「海! 海行きましょうよ!」
らーめん桑原。神奈川のとある街にあり、ラーメン以外にも中華メニューが豊富で美味しいと最近評判のその店で、立海二年生エース、この秋からは実質部を引っ張っていく紛れもない「立海の柱」こと切原赤也は、握り拳でそう叫んだ。





海が僕らを待っている





全身全霊を込めて挑んだ全国大会の決勝戦が行われたのが八月二十三日。欠片ひとつ残さず尽くした、心と身体を癒すのに一日。そうすると、もはや八月は残すところ七日になってしまう。九月一日からは二学期が始まるため、部活に勤しんだ彼らにとって純粋なる「夏休み」は実質七日間しか存在しない。その初日、八月二十五日。二割しか手の付けていない宿題を見て見ない振りをして、赤也は部活の先輩にメールした。遊びませんか、と。そうして返された答えは「今ジャッカルんちで飯食ってる」であり、財布と携帯電話だけをハーフパンツのポケットに押し込んで、赤也は家を出て自転車に跨った。そうして漕ぐこと三十分。赤い暖簾が目印の「らーめん桑原」に到着する。ちょうど出て来る客と擦れ違い、どうやら店は今日も繁盛しているようだった。
「丸井先輩!」
「おー」
「よお、赤也。いらっしゃい!」
「ジャッカル先輩、ちーっす! ジャッカル先輩の親父さんもこんにちは! あ、俺はワンタン麺でお願いします!」
「おう、いらっしゃい、赤也君。すぐ用意するよ」
カウンター席はサラリーマンらしいスーツ姿が埋め尽くしており、一番奥のテーブル席に見慣れた赤い髪を見つけて駆け寄る。もちろんその間、店の主であるジャッカルの父親への挨拶は忘れない。気のいい顔で笑い返され、店内を埋め尽くす香ばしい匂いに現金にも腹が鳴る。四人掛けのテーブルについている丸井はすでに青椒肉絲定食と餃子単品を食べ終えたのか空の皿を並べており、その手に握られたスプーンは杏仁豆腐を掬おうとしていた。どもっす、と頭を下げてから向かいに座れば、丸井が黙ったまま白いとろりとした塊を口へと運ぶ。途端に細められた瞳は淡く朱に染まっており、丸井が美味しいものを味わっているときの顔だと知っているので、やっぱりジャッカル先輩の親父さんの作るもんって美味いよな、と赤也は認識を新たにした。当の店主の息子であるジャッカルは、今日は店を手伝っているらしい。広くはない通路を右へ左へ軽快に動き、オーダーを取ったりいくつもの皿を重ねて器用に運んだりしている。すげぇ、と赤也が見惚れているうちに、湯気を立てたワンタン麺が目の前へ運ばれてきた。
「ほら、待たせたな」
「あざっす! いただきます!」
「で? 赤也、おまえ何しに来たんだよ」
「ちょっと丸井先輩! 俺これから食うんすから邪魔しないでくださいよ!」
「あー美味そうだな。ワンタン麺もいいよな」
「ちょ、横取りしないでくださいって!」
伸びで来る箸をレンゲで追いやり、腕でガードしながら赤也はワンタン麺に食らいつく。塩味のあっさりとしたスープはそれでいてコクがあり、麺との絡みが抜群に良い。音を立てて啜れば途端に幸せな気分になるし、ワンタンはぷりぷりとした歯ごたえがもう最高。チャーシューは箸を入れれば軽く解れ、舌の上で溶けそうな美味さは病み付きになる。くうううう美味い、と赤也が思わず箸を握り込めば、ありがとよ、とジャッカルの父親が歯を見せて笑った。そうしてスープも一滴残さず完食し、場面は冒頭へと遡る。
「海?」
首を傾げたのはジャッカルだ。午後二時を回って客も落ち着き、父親に勧められてテーブルに着く。遅い昼食であるチャーハンには当然のことながら丸井が隣からレンゲを突き立て、すでに二割が奪われている。
「そうっすよ! 海! 海行きましょう! 俺たち、この夏ちっとも遊んでないじゃないすか!」
「ああ・・・確かに部活ばっかりだったしな」
「このまま夏休みが終わるなんて嫌っすよ! だから海! この季節ならまだ泳げるじゃないすか!」
握り拳を作って主張する赤也に対し、ジャッカルはすでに諦めているのかセットのわかめスープを飲んでいる。丸井はもぐもぐとチャーハンを咀嚼しており、美味い、とその横顔が蕩けるように表現していた。
