1.プロテニスプレイヤー、手塚国光&私立医科大学六年生、大石秀一郎

「ありがとうございました」
頭を下げて診察室を出た手塚を、待合の椅子に座っていた大石が立ち上がって出迎える。病院内ということもあり駆け寄ることはないが、その目が如実に心配を孕んでいて、手塚は彼から視線を逸らし受付で診察券を受け取った。この後は薬局で薬を貰い、会計で支払いを済ませなくてはいけない。常に冷静な思考回路はこんなときでも優秀だ。我がことながら、手塚はそれを恨みたくなる。だが、予想していた未来でもあった。いつか来るだろうと予期していた。恐れていた。願いより早かったのか遅かったのか。
「手塚・・・」
大石の躊躇いがちな呼びかけに答えを返さず、手塚は空いているソファーを探した。大学病院は診察待ちの患者で混み合っているが、奥の三人掛けの椅子が空いている。そちらに足を向ければ、背後から大石も着いてくる。少し頭を整理したかった。せめて、ほんの数秒でいいから、現実を受け止める時間が欲しかった。
ソファーに座れば、すぐ隣に大石が並ぶ。廊下の端であるそこに、他の患者はちらほらとしかいない。手塚は息を吐き出した。大きくではなく、細く、静かに。隠すように左肘に右手を添える。そうして手塚は、先程診察室で医師から告げられた言葉を呟いた。
「・・・次の大会が最後だろう、と」
ひゅっと大石が息を呑む。手塚は意味もなく受付の前にある電光掲示板を見上げた。九年間通い続けた病院だ。九年間、ずっと診てきて貰った医師だ。彼の言うことは正しいのだろう。薄々と感じていた。けれども無視をしたかった手塚の未来だ。
「騙し騙し使ってきた肘も、肩も、おそらく次の試合で完全に壊れるだろうと。リハビリを続ければ日常生活に支障はないだろうが、プロとしてはもう無理だと言われた」
「そんな・・・」
「分かっていたことだ。ずっと・・・分かっていたことだ」
それでも肘を握る右手に力が籠ってしまうのは、未だ未練があるからだ。きつく瞼を閉じれば今も思い起こされる、あの暑い夏の日。関東大会の初戦で跡部と対戦し、肩を壊した。全国大会の決勝、真田と戦い、過去に傷を負っていた肘を更に壊した。青学の全国制覇を求めた故の己の行動に後悔はない。リハビリを重ね、テニスに打ち込んできた。ドイツ留学を経験し、プロの世界に足を踏み入れ六年。手塚は今年、二十四歳になる。長かったのか短かったのか、その選手生命が終わりを迎えようとしている。全豪オープン・全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープン、四大大会と呼ばれるそのどれもでまだ優勝を成し遂げていない。挑み続けたかった。己の限界を見極めたかった。更なる高みを求めたかった。だけど、それももう出来ない。もう、出来ない。
「・・・と」
「え?」
漏らされた呟きが聞き取れず、大石が顔を上げる。その表情は自身のことのように手塚の現状を受け止めており、悲嘆に暮れていた。だが、その大石も息を呑むほどに、開かれた手塚の目には力が宿っていた。眼鏡のレンズの奥で、強く、激しく、燃えているのは炎だった。
「越前と、試合をしなければ。でなければ俺のテニスは終われない」
歯を食い縛り、手塚が最後の相手に望むのは、かつての後輩だった。共に青学の全国制覇を経験し、その最も大きな原動力となってくれたルーキー。プロテニスプレイヤーとしては先輩に当たり、それでも不思議なことに世界大会で当たることはなかった。そのうち対戦できるだろうとお互いに思っていた。だがもう、時間がない。医師に宣告された瞬間、思い浮かんだのはリョーマの顔だった。ここまで追い詰められて、手塚は初めて己の本心に気づいた。
―――自分はずっと、リョーマが羨ましかったのだ。あの自由にテニスコートを舞う姿に、憧れていた。焦がれていた。彼のようになりたいと、ずっとずっと思っていた。
