Gear of the Wizard(おまけ)/ 全国大会準決勝ダブルス1





額を流れる大量の汗を、ぐいと財前はリストバンドで拭った。荒い呼吸を整えるよりも先に、ぎりと歯を食い縛ったのはプライド故だ。目の前で行われている千歳と手塚のラリー。無我の使い手であるふたりの合間に入り、一球返しただけでこの有り様だ。消さなくては。ひとつ、ふたつ、みっつ。いや、四つ消さないと割って入ることは不可能だろう。五つ、消して、ようやく手塚と渡り合えるくらいか。それでもこれはダブルスだ。千歳とのチームワークを利用するのなら、彼と合わせ、利用するために六つ目の感覚も消さなくてはいけない