仁王の四季は、柳生と共にあった。
桜が散り、若葉が生い茂り始めると、端午の節句ですね、と柳生が言った。五月五日だった。今では街中で見かけることがほとんどなくなったが、マンションのベランダにおもちゃのような鯉幟を見つけ、ほら、と指さし、仁王を誘う。せっかくですから柏餅でも食べて帰りましょうか、と案内されて立ち寄った小さな和菓子屋で柳生はこしあんを、仁王は味噌餡を選んで公園のベンチに座って食べた。美味かった。八月に入ると、こめかみを伝う汗を拭い、静かに黙祷する柳生を何度か見た。部活の合間に行われるそれをどこか神聖なもののように仁王は眺めた。サイレンは鳴らない。テレビでも見ていれば話は別だろうが、コートにはラジオさえ持ち込みが禁止されていた。一分間の祈りを捧げ、ゆっくりと瞼を押し上げる柳生を仁王は黙って見ていた。紅葉狩りが実際に紅葉を摘むのではなく、眺めて愛でるものだと教えたのも柳生だった。平安時代に実際に手折り、手のひらに載せて紅葉を鑑賞したことに由来するようですよ、とベンチを飾っていた朱色の葉を拾い上げ、くるりと回して柳生は言った。目の高さまで掲げられた葉は変な虫食いも汚れもなく作られたかのように鮮やかで、仁王君に似合いますね、と柳生は笑った。その一週間後、仁王はその葉を永遠にした、押し花の栞を受け取った。栞を使うような本なんか読まんぜよ、と言ったのに、柳生はただ私が作りたかっただけです、と強引に押し付けてきた。もうすぐ春が来ますね、とちらほらと曇天から舞い落ちる雪を見やる柳生の横顔を、仁王は思い切り睨んだ。暑さにも寒さにも強くない身体をコートで覆い、鼻先までぐるぐると巻いたマフラーはこの先一ヶ月以上は手放せないに違いない。春の初めですよ、と雪を受け入れる柳生の指先も手袋に覆われていたけれど、これから暖かくなっていきます、と言う顔に嘘は見えなかった。来年は同じクラスになれるといいですね、という言葉はイヤーマフの所為で聞こえなかったことにした。寒いナリ。照れくささが隠し切れず真っ白な吐息となり、ふたりの帰路を飾った。
生温い風と毎日のように続く雨が、徐々に熱気を孕んでくる。青と紫の紫陽花が並ぶのを追い越しながら、互いの傘がこつんと触れ合う。ふたつの傘の半径の分だけ距離は平時より遠くなり、雨音も手伝い、声も少しばかり聴きづらい。今日は夏至ですね、と衣替えを終えて半袖のワイシャツから肘を晒し、一年で一番昼が長く、夜が短い日です、と柳生が語る。夏が来るのう、と仁王が応えれば、ええ、夏が来ますね、と柳生は頷く。傘の下で目を閉じれば聞こえてくる歓声。楽しみだと呟いたのはどっちだったか。誕生日でもないのに祖父へのプレゼントを選ぶ柳生に、首を傾げたのは九月だった。呆れたといった感じで肩を竦められ、良ければ仁王君もどうですか、と誘われたが、仁王の祖父母は遠方に住んでいるのでわざわざ荷を送るほどではないのではないか。そう言えば、こういうのは気持ちですよ、と柳生は微笑み、シンプルで質の良いハンカチを一枚購入し、ラッピングには緑のリボンを選んだ。すでに亡き祖母には、リンドウの花を供えるらしい。その晩、仁王は両方の祖父母宅に電話をした。元気、と聞いて少し部活のことなどを話しただけだというのに、四人はとても喜んで、後日届いた宅急便には仁王宛にちょっとしたお小遣いが潜められていた。緑と赤の飾りが街を彩り、明るい音楽が聞こえてくる頃に渡されたのは、ケーキではなく一個の柚子だった。冬至との関係は明らかではないのですけれど、冷え性に効果があるそうですから仁王君は是非試してみてください。輪切りにしてお風呂に浮かべるんですよ、と事細かに使用法を説明する柳生にほうほう、と適当な相槌を打ち、それでもコートのポケットの丸みに気づいた母親に指摘され、その日の仁王家の風呂は柚子湯になった。彼氏にいい匂いって言われた、と姉が自分そっくりの顔で惚気るものだから、仁王が同じ香りを纏いながら顔を歪めたのは翌日の晩の話である。