だからこそリョーマを倒さなくては、手塚のテニスは終われない。この身の内にもはや先輩としての在り様などない。いるのはただ、ひとりのテニスプレイヤーだ。手塚国光は、越前リョーマを倒したい。勝ちたいのだ、あの男に。負けたくない。絶対に負けたくない。
「大石」
「・・・ああ」
「すまない。・・・どうか、最後まで付き合ってほしい」
現役の医大生であり、忙しい大石に無理を言っている自覚はある。だが、どうか最後まで共にいてほしい。そう願って手塚が見やれば、大石はくしゃっと顔を歪めて、その瞳の端に涙を滲ませた。水臭いな、親友だろう? そう肩を叩かれて、手塚の全身から力が抜ける。ありがとう、と返した声が掠れた。
全国制覇を成し遂げた夏から九年。最初で最後、ただの手塚国光の戦いが始まる。





2.国立大学医学部六年生、忍足侑士&氷帝学園大学部大学院工学系研究科電気系工学専攻、向日岳人

氷帝は幼稚舎から大学院まで一貫した施設を備えているため、敷地は異なれど纏う雰囲気はすべて似ている。つまり幼稚舎であろうと大学院であろうと、すべてが「氷帝学園」なのだ。誇り高く気高くあれ、己を高めることを忘れるな。プライドと美、そして勝利を謳うのが氷帝であり、久方振りに足を踏み入れた忍足は懐かしい空気に思わず唇を綻ばせてしまった。小学校は転校を繰り返してばかりだったため、忍足のルーツは中高を過ごしたここ、氷帝にある。大学は国立の医学部を選んだために学園を出ることとなったが、かつてのチームメイトたちのほとんどが氷帝の大学部に通っていたため、勝手知ったる我が庭だ。相変わらず煌びやかな施設を横目に、忍足は敷地の奥へと足を進める。氷帝は全国にその名を知られるだけあって、どの学科も偏差値が高い。そして大学院ともなればその裕福さから日本一とも言える機材を揃えており、研究に没頭したい学生からしてみれば憧れの学校だった。その競争率の激しい大学院工学系研究科に、忍足の親友は籍を置いている。九年前の、中等部の岳人からしてみれば信じられへんなぁ、と忍足は毎度のことながら考える。
「はい」
「すんません、向日岳人はおりますか? 知り合いなんやけど」
「あーはい、少々お待ちください」
氷帝学園大学部大学院工学系研究科電気系工学専攻、なんて長ったらしい看板のぶら下がる扉を叩けば、中からひょろりと背の高い男子生徒が顔を出した。工学部は男の割合が多く華がないと言われるが、それでもきちんと服装に気を配り、所謂イケメンなのはさすが氷帝といったところだろう。岳人から聞いた話では、確かこの研究室にも女子はいないらしい。つまんねーの、と唇を尖らせた二十四歳は相変わらずの女顔で、そんな岳人自身が華代わりになっているのだろうと忍足は予想する。
「向日さーん、お客様ですよ」
「誰ー?」
「丸眼鏡の」
「あー侑士? わりぃ、あと十分待ってって言っといて」
声だけが聞こえてきて、ひょいと扉から中を覗き込んでみればいくつもの棚の向こうに見慣れた赤い髪が見える。結局のところ百六十センチメートル半ばで止まってしまった小さな背を更に丸めて、何やら作業をしているらしい。残念ながら忍足は、電気系工学とやらが一体何をする科なのか詳しく知らない。岳人に聞いてみたことはあるけれども、親友は首を傾げた後に「とりあえず何でも作る」と答えたので、本人も正しくは理解していないのだろう。すいません、と先程の男子生徒に謝られて、忍足は構わないと言って廊下の壁に背を預けた。ポケットから取り出した携帯電話で時間を確認する。十分、十分だ。十分で岳人が出てこなかったら置いていこう。そう決めて鞄の中から教授にコピーしてもらったレポートを取り出して読み始める。英語のそれは氷帝で過した六年があるから容易く読める。氷帝様様やな、と忍足は日常生活の端々で母校に感謝していた。
「わりぃ侑士、待たせた!」
ばん、と勢いよく扉を開けて岳人が出てきたのは、十分と五十三秒が回ったときだった。レポートに集中していたため、忍足も時間を忘れていた。まぁ十分台やし、と叱ることはせず、厚いコピー用紙を鞄に押し込めて岳人が隣に並ぶの待つ。大学受験の頃から勉強のときだけかけ始めた眼鏡はピンク色のプラスティックフレームで、相変わらずの岳人らしい趣味だ。その顔立ちは相変わらず童顔で少女めいており、とてもじゃないが二十四歳には見えない。けれども彼は確かに二十四で、そして電気系工学専攻の意外や意外にもホープだったりする。
