高い声の通話を切って、仁王は携帯をポケットに戻す。周囲を見回しても公園なんてあるわけがない。仁王はただ曲がり角に着く度に背後を確認して、記憶の中の光景と照らし合わせ、元来た道を選び出して慎重に辿り戻っていく。それを繰り返すこと数十回、目の前に見えてきた覚えのある建物に、無意識の内に仁王は安堵に肩を落としていた。確かホテルの前にはスーパーのような店があったから、そこで適当に食べ物でも買って帰ろう。そしてホテルの部屋で、ごろごろと家族の帰りを待てばいい。
もしもこの場に仁王のダブルスパートナーである柳生がいたのなら、彼は深い溜息を吐き出して言っただろう。仁王君、まったくあなたという人は、と。
(仁王:目的地に行くのを諦めて、来た道を辿って元の場所に帰るタイプ。迷子になったことを周囲に悟らせないよう、気まぐれで行かなかったというスタンスを示す)
8.神の子の場合
「・・・どうしよう、困ったな」
地図を片手に、幸村精市は眉間に皺を寄せた。それは本当に僅かな、ごく些細なものだった。彼の中性的な美貌に影を走らせることのない、微量な感情であったというのに。
「ヴェー! Ciao, Bella! どうしたの、悲しい顔をして。何か困ったことでもあった? 俺で良かったら相談に乗るよ。君の可愛い顔が曇るのなんて、とてもじゃないけど見てられないんだ!」(可愛い子ちゃん)
間近で軽快な声が聞こえて、幸村はぱっと顔を上げる。いつの間にこんなに近くに来ていたのか、目の前にいたのはお洒落なスーツを纏った若いイタリア人男性だった。くるんだ。前髪から一房、くるんが生えている。それが気になって視線が頭部に行ってしまったが、幸村はそれは失礼だと思い返して眼差しを下げる。ほとんど目線の変わらない高さで、男はにこにこと笑っていた。
「綺麗な黒髪だね。まるで絹みたいだ。瞳もショールより深く澄んでいて輝いているよ。きっと君自身の魅力が現れているんだね。ねぇ、お願いだよ。声を聴かせて? イタリアには観光で来たの? アジア人だよね? 日本人? 中国人? それとも韓国人かな?」
滑らかな褒め言葉と、無駄のない動きで握られた手。なるほど、これが伊達男かと、幸村はいっそ感心してしまった。だが、これは好都合だ。何せ相手はぺらぺらと英語で話しかけてくれたのだ。イタリア語は片言しか分からない幸村も、英語なら大抵の会話は聞き取れる。だからこそ彼は、にこりと微笑んで答えてやった。
「日本人です」
「ヴェ、やっぱりそうなんだ! 俺も日本人の友達がいるんだよ。菊っていってね、君と肌の色がそっくりなんだ」
「・・・驚いた。日本語、お上手ですね」
「君みたいな魅力的な子と話すために頑張って覚えたんだよ!」
日本人だと答えた瞬間、男の話す言葉が英語から日本語に変わった。それはネイティブである幸村と比べても何ら遜色はなく、発音もイントネーションもすべてが滑らかである。言っては悪いが、軽い印象を与えるこの男がバイリンガルであったとは。人は見かけによらないな、と幸村は心中で男に対して謝罪を述べた。
「良かった。道に迷って困っていたんです。良ければ教えてもらえませんか?」
「もちろんいいよ! 君の役に立てるなんて、今日の俺はすごくついてる!」
「ウフィツィ美術館に行きたいんですが」
「ウフィツィ美術館! いいところだよ、俺も大好き! ここからなら歩いていけるから、案内するよ」
こっち、と握られたままだった手を引かれて、幸村も仕方なしに歩き出す。見ず知らずの男に案内されるのは些か不安でもあったが、これだけ日本語が達者な相手にはそう会えまい。何かされそうになったら、周囲に助けを求めよう。最低限の警戒心だけは持ちながら、幸村は喋り続ける男に相槌を返す。
「ウフィツィ美術館はいいところだよ。近代式の美術館としてはヨーロッパで最古のものだし、イタリアの中でも収蔵品は最大なんだ」
「それは聞いています。メディチ家のコレクションがメインなんですよね?」
「うん。まさにイタリアルネサンスの歴史があそこにあると言っても過言じゃないんじゃないかなぁ。俺も好きで、よく行くんだ。そうだ! もしも興味があるなら、肖像画コレクションも見せてあげるよ?」
「え? でもあれは、特別な予約を取らないと見れないって・・・」
「俺、あそこの館長さんと知り合いなんだー」
「いいんですか? 嬉しいです、是非お願いします!」
「ヴェー! 俺も嬉しいよ! 遠い日本からこうやって来てくれて、俺の文化を知ろうとしてくれてるんだもん。君が少しでもイタリアを好きになってくれるといいなぁ」
嬉しそうに笑う男の横顔から、自国イタリアに対する深い愛情が読み取れて、幸村は思わずくすりと笑う。会話からも美術品に対する知識の深さが覗けて、そのことにも感心してしまう。幸村自身、絵画や詩編に興味があるので、男の話を聞くのが楽しい。だが、しかし。
「ああ、でも今日の俺は本当にラッキーだよ! 君のような天使みたいに綺麗な女の子とデートできるなんて! 帰ったら兄ちゃんに自慢しなきゃ!」
「・・・・・・」
俺、男なんですけれど。幸村はその言葉を飲みこんで、ただ男に合わせてにこにこと微笑み続けてやった。どうせ一日限りの付き合いだし、幸福をわざわざ地獄に変えてやることもない。これがそこらの男だったら話は別だが、今幸村の前にいるのは美術に詳しい、日本語の話せる、イタリアの地理に明るい現地の男なのだ。今日くらいは我慢しよう。自身にそう言い聞かせて、幸村はイタリアの街を行く。見上げた空は青く澄んで美しかった。
(幸村:ほんの少し困った顔をするだけで、周囲の人がむしろ率先して助けに来てくれる。どこに行って困ったとしても困らないタイプ)
個人的に、立海の個性はこんな感じだと思っています。幸村様が会ったのは「ヘタリア」より北イタリアの化身、フェリシアーノ・ヴァルカスです。
2012年2月5日