「観月はじめと申します」
玄関で頭を下げた男の子は、とても礼儀正しそうに見えた。少しだけ強張った表情に微笑み返し、いらっしゃい、と不二淑子は彼を迎え入れた。
手を繋いで、前へ進んで
沸騰を知らせるやかんを持ち上げ、ポットとカップにそれぞれ注ぐ。陶器がゆっくりと温まるのを待ち、ティースプーンで茶葉を二杯。入れたところで淑子は、かたんと小さな音に気が付き顔を上げた。リビングのドアを静かに開き、そこに我が子ではない男の子が立っている。パープルのシャツに淡いグレーのズボン。目が合い、淑子はにこりと笑いかける。
「観月君」
どうかしたの、と問えば、彼は僅かに瞼を伏せ、そして視線を上げて唇を開く。
「・・・申し訳ありません。少し、お時間をいただけないでしょうか」
「ええ、大丈夫よ」
二つ返事で答え、どうぞ座って、とリビングのソファーセットを手のひらで示す。失礼します、と断ってからリビングに足を踏み入れ、彼が歩く度にスリッパがささやかな音を立てた。淑子は先ほどのポットに、茶葉をもう一杯足して、再沸騰させたお湯を勢いよく注いで蓋をした。細かい茶葉なので、蒸らす間の三分間で茶菓子のカステラを切り分ける。リビングに運べば、観月はきちんと膝を揃えて座り、姿勢よく待っていた。出された菓子に頭を下げ、丁寧に注いだ紅茶にはほんのわずかに表情を緩ませる。彼と角隣になるように、淑子も一人掛け用のソファーに腰を下ろす。口を開こうとした観月に、まず淑子は紅茶を勧めた。
「ニルギリなんだけど、どうかしら?」
「・・・いただきます」
カップに口をつけ、美味しいです、とても、と述べられた感想に唇が綻ぶ、綺麗な飲み方をする子だと思った。きっと紅茶が好きなのだろう。香りを楽しむように、味を堪能するように、一口ずつ丁寧に含んでいく。けれども徐々に再び強張っていく表情に、淑子はゆっくりとカップをソーサーに戻した。同じように観月もカップをテーブルに置く。そうして膝の上に戻された手は、固く拳を作り上げた。僅かな沈黙の後、彼は額が膝に着くほど頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
紅茶の柔らかい匂いの広がるリビングに、観月の言葉はよく響いた。彼を自宅に招いた裕太は、今頃部屋で新たに渡された練習メニューの確認でもしているのだろう。あるいは宿題をこなしているのかもしれない。その一方で観月はこうして、淑子に向かい頭を下げている。ふわふわのウェービーの黒髪を見つめ、次の言葉を待った。
「周助君からすでにお聞きかと思いますが、裕太君にツイストスピンショットを教えたのは僕です。身体に負担がかかると知っていて、僕は裕太君にあの技を使わせました」
拳も、腕も、頭も震えていなかった。覚悟してきたのだろうと、淑子は思う。
「お預かりしているご子息を、進んで危険な目に遭わせました。謝って許されることだとは思っていません。ですが、申し訳ありませんでした」
言葉ひとつにも固さはあれど揺らぎはない。本当に、許されなくても構わないと、あるいは許されなくて当然だと考えているのだろう。それでも謝罪をしに来たのは、裕太をスカウトして聖ルドルフ学院に招いたのが観月自身だからに違いない。いつまで経っても上げられない頭に淑子は困ってしまった。息子と同じ年の男の子に、いつまでも頭を下げさせるような趣味はない。けれどもやはり母親として、聞いておきたいことはあった。
「理由を、教えてくれないかしら」
ぴくりと観月の肩が少しだけ跳ねる。それでも決して彼が顔を上げることはない。
「言い訳でも、建前でも構わないのよ。観月君の言い分を聞きたいの」
物事は一面だけで捉えるものではない。少なくとも淑子はそう考えており、彼女が裕太の転校を許したのもその考えに由来している。裕太の焦りも、周助の悲哀も、どちらも分かったからこそ少し距離を置いた方が良いと考え、せっかく入学した青学からルドルフへ転校することをむしろ勧めた。裕太自身がそう望んだからでもあったし、実際にルドルフに行って、時折帰省してくる際に語られるチームメイトの話は聞いているだけでもとても楽しい。都大会を終えて裕太の周助への態度も随分と変わり、今では少しぎこちなくともきちんと兄弟をやっている。結果として淑子は、裕太がルドルフに行って良かったと考えている。だが、それは裕太がこうして元気でいるから言えることなのだろう。一歩間違えれば息子は、肩や手首を壊して一生テニスが出来ない身体になっていたかもしれない。だからこそ淑子は、そうなる可能性を与えた観月に理由を聞いておきたかった。だが、彼は頑なだった。