「いいな。レギュラー全員で行くか」
「さすがジャッカル先輩! いつにします? 俺的には明日でも全然いいんですけど」
「そうだな。俺も明日は店の手伝いがないし。ブン太、おまえは?」
「んー・・・。それより先に確認しとくことがあるだろぃ」
「確認?」
チャーハンの半分を食べて満足したのか、丸井がレンゲを手放して赤也を見る。唇の端についた卵をぺろりと舐め取り、神妙な顔をする先輩に赤也は目を瞬いた。
「おまえ、何しに海に行くんだよ。遊び? ナンパ? それとも食いもんかよ?」
「へ? いや、何しにって普通に遊ぶためっすけど・・・。あ、でも、丸井先輩がナンパしたいならそれでも」
「馬鹿。おまえは知らないから言えるんだよ。レギュラーで海に行ってみろぃ。・・・悲惨だぜ?」
ひと夏の恋もいいっすよね、と年頃の少年らしくだらっと顔を緩ませた赤也に対し、丸井は辛辣な言葉で夢を打ち砕く。悲惨って、と赤也が頬を引き攣らせると、ああ、と思い当たる節があるのかジャッカルが遠い目をした。その口は半分になったチャーハンをゆっくりと噛み締めている。ぴっと丸井が人差し指を立てた。
「夏、海、水着。と来ればナンパは必須だろぃ。つーか俺らの場合だと逆ナンだな。だけど海だと学校とは真逆になる」
「真逆?」
「ああ。つまり真田がもてるんだよ。あの年齢詐欺のおっさん皇帝が」
「真田副部長が!? マジで!?」
赤也の脳裏に、どーんと重苦しい効果音を立てて真田の姿が思い浮かぶ。それでさえ仁王立ちしているのだから威圧感は計り知れない。あの、鉄拳制裁と堅苦しい口調で、確かに見目は良いかもしれないが学内の女子からは遠巻きに見られている真田が、もてる? ビーチで逆ナン? 水着の女の子たちに囲まれてウハウハ? そんな馬鹿な! 信じられず叫んだ赤也にジャッカルが失笑するが、丸井は真剣な表情を崩さない。
「海だと水着だろぃ。つまり、あの真田のマッチョが女たちに注目されんだよ。そこらへんの高校生なんか比べもんにならない筋肉だろぃ? あのマッチョ目当てで声かけてくる女がめちゃくちゃいるぜ」
「そ、それ本当っすか・・・? 信じられねぇ・・・!」
「去年なんか、あいつ渡されたメルアドとか二十超えてたぜ。あの老け顔だし、中学生には見えねーしな」
真偽を確かめるかのように顔を向けられ、ジャッカルはチャーハンを呑み込みながら頷きを返してやった。丸井の言葉に嘘はない。昨年、赤也はまだレギュラー入りしていなかったので不在だったが、他のメンバーで海に行ったところ巻き起こった騒動にあんぐりと顎を落としたのは記憶に新しい。あの真田が水着のお姉さん、しかも結構年齢層が高めの、所謂社会人のお姉さんたちに囲まれてきゃあきゃあと声をかけられていたのだ。一緒に遊びませんか、やら、凄く逞しいけど何かスポーツやってるの、やら。むむむと眉を顰めながらも女性に手荒な応対をするわけにもいかず、困り切った視線を寄越されたのを覚えている。そのときは幸村の「何事も経験だ、頑張れ」という一言で真田へのヘルプは一切を禁じられたのだが。
「それと、意外にもてるのが柳だな」
「あ、それは納得っす。柳先輩、頭いいし」
「阿呆、海水浴に頭の良さが関係あるかよ。ビーチバレーで確率統計しろってか? いいか、柳は余り泳がない。ビーチパラソルの下にレジャーシートを敷いて、そこで本を読んでるのがほとんどだ」
これまた赤也の脳裏にぽんっと柳の姿が浮かんでくる。丸井の言う図を想像してみると、これまた自然に思い描けるのだからイメージ通りなのだろう。パラソルの影で、パーカーを羽織った柳が小さな文庫本を開いている。気温は三十五度を超えたとしても、きっとその横顔は涼しいに違いない。そこへ声をかけるお姉さんたち。これまた当然のように赤也の脳裏に浮かぶ柳の元に、水着姿の女性たちがやってきた。
「柳もいい身体してるしな。雰囲気あるし、ああいうのが好きな女も多いんだろぃ。『一緒にビーチバレーしませんか』って誘いに来た女、十組以上はいたぜ」
