SQ2011年9月号(新テニ第56話)のネタバレを含みますので、未読の方はお気を付けください。
そこに正座
「すげぇ皺」
ちょん、と横から伸びてきた指先が自身の眉間を突くのを、柳生はきちんと視認していたし予想もしていた。スキンシップを厭うわけではないが、視界の半分を遮られても許せるのは相手が苦楽を共にしてきたチームメイトだからに違いない。丸井は赤い髪を揺らしながら小首を傾げ、ちょんちょんと柳生の眉間を人差し指で軽く突く。
「そんなしかめっ面してると、真田みたいに戻らなくなるぜ?」
「・・・しかめっ面もしたくなりますよ」
溜息を吐くことすら煩わしい。冷え切った声音にも動じずに隣に座り込む丸井は、柳生がただの紳士なだけの男ではないと知っている。舌打ちなんて下品な真似はしないものの、細い眉をあからさまに歪めて、見事に軽蔑だったり侮蔑だったりと嫌悪を表現するのが柳生なのだ。もちろんそうなる前に言葉で相手を窘めるので、こうも機嫌が悪い柳生というのは如何な立海レギュラーとて余りお目にはかかることはない。しかし今現在、実際に柳生の機嫌を地に落とす事態が目の前で繰り広げられている。目の前の、テニスコートで。
「そんなに許せねえ? 仁王がイリュージョンを使うの」
ぷう、と丸井がガムを膨らませる向こうでは、海外遠征から戻ってきたU-17の一軍選手を相手に下剋上が繰り広げられている。選ばれた二十名が彼らに挑み、勝利することが出来たなら一軍の肩書きを手に入れることが出来るのだ。立海からは今のところ幸村と柳、そして仁王がエントリーされているが、その相方の試合が柳生にとって歯痒いものになっているのだ。ぱちんと風船を割って、もきゅもきゅと丸井はガムを咀嚼する。
「オフレコにしとくぜ?」
「・・・いえ、別に構いませんよ。私がイリュージョンを嫌っていることは仁王君もご存知ですから」
「何で? あれ、便利だろぃ。誰にでもなれるんだし」
「だから嫌なんです。そんなもの態の良いカメレオンじゃありませんか」
物凄い例えだな、と思わず丸井は隣を振り返ってしまった。しかし柳生は心底本音なのか、コートの中の仁王を眺めては苛立たしげに目尻を細めている。横からなら柳生の切れ長の瞳も眼鏡に遮られることなく見ることが出来、だからこそ感情の揺れ幅を如実に知ることが出来た。柳生は腹を立てている。丸井には分かる。それは仁王に対してだ。
「相手に合せてイリュージョンを行い、誰かに成り切ってテニスをする。そうして勝つのなら構いませんが、仁王君のイリュージョンは決して完璧ではない。だからこそ負けたときには、『やっぱり偽物だから』と言われるのですよ。『やっぱり仁王だから負けたんだ』、と」
それが許せないと柳生は言う。ベンチではなく観客席にいるからとはいえ、組み替えられた足に柳生が本気で苛立っていることを丸井は悟った。そんなことを知らないだろう張本人の仁王は、コートの中でダブルスをしている。相方は柳生ではない。青学の大石だ。そうして仁王は菊丸に「イリュージョン」して、ゴールデンペアの真骨頂である「シンクロ」を披露している。
「大体、仁王君と菊丸君では同じエンターテイナーでも方向性が百五十七度は違います」
「何そのリアルな数字」
「仁王君のアクロバティックは相手を揺さぶる心理戦において発揮されるべきで、プレーそのものに反映されるものではありません。飛んだり跳ねたりなんて無駄な労力を使うのは嫌いな人なんですよ。それをイリュージョンだからといって無理に模倣して。無様な。見るに堪えない」
「そこまで言うか?」
「私が言わなくて誰が言うんです」
「・・・幸村君とか?」