「理由などありません。あえて言うなら勝つためです。結果を残すためには勝利が不可欠でした。だからこそ僕は裕太君にツイストスピンショットを教えました。それだけです」
「・・・観月君」
固い声音に思わず呆れが浮かんでしまった。この子は息子たちとはまた違った方向で意思が固いのだろう。観月さんは本当に頼りになるんだ。そう、まるで我がことのように誇らしげに話していた裕太の顔を思い出す。実の兄である周助が嫉妬して眉間に皺を寄せてしまうくらいに、裕太は観月を慕っている。それこそ一度も顔を合わせたことのない淑子が、観月の紅茶好きを知っているほどだ。だからこそ淑子は、昨日裕太から告げられた話を口にした。
「観月君はルドルフの高等部に進むのかしら?」
突然話題が変わったことで戸惑ったのだろう。ゆっくり、僅かに、少しだけ観月が身じろいで上半身を起こす。ようやく見れた彼の顔は青白くて、やはり緊張していたのだと淑子は悟った。彼とてまだ、十五歳の子供なのだ。
「・・・はい。そのつもりです」
「そう。裕太もね、ルドルフの高等部に進みたいんですって。今年は果たせなかった関東大会、全国大会への出場を、また今と同じメンバーで実現させたいって」
まだ二年生のため大雑把でしかない進路希望調査書を手に、そう希望した息子を思い出す。輝いていた瞳に反対なんてするわけがなく、頑張ってね、と送り出した。だが、それこそが予想外だったのだろう。観月は狼狽したようで、長い睫毛に縁どられた瞳が左右に揺れた。
「観月君」
「っ・・・」
視線を落とし、徐々に俯くように項垂れていく。その様を淑子はただ静かに見つめていた。またしても表情は見えなくなってしまったけれども、それが謝罪のためではないことが分かる。小刻みに、膝の上で握り締められている拳が震えていた。シャツに包まれている肩は薄かった。今更だが、もしかしたら観月は裕太よりも背が低いのかもしれない。ひょっとしたら周助よりも。
「・・・本当、は」
絞り出すような掠れた声に、うん、と淑子は相槌を打った。観月は全身を震わせ、それを堪えるかのように筋が浮かび上がるほど拳を強く握り締めていた。
「裕太君には、ダブルツイストスピンショットを教えるつもりでした。あれなら手首に負担もかからない。片手打ちのツイストスピンは、身体が出来上がってからでいい。そう、考えていました。裕太君は同年代に比べて体格が良いから、きっと高校に上がる頃には、と」
でも、と吐き捨てる声に滲んでいたのは何だったのか。
「僕は、待てなかった。全国から戦力を集めているルドルフにとって、成績を残すことは義務なんです。そのプレッシャーに、僕は、耐えられなかった。勝ちたかったんです。だから危険だと分かっていて、裕太君にツイストスピンを教えた。ダブルよりも早く習得できる技だったから」
「・・・・・・」
「ご理解いただけたでしょう? 僕は、僕のエゴのために裕太君を利用したんです。それだけです。高尚な理由なんてありません。あなたの大切なご子息を、僕は壊そうとした」
右の手のひらで顔を覆い、それでも露わになっている観月の唇が浮かべていたのは自身への嘲笑だった。馬鹿みたいだ。漏らされた言葉は歪んでいた。
「周助君にぶちのめされて当然のことをしたんです。今からでも遅くありません。裕太君に高等部への進学は考え直すよう言ってください。彼はもう、僕とは関わらない方がいい」
でなければ僕はまた同じ過ちを犯してしまうかもしれない。手のひらを放し、笑った観月は今にも泣き出しそうに淑子には見えた。不器用な子だ。そして繊細。裕太が頼りにし、周助が憎悪をあらわにした。それをどんな気持ちで受け止めていたのかと想像すると、淑子にはもはや何を言う気にもなれなかった。こんなに自身を追い詰めている子供をこれ以上苦しませるなんて、大人として出来なかった。だから言えることは、母親としての一言だけだった。
「観月君」
「・・・はい」
「確かにあなたは、裕太に危険なショットを教えたわ。だけど幸いにも、裕太は今、元気にテニスをしている」
「それは結果論です。不幸中の幸いに過ぎない」
「そうね。だけどあなたのおかげで、裕太と周助が仲直りできたのも事実だもの。だから、それでいいのよ」