「さすが柳先輩・・・! 俺、一生ついていきます!」
「意外にもてないのが仁王だな。あいつ色が白いだろぃ? 海だとそれがマイナスで、だけどまぁ通常運転だから普通に逆ナンされるけど」
「へー。仁王先輩、ちゃんと海行くんすね。暑いの嫌いだから行かないかと思ってました」
「その代わり、仁王は海から出てこないけどな。でかい浮き輪に乗っかって、放っときゃ一日浮いてるぜ」
「何かクラゲみたいっすね」
「それ、今後仁王に言っといてやるよ。で、問題が柳生だ。あいつはすげーぞ。真田と同じかそれ以上もてる。死ぬほどもてる」
「・・・マジすか?」
今度は両頬を引き攣らせたが、そんな赤也に構わず丸井は首肯する。そうして立てた指をぴこぴこと左右に揺らし、彼は理由を羅列した。
「海だろぃ。眼鏡を外すから、もうその時点で柳生はもてる」
「あ、そっか。柳生先輩って仁王先輩と同じ顔してんすよね」
「でもって海だろぃ。濡れるからあの七三分けがなくなる」
「え、それってマジ最強じゃないすか」
「俺らにとっちゃ、あのきちっとした髪型こそ柳生だけどな。それであいつは身長もあるし、普通にいい身体してるだろぃ。加えて中身はいつもの柳生だぜ?」
「もてないわけがないっすね・・・!」
仁王とよく似た色っぽい目元を晒し、海水で乱れた髪を額に張り付け、その鍛えられたスポーツマンの身体で、かき氷が持ちきれなくて困っている女の子に「手伝います」とにこやかに微笑んで申し出る柳生。もはや最強だ。真田は無愛想かつ不慣れなところで損をしているかもしれないが、柳生はそこらへんもそつなくこなすことだろう。しかもその行為は完全なる善意で、下心など彼に限って在りやしない。いつもは真面目でしかない容姿も、海に行けばそれこそ百八十度変わって仁王のように派手になる。駄目だ。赤也は机に突っ伏した。気持ちとしては湘南の砂浜に膝をつき、自身の身体で挫折を表し跪き頭を垂れるアスキーアート「orz」を表現したいくらいだ。
「つーわけで、ナンパ目的で行くんだったら止めとけよ。他のやつらのもてっぷり見て虚しくなるぜ。まぁ、おまえがひとりで行く分には何の問題もねーだろうけど」
「・・・そういう丸井先輩とジャッカル先輩はどうなんすか?」
「俺はビーチバレーのチャンプだぜ? 当然もてるっつーの」
「俺は、その・・・まぁ、声はかけられるな」
「ジャッカル先輩、いかにも夏男って感じですもんね・・・」
ううう、と頭を抱えて赤也は項垂れる。そうなのだ、自分の先輩たちは実にいろんな種類の所謂モテ男たちなのだ。それこそ女性の趣味を網羅しているではないかと思えるほどに、インテリから硬派、清廉から派手系まで揃っている。もちろん外見だけでなく中身まで伴っているからこそのもてっぷりなのだが、後輩としてはそれが誇らしかったり、同じ男としてはそれが悔しかったりしてしまう。赤也自身とてひとりで街を歩けば時折女の子に声をかけられるくらいには容姿がいいと自覚しているが、やはり先輩たちは違う。何かもういろんな意味で伊達じゃないのだ。悔しい。一緒に海に行ったら、もっと悔しくなって地団駄を踏む羽目になりそうな気がする。だけど一緒に行きたい。遊びたい。テニス以外の思い出も作りたい。ああでも先輩たちが逆ナンされるのはすげーむかつく! 指先に力を込めて自身の癖毛をかき混ぜる赤也は気づいていない。逆ナンされる先輩たちが嫌なのか、先輩たちを逆ナンする女性たちが嫌なのか。どちらにせよ葛藤を知られたら生温かい目を向けられることになるのだが、うぐぐ、と赤也は真剣に悩み続ける。それを打ち破ったのは、あ、というジャッカルの小さな呟きだった。
「・・・やっぱり、海じゃなくて遊園地とかにするか?」
「へ? 何で?」
「いや、ほら、俺の気の回し過ぎならいいけどよ。・・・幸村は、傷跡を見られるのが嫌かもしれないだろ?」