「研究はええの?」
「おう。続きは明日やるし、今日は先に上がるって教授にも言ってあったから」
「ジローはもう店に着いとるみたいやで。途中で日吉も捕まえたっちゅーてたから、先にふたりで始めてるんちゃう?」
「ずっりー! 宍戸とは中等部の校門で待ち合わせだよな?」
「ああ、今日は鳳もテニス部の見学に行くっちゅうてたわ。あいつ司法試験大丈夫なんか?」
「平気じゃね? 鳳だし。宍戸は今年こそ氷帝テニス部を全国制覇させるって意気込んでたぜ。榊監督以上の鬼監督だろ」
「滝も来るらしいし、全員揃うのも久し振りやな」
「跡部と樺地もイギリスから来るんだろ? すっげー楽しみ! 侑士、今夜は飲み明かそうぜ!」
「いやいや俺ら明日も学校やろ」
「いいじゃん、徹夜徹夜ー!」
「俺らもう二十四やで、若うないんやから」
「じゃあ俺がひとりで飲むから、おっさん侑士は寝てれば?」
「おっさんやない、おっさんやないで!」
そんな風にぎゃいぎゃいと騒ぎながらキャンパスを歩く。以前に集まったのは一ヶ月前、確かジローが実家のクリーニング店を継いだ祝いだった。今回は日吉の古武術大会優勝祝賀会で、何だかんだ言いつつも月に一度は顔を合わせる。もちろん社会人として働いている面子が多いから、全員揃うことは結構まれだ。それでも連絡は欠かさないし、何かあったらハイテンションでメールする。それに返されるのは「バーカ」だったり「よくやったね」だったりと様々だが、そんな交流がこれから先も続いていけばいいと忍足は思う。氷帝は自分のルーツだ。自分たちのルーツはやはり氷帝学園なのだ。
「侑士、早くー!」
「はいはい、あんま飛び跳ねると転ぶで」
前を行く岳人が振り返る。こうして皆で大人になっていければいいと、忍足は心の底から願うのだった。





3.私立高校美術教諭、兼画家、幸村精市

から、と小さな音を立てて入ってきたのは、若くて線の細い男だった。身長は平均よりも少し高いと思うけれど、全体的に逞しいといった感じはしない。柔らかなウェーブを描く髪がまた穏やかな印象に拍車をかけていて、その整った顔にクラス中の女子が注目したのが良く分かった。もちろん自分たち男子生徒にしてみれば、格好いい男性教師なんて何の意味もないのだけれど。男は教壇に立ち、手にしていた教科書を置いて黒板に向き直る。チョークを持つ指先は案外骨ばっていて、やっぱり男なんだな、と頭の隅で納得する。しかし振り向いてにこりと笑った顔は、そりゃあ美形としか言いようのないものだった。
「今日からこのクラスの美術を担当します、幸村精市です。よろしく」
声は高くなく低くなく、どこか澄んでいて聞き覚えが良い。外見の割には古風な名前だなぁ、と何となく思う。淡い色のシャツにグレーのジャケット、スラックスも無地だけど、そのシンプルな洋服がどこぞのブランド品にさえ見えてくるのだから美形は羨ましい。イケメンだな、と隣の席の奴が囁いてきたので、まったくだと頷いてやった。今年の新任教師の人気トップに君臨するのは間違いない。何たって、この幸村先生とやらは非常に若い。自分たち高校生と五歳も変わらないんじゃないかと思わせるほど柔らかい空気を持っている。
そうして女子はこういう男の教師が大好きなのだ。特に幸村先生とやらは若い上に美形で優しそうという女子の好条件を三つも満たしている。年上の男っていいよね、なんて喋っているのもよく聞くし、おまえらみたいなのが相手にされるかよ、と男子の中で密やかに笑ったりするのも日常だ。御気の毒に、と教壇の男を眺めていれば、案の定ひとりの女子が勢いよく挙手した。いつもはどんな簡単な問題だろうと手なんて挙げない、クラスでも派手で目立つ化粧ばっちりなグループの女子だ。
「はぁい! 幸村先生っていくつですか?」