観月の顔が歪む。けれども淑子が背筋を伸ばせば、彼も同じように姿勢を正した。左手の拳はついぞ膝の上から崩されることがなかった。手のひらにはきっと爪痕が残されてしまっただろう。向かい合う、奥歯を噛み締めているのだろう少年の顔を見て、淑子は告げた。裕太はツイストスピンショットの危険性を知った今でも尚、観月のことを慕っている。それが息子を信じる母親にとってすべての答えだ。
「これからも裕太をよろしくお願いします。母親として願うのは、息子の健やかな成長だけなのよ。あの子が元気にしててくれたなら、それだけでいいの」
「・・・僕が再度、裕太君を危険な目に遭わせても?」
「そうならないよう祈っているわ。だから、私から言いたいことはひとつだけ」
唇は自然と綻び、淑子は慈しみを湛えて微笑んだ。
「観月君。あなたも裕太と一緒に成長してください。三年後、ルドルフの全国大会の応援に行くのを、今から楽しみにしているわ」
空になったカップをふたつ持ち、キッチンに戻る。最後の一滴まで残すことなく飲んでもらえたことに淑子は嬉しくなった。流し台に置いて、再びコンロのやかんを火にかける。ふふ、と思わず笑ってしまった。
「やっぱり会えて良かったわ。裕太から聞いていた話とも、周助から聞いていた話とも、どちらとも少し違ったもの」
良い子ね、彼。そう言えば、キッチンの椅子に腰かけていた周助は黙ったまま渋面を作る。リビングから見えることのないその位置には、先程入れた紅茶が彼の分だけ用意されており、そこには観月に出したのと同じようにカステラの皿もあった。だが、それに手を付けた様子はない。表面は少しだけ乾き、きっと味が落ちてしまっただろう。
「観月君は部長ではないのよね?」
「・・・彼は選手兼マネージャーだよ。部長は赤澤君だ」
「そう。だけどスカウトも任されてるくらいだし、顧問の先生だけじゃなくて、学校からも期待されているのね。・・・大変だったでしょうね。責任を果たすのは」
「でも、それが裕太を傷つけていい理由にはならないよ」
「ええ、そうね」
険しい表情でカステラを、ここではないどこかを睨み付けている周助の前から、淑子はカップを引き上げた。沸騰したお湯をポットに注ぎ、同じ動作を繰り返して紅茶を入れる。綺麗な琥珀色が目を楽しませてくれる。周助と、彼が忌避する観月との違いを、何となく淑子は察していた。それは責任と義務だろう。周助は青学のナンバーツー、天才と呼ばれながらも部長や副部長など責任ある要職についているわけではない。言ってしまえば部内では自由に動けるポジションを有しており、気ままに過ごすことを許されている。もちろん天才と呼ばれることに対するプレッシャーはあるだろう。負けることはないと周囲に自然と思われている、それは確かに周助に対する過度な期待だ。しかし、それだけだ。部に対する責任を、周助は負うことがない。
しかし観月は違う。裕太や周助から聞く話を纏めると、彼はルドルフの司令塔であり、いわば監督に近い存在なのだと思われる。創立五年と歴史の浅い学校は、全国各地から優秀な生徒を集めることで勉強やスポーツなどの特化を図っている。その先端を切っているのが観月なのだろう。彼は言わばモデルケースとして召集され、テニス部を任され、本来中学生ならば有り得ないスカウティングという業務まで任されている。過度な権限は負わされる義務の現れだ。実際、青学に敗れた際に観月は「勝たなきゃ意味がない」と言ったらしい。彼にとってはそれがすべてだったのだろう。学校側から寄せられる期待に、重圧に、どれだけ彼は苦しんだのか。都大会敗退という結果しか残せなかったことで、学校から何かしら言われただろうことは想像に容易い。彼が失敗すれば、同じく全国各地から召集されている他の生徒たちの評価も下がる。観月は一人ではないのだ。その肩にはいくつもの重責が課せられている。だからこそ彼は非情に走ってしまった。
「・・・優しい子ね」
けれど観月は自身の行いを悔い、こうして淑子に謝りに来た。その気持ちを買ってあげたい。周助だって理解はしているだろうにぶすっと唇を尖らせており、いつになく子供らしい所作に淑子は思わず笑ってしまう。
「裕太は幸せね。良いお兄ちゃんがふたりもいて」
「・・・裕太の兄は僕だけだよ」
「はいはい」
新しい紅茶を周助の前に置き、淑子は微笑んだ。二階からは裕太の明るい笑い声が微かに聞こえてくる。観月も笑っていればいいと、淑子は思う。
彼らはまだまだ子供なのだ。ゆっくり焦らず、一歩一歩大人になっていけばいい。
ドリライ2011観月さん超素敵でした記念! 観月さんはとりあえずここから始めなきゃいけないと思ってた。
2011年11月20日