とんとん、と眉根を下げながら己の胸元を叩いたジャッカルに、赤也だけでなく丸井も我に返って息を呑む。そうしてようやく思い出した。余りに柔和で美しく、勇敢かつ剛毅だから忘れかけていたけれども、幸村は病み上がりだ。しかも何時間にも亘る手術を乗り越えて、テニスコートへと復活を果たした身。いつもはジャージや制服に包まれているから忘れていた。あの屋上庭園の花がこの上なく似合う幸村の身体には、大きな傷跡が刻まれているのだ。それは彼が絶望を乗り越えた証だから、赤也たちは心の底から誇りに思う。だが、海水浴に来る全く関係のない赤の他人はどうだろう。穏やかな笑みを浮かべる幸村の胸に走る生々しい傷跡を興味本位で見やっては指をさす人々。想像するだけで赤也の中を怒りがぐわっと競り上がり、反射的に目が充血しかける。幸村部長を馬鹿にする奴は片っ端からぶっ倒してやる。湘南の海を血の海に変えることを赤也は誓った。
「・・・だけど、幸村君なら『余計な気を使うな』とも言いそうだろぃ」
「そうだな。じゃあプールにするか?」
「もういっそ学校のプールに忍び込みましょうよ! 夜中に!」
「馬鹿、そんなことして全国準優勝を返上する気かよ?」
「えーっと、じゃあ、えっと、じゃあ、じゃあじゃあじゃあ!」
拳を握り締めて思わず立ち上がったはいいものの、アイデアが浮かばず言葉の先が続かない。しかし下から丸井とジャッカルに見上げられ、赤也はぐっと握る掌に力を込めた。そうだ、皆で遊びたいのだ。真田も柳も柳生も仁王も丸井もジャッカルももちろん幸村も含めて、全員一緒に。この夏の思い出を作るためにはどうすれば。眉間に深い皺を刻んだところで、ぴこーんと赤也の脳裏に電球が光った。
「分かった! みんなでプールに行く方法!」
「マジ? どうすんだよ」
「駄目、内緒っす! タイミング見計らってメールしますから、そしたら行きましょうね! 水着の用意しといてくださいよ!」
「突然か? 大丈夫か、それ」
「バッチリっす! それじゃ俺、準備するから先に帰ります! おつかれっした!」
にかっと満面の笑顔を残し、ジャッカルの父親にも挨拶してから赤也が店を駆け出ていく。すぐさま自転車のスタンドを外す音がしたから、全力で家に帰るつもりなのだろう。準備って何の、とジャッカルは心配になってしまった。赤也は生意気だけれども根は悪くない、むしろ素直な性質なのだ。しかしあの紳士的な柳生をもってして「単純すぎるのが難点ですね」と言われてしまうくらいに、ちょっとばかしおつむが足りないのもまた事実だ。
「・・・本当に大丈夫か?」
「駄目じゃね?」
顔を曇らせるジャッカルの隣であっさりと言い切り、いつの間に追加注文したのか丸井は回鍋肉定食を食べ始めようとしている。おまえちゃんと金払えよ、とジャッカルが言えば、小遣い昨日貰ったから平気、と丸井がたくさんのおかずで頬を膨らませて目を細めた。美味い、という言葉にジャッカルも笑う。とりあえず話はそこで終わったはずだった。

・・・翌日。
『おはよーございます! 先輩、今日プール行きましょ! 市民プールの入り口に九時半集合で! 遅刻厳禁ですからね、じゃー失礼します!』
うぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ、ぎゃーす。さぶーん、じゃっぱーん。窓に叩きつけるように降る雨を前に、ジャッカルは赤也からそんな電話を受けていた。返事も待たずにぶちっと切れた次の瞬間、丸井から「やっぱり駄目だっただろぃ」とメールが入り、ジャッカルは腹の底から溜息を吐き出して肩を落とした。外は夏の終わりを告げる台風によって、大荒れの天気となっている。
しかしこの後、傘すら意味がなく全身びしょ濡れの状態で市民プールに行ってみれば、なんとそこにはレギュラー全員が揃っていて、赤也が幸村と柳に両頬を引っ張られながら真田に説教されている場面に出くわすのだが、それはまた別の話。どうにか開放されていたプールはどう考えても悪天候過ぎて無人で、暴風雨の中自棄になったハイテンションではしゃぎまわり全員が翌日ダウンするのだが、それもまた夏のひとつの思い出である。





危険なので真似しないでください。1.台風の中のプール。2.丸井の胃袋。
2011年9月4日