「今年で二十四だよ」
「若いー! 彼女いますかー?」
「残念ながら、いないかな」
「嘘だぁ!」
「じゃああたしなんかどうですかー!? お買い得ですよ!」
教室で馬鹿笑いしているときからは考え付かないような猫なで声で、女子たちが我先にと質問している。その目が獲物を見据えた肉食獣みたいに見えて、うわぁ、と男子は思わず引いたほどだ。マスカラの塗りたくられた目で見上げられて、口紅のてらてら光る唇で乞われて、チークでわざとらしく染められた頬を向けられて、ああ幸村先生ご愁傷様。気が弱そうだし、きっとからかわれてまた女子に「先生可愛いー!」なんて言われてしまうのだろう。馬鹿馬鹿しい、と男子が呆れ返って溜息すら吐きかけたときだった。
「君は何部?」
え、と突然の質問に女子が目を丸くする。その間もずっと幸村先生とやらは笑っていた。にこにこと。だが、そこに先程感じた押しの弱さはない。柔らかいし線が細いのも変わらないけど、うっすらと笑みから戻された瞳だけは鋭かった。女子は気づけなかったかもしれない。だが、男子は気づいた。この男は決して甘くなんかない。この教師は女子に振り回されるような、そんな柔な男なんかじゃない。君臨者だ。馬鹿な女子なんて見向きもしない、高みにいる男なのだ。
「君がもしもテニスで全国制覇を成し遂げることが出来たなら、考えてあげてもいいよ。その根性もないならお断りだ。さぁ、授業を始めるよ。今日は簡単なスケッチから―――・・・」
手元の教科書を開いて、とすらすらと滑らかに説明を始める姿に、呆然としたのはクラス全員だった。何て教師だと思うと同時に、ざまあみろと男子は笑いに肩を震わせる。女子は未だに呆気に取られていたけれども、世の中にはこういった男もいるのだ。どんなに美形で優しそうで綺麗だったとしても、断固として揺るがない自分を持っているような男が。やるじゃん、と隣の奴の呟きに頷いた。若くて格好いい男性教師なんて何の意味もないと思っていたが、どうやらそれは違っていたらしい。このクラスの男子は全員、幸村先生に好感を抱いたに違いない。退屈な美術の時間も結構いいじゃん、なんて思えるほどには。
その美しく柔らかで柳のような男がどんな絵を描くのか、彼らは後日知ることになる。果てのない闇色の絶望の中、たったひとつの光に手を伸ばして縋る、そんな天国と地獄を併せ持つ絵を描くのが、幸村精市という画家だった。





4.ファッションデザイナー、一氏ユウジ&スタジオミュージシャン、財前光

「・・・ぜん、財前」
「んー・・・」
「起きんかい、このボケ」
「だっ・・・!」
頭頂部に与えられた遠慮のない一撃に、転寝に浸っていた財前は一気に現実に引き戻された。じんじんと痛む頭を押さえて見上げれば、スタジオのライトを背景に立っている姿が見える。ユウジだ。四天宝寺中を卒業して、高校に進んで、縁が切れたと思ったら妙なところで再会を果たした、もはや腐れ縁のような先輩である。何すんすか、と財前が顔を歪めれば、おまえが呑気に寝とるからや、と返された。
「せやけど、寝る以外にやることないんで。ユウジ先輩こそ衣装替え終わったんすか」
「阿呆、そんなんとっくに終わったわ。今はお姫さんの撮影のリテイク中や」
「何回目なん」
「軽く二十は超えたな」
あー、と喉の奥から漏れた声は完全にやる気をなくしたもので、財前は壁に預けている背中をずるっと下に落とす。床に直に座っているが、さして汚れはしないだろう。黒いスーツは馬鹿みたいにセンスが良くて、じゃらじゃらとしたアクセサリーが趣味悪くならないぎりぎりのラインを保っている。これらはすべてユウジの見立てだ。ファッションデザイナーとして名を知られ始めたユウジと、スタジオミュージシャンとして度々呼ばれる財前が顔を合わせたのは、某アーティストのプロモーションビデオの撮影だった。こちら今回のスタッフね、よろしく。そう紹介されて互いを見やり、思い切り目を剥いたのは未だ記憶に新しい。そうして仕事場が重なること、すでに三回。いい加減にしてほしい奇妙な縁に、財前はあからさまに溜息を吐き出してしまう。中学時代にぎゃあぎゃあといがみ合っていた先輩が、よもやまさか社会人になって一番近くの現場で働く人間になるとは思いもよらなかったのだ。