ちら、と視線を走らせてみれば別のコートでは幸村がシングルス戦で一軍メンバーに挑んでいる。負けることはないと思いたいが、相手は一筋縄ではいかない強さを持つ高校生だ。勝って笑ってくれよ、なんてエールを送りながら、丸井は相変わらず不穏な隣の紳士へと意識を戻す。
「大石君に菊丸君を添わせる、それは確かに正しい選択でしょう。ですが、だったら最初から本物の菊丸君を宛がえばいいだけの話です。特に今は選ぶメンバーが決められているわけではないのですから可能でしょう? それなのにわざわざ仁王君と組ませるだなんて、勝率を自ら下げる愚行としか思えません」
「コーチには何か考えがあったんだろぃ」
「使い勝手の良い駒くらいにしか考えていませんよ、きっと。コーチが必要なのは勝つことの出来る誰かであって、それは仁王君ではありません。仁王君がイリュージョンで化ける誰かです」
「でもそれって結局は仁王が必要ってことじゃね?」
「まったく別ですね。仁王君は本来、誰かの真似なんてことをしなくても、自力で勝つことの出来る人なんですよ」
イリュージョンを秘匿しながらも、我らが立海でレギュラーまで上り詰めたのがその証拠です。言われて、確かにと丸井も納得する。全国大会決勝からこっち、仁王はイリュージョンばかりが注目を集めているようだが、その決勝戦まで勝ち上がってきたのは「イリュージョンを使わない仁王」に他ならない。日頃の部活でだって、仁王はイリュージョンを使わない。それでも十分に試合をこなせるだけの実力が仁王にはあるのだ。それなのに、ここ最近の仁王はイリュージョンを多用してばかりいる。それは何故だろうと首を傾げた丸井に、柳生があっさりと答えを告げる。
「最終的に、自分に自信がないんですよ、仁王君は。あれだけ好き勝手自分本位に振る舞っている振りをしていても、結局のところ嫌われたり否定されたりしたくないんです。だから相手の望む姿になってみせる。馬鹿ですね。そんなことしなくても、仁王君は仁王君なのに」
私のパートナーを貶める行為は例え仁王君自身であろうと許しません。はっきりと言ってのける様はそれこそ仁王以上に自分勝手に見えるけれども、柳生にその意識があるのかは微妙だ。何だかんだ言って似た者同士なんだよな、と丸井は客席に背を預けた。コートでは高校生の優勢でゲームが繰り広げられており、サーブやリターンが返される度に隣で柳生がぶつぶつと言っている。仁王君ならそこは、とか、私ならこう、とか。つまりこいつはただ単に、仁王が自分以外の奴とダブルスを組んでるのが気に食わないんだろぃ。丸井はそう結論付けて、もにゅもにゅとガムを味合うことに専念する。
「そういやおまらってシンクロしねーの?」
「興味がありませんね。私と仁王君は互いの意思で互いを知る努力をし、所作や言葉使い、振る舞いから思考回路まで、すべてを曝け出し理解し合った結果『シャッフル』を成立させたんです。私は仁王君がどう考えどう動くのか手に取るように分かりますし、仁王君にしてもそれは同じでしょう。研磨して築き上げたこの関係を、シンクロなどという一言で片付けられては堪りません」
「あー。あっち、柳が何か馬鹿やってるぜ。あれってあれだろ? 前に柳が話してた『あくとにーさん』」
「この試合が自身の限界を決めてしまう柳君にとって、何かの切っ掛けとなればいいですね。それにしても丸井君」
「何だよ?」
「私たちの出番はいつ来るのでしょうか」
「それ、俺もすげぇ知りたい」
柳生が眼鏡を押し上げ、丸井は再び風船を作り出す。そんな彼らがこの下剋上ゲームに参戦できるのかはまだ明らかになっていない。出番なさすぎだろぃ。そう呟いた丸井に、全くです、と柳生が冷静に同意した。
丸井は「これだから仁王は結局柳生のところに帰ってくるんだよな」とか思ってる。
2011年8月28日