桜が咲き、四月を迎えた。以前に柏餅を食べたベンチで桜餅を手にしながら、ついに同じクラスにはなれませんでしたね、と柳生が苦笑する。上方風桜餅を食べることに専念している振りをして、仁王は返事をするタイミングを流した。江戸風桜餅を食べている柳生は出会った頃よりも背が伸びて大人びた。それは仁王も同じだが、隣の桜餅が上手そうに見え、隙を見て食らい付く自分はまだまだ子供であると考えている。仁王君、と柳生からの叱責に、噛み切れなかった桜の葉がついてきた。欲しいならそう言いたまえ、と溜息を吐く柳生の髪に、薄紅色の花弁が舞い落ちた。海開きしたようですよ、と教えられたのは暑さに汗が滲み始めた頃で、今度行きましょうか、との言葉に、いつそんな暇があるぜよ、と返した自分たちの部活にかける執念は過去の二年間とは比べ物にならなかった。勝たなければならなかった。勝利だけを求めている。だから柳生の言葉は戯言だったし、仁王も全部終わったらのう、と真に受けなかった。しかし全国大会が終わった頃には、すでに海はくらげばかりで泳ぐことは不可能だった。来年にお預けですね、という柳生の声が波の音に混ざって消えた。長袖が普通になり、仁王がカーディガンを着だす頃、出雲では神在月というそうですよ、と柳生が手帳をめくりながら話した。全国の神様がすべて出雲に集まってしまうので、他の地では神無月と呼ばれていますが、とボールペンを動かす片手間の話に、ふうん、と仁王は肘をついて相槌を打つ。そんじゃ、今度神様にでも会いに行くかのう。柳生の手帳がそれなりに埋まっているのは知っていた。部活が終わっても柳生には塾があったし、それ以外にも彼は己を高めることに貪欲だった。だけど微笑み、柳生は言うのだ。いいですね、いつにしますか、と。夜行バスを利用した0泊三日の弾丸ツアーは、食に観光に男ふたりでも十分に楽しめた。うちにいらっしゃいませんか、と誘われたのは年を開けて少し経った頃で、寒さに弱い仁王を知っていてなお誘う柳生に理由を問うてみれば、鏡開きなのでお汁粉をたくさん作りまして、との答えが返される。柳生家の汁粉は美味い。あんこの舌触りが滑らかで、僅かな塩が甘さを引き締めている。上から下まで完全防備し、仁王は冬空の下を駆けこんだ。炬燵で暖まりながら食べる汁粉は格別だった。その日の晩は柳生の家族と一緒に鍋を囲んだ。春ですね、と柳生が言う頃、ふたりはすでに卒業式を終えていた。制服から解放され、私服で平日の昼間に街を歩く。どこか不可思議な感覚を抱きながらも、まだ蕾の固いたくさんの花を見た。沈丁花の香りが鼻をくすぐる。春ですね。柳生の二度目の台詞に、そうじゃのう、と仁王も頷いた。
仁王の四季は、柳生と共にあった。そもそも仁王は季節に喜びを見出す性質ではない。花にも日の入りにも季節の食べ物にも暦の別称にも興味はないし、どうでもいいと考えている。だからこそ仁王の四季は、すべて柳生が彩ってくれていた。何度季節を繰り返しても、同じそれは二度となかった。去年と変わらず共に過ごしているというのに、違う季節が仁王を迎えた。柳生と共に見る景色は美しかった。
だがもう、隣に彼はいない。
君と月まで何光年
ジーパンのポケットで震えた携帯電話に、仁王は眉を顰めてからストラップを引っ張った。講義のためマナーモードにしていたが、それを解除し忘れていたため着信音も鳴らず、誰からのものか分からない。三度のバイブレーションで切れたそれはメールらしく、仁王はうんざりと溜息を吐いた。送り主は一体誰だ。最近、教養の授業でしつこく話しかけてくる茶髪の女か。どこから仁王のアドレスを知ったのか、毎日のように送られてくる媚びたメールにはうんざりしている。着信拒否するかのう。そう考えて仁王は受信メールを開いた。そこには絵文字を使わずシンプルな、けれど温かみのある文面が綴られていた。
『今日は中秋の名月ですね。六年ぶりに満月のお月見が出来るそうですよ』
仁王は空を見上げた。大学の後、四時間のアルバイトをしてきたため空はすでに闇に染まっている。そこに浮かんでいる月は確かに真ん丸だった。いつだったか柳生が言っていた。秋が月見に良しとされる理由。地球の地軸の関係で、秋が一番月が近く見えるんですよ、と。確かに雲ひとつかかっていない月はとても美しく、綺麗だった。
「・・・医学部は忙しいくせに、余裕じゃのう」
目の前の満月に向かい、仁王は携帯電話のカメラを構えた。かしゃり。小さな音を立てて、月が仁王の携帯に姿を移す。唐突に団子が食べたくなって、仁王はコンビニに立ち寄ることを決めた。あの日の和菓子屋のような味は期待できないだろうが、あれはまた今度の休みにでも買いに行けばいい。実習で大学に泊まり込み、多忙な生活を送っている親友にも、仕方が無いから届けてやろう。
携帯で口元を隠し、仁王は小さく笑った。こうして生活の場は離れても、その距離は当たり前だが月より近い。今も仁王の毎日は、柳生によって彩られている。
メールを送信しました。
2011年9月13日