いくつものライトの下で、女性アーティストが摩訶不思議な衣装を着て踊っている。いや、踊っているというのは語弊があるのかもしれないが、とりあえずパフォーマンスを取っている。歌は後から加えるのであって、一応バックミュージック程度に流しており、彼女も歌ってはいるけれどもそれは唇の動きを撮るためであって本気ではない。財前たちバックバンドの登場は後なのでベースケースを片手に暇を持て余していたのだが、出番はまだまだ遠そうだ。
「小春先輩、元気すか」
どうしようもなく延々と惚気が続くと分かっていても話題を振ったのは、流石に暇過ぎたからかもしれない。楽器を鳴らしていいのなら作曲をするけれども、一応ここには呼ばれて来ている身なので勝手な振る舞いは控えるべきだろう。問えば真剣に自身の作った服のひるがえり具合を見ていたユウジが、途端にでれっと表情を蕩けさせた。瞬間、財前が後悔したのは言うまでもない。
「小春かぁ! 小春は元気やで、昨日も今日も明日もめっちゃ可愛えに決まっとるやろ! この前の土曜も一緒に飯食うたんやけどなぁ、ほら小春も大学院で忙しいやろ? 俺が気合入れて飯作ったら『こんなに食えへんわ、限界考えろこの阿呆』とか言われてもうて、まぁあれも小春なりの照れ隠しやし、結局美味いっちゅうて褒めてくれし、俺めっちゃ幸せやったわ! それに三日前もメールでな」
「小春先輩、研究室に残ってゆくゆくは大学教授になるんでしたっけ」
「せやなー小春やったらあっちゅーまやろうけどな!」
「白石部長は今年薬科大卒業やし、謙也さんも単位落とさへんかったら医大卒業やし」
「落さんかったらな」
「落さへんかな」
「指さして笑うてやりたいわ。師範も小石川も元気そうやし、あとはあれやな、オサムちゃんもええ加減に結婚しないとやばいんちゃうか?」
「あー・・・いや、それ無理やろ。千歳先輩が定職に就くのと同じくらい難しいと思うっすわ」
「あいつも相変わらず自由人やしなぁ」
まだ世間に発表されていない音楽をバックに無駄口を叩く。華やかかもしれないが、堅実とは言い難い道を選んだのが自分たちだと財前は思う。感性と流行り廃りがすべてを左右する世界だ。機敏でなくては動けない。常に流動するこの厳しさが好きで、財前はテニスを辞めて音楽の世界に身を投じた。それは服飾という道を選んだユウジも同じで、ふたりに共通するのは自身のセンスに自信を持っている、それだけである。それだけがすべての世界にふたりは身を置いている。自分自身を武器とすることを選んだのだ。
しかしアーティストは歌はともかく演技が下手で、監督は何度目になるかも分からないリテイクを出している。この分だと自分の出番は今日中に回ってくるのかも分からず、財前は溜息を吐き出さざるを得なかった。まぁこうして隣に遠慮なく話が出来る相手がいる分、ましなのかもしれないが。眠い、と耳元を飾る細工の多いピアスを撫で、財前は欠伸を噛み殺した。ユウジが振り向き、そういえばと問うてくる。
「金太郎は今どこで何しとるんや?」
「あー・・・」
二十二歳になった幼馴染の姿が、財前の脳裏にぽんと浮かんだ。





Last.プロテニスプレイヤー、越前リョーマ&プロテニスプレイヤー、遠山金太郎

ブロロロロロロロ。どこかレトロな音を残して古びたボンネットバスが去っていく。ぽつんと佇むバス停に人はなく、右を見れば広がるのは雄大な緑。左を見れば、これまた広がるのは雄大な緑。遠くに見えるきらきら光る水面は、おそらく湖なのだろう。こじんまりとした森があり、色鮮やかな花がそこかしこで咲いている。当然ながら足元はアスファルトではなく土を歩き固めたような道で、見上げれば視界を埋め尽くすのは真っ青な空と白い雲。遮るビルなどひとつもない。というか、建物がない。馬らしき動物がむしゃむしゃと草を食べており、まるでドラマに出てきそうな長閑な田園風景が、ふたりの目の前に広がっている。
「・・・どこ、ここ」
「んー・・・分からん!」
そう呟く以外に何が出来たか。見渡す限り自然しかないことを認識し、リョーマは腹の底から溜息を吐き出した。肩に背負っているバッグが呼応するようにかちゃりと鳴って、中のラケットが存在を主張する。しかしそれも今の場所では何の意味もないものだ。さんさんと降り注ぐ太陽はリョーマの黒髪を撫で、うんざりとした表情を隠さない横顔を更に輝かせて照らし出す。
「だから言ったじゃん、乗る電車の方向が逆だって」
おまえの所為だと言わんばかりの言葉に、と隣に立つ金太郎がむっと唇を尖らせる。
「せやかて、左に曲がれっちゅーたのはコシマエやろ」
「バスに乗ろうって言ったのは遠山」
「パブでビール飲んだのはコシマエや」
「レストランで子豚の丸焼きを頼んだのも遠山だろ」
「屋台で古い食器をじっと見てたのはコシマエや!」
「うるさい。っていうか、ここどこ」
「知らん!」
どこをどうしてこうなった。原因は山ほどあるような気がするが、とりあえずここは英国の首都、ロンドンではないのだろう。見渡したところで英国自慢のビッグ・ベンは到底ないし、だからそもそも建物がない。小さく見えるのはカントリーハウスだろうが、流石に海は超えていないのでグレートブリテン島内にはいるのだろう。しかし看板すらなくては、海外暮らしの長いリョーマとてお手上げだ。右手首を返して、デジタル時計の液晶を確認する。余裕を持ってホテルを出たはずなのに、この様だ。
「・・・とっくに試合時間過ぎてるし。デフォ決定だよ」
「えーっ! ほんま!? もうあかんの!?」
「これでウィンブルドンは来年までお預け。ったく、遠山の所為だから」
「ワイだけやないで、コシマエの所為やろ! コシマエが猫さんとにゃーにゃー喋っとるから!」
「あーあーうるさい」
隣できゃんきゃんと吠える金太郎を無視して、リョーマは緑の芝生へと足を踏み込む。バスは一日に三本、次に来るのは夕方だ。太陽はまだ真上にあるし、かといって今から走って行ったところで如何な金太郎の脚力だろうと試合に間に合うはずもない。これで四大大会のひとつを落とした。グランドスラムがまたお預けになって、リョーマは心中で不貞腐れる。いい加減に技術も体力も精神力も、すべてが成熟してきたから、ここらでランキングトップに名乗り出ようと思っていたのに、とんだ有り様だ。やってらんない。むくれたリョーマの隣を、金太郎が追い越していく。九年経ち、僅かに身長差がついてしまった。筋肉仕掛けのバネみたいな脹脛の先、すでに靴は脱ぎ捨てられている。草の上に降り立ち、振り向き、にっと唇の端を吊り上げて笑った金太郎は、もはや一端の男だ。九年前から愛用しているラケットを突き付け、ぎらぎらと輝く眼で挑んでくる。
「コシマエ、テニスしよう!」
いくら時が流れても変わらない誘い文句に、一瞬前までの不機嫌も忘れてリョーマも笑った。中一、中二、中三。高校はリョーマがアメリカに戻ったから、飛んで十九歳、プロ。いくら場所が変わろうとも変わらない。リョーマの前には金太郎が立ち、金太郎の前にはリョーマが立っている。
「ウィンブルドンの決勝? いいじゃん、受けて立つよ」
「よっしゃ! ワイのサーブからや、いっくでぇ!」
バッグからラケットを引き抜いて駆け出す。緑の芝生にはラインもネットも、そんなものは何ひとつないけれど、相手とボールさえあればいつだってテニスコートに早変わりだ。金太郎の馬鹿力のサーブも、テクニックで相殺して難なく返す。それでこそコシマエや、と弾む声に、テンションが上がらないわけがないだろう。時が経ってなお、テニスは相変わらずリョーマのすべてなのだから。
「九年分の決着、つけてやるよ!」
笑ってラケットを振り下ろす。太陽と青空と一面の自然。黄色いボールが、ただただ楽しげに行き交っている。





九年間お付き合いくださりありがとうございます! 今後ともよろしくお願いいたします!
2011年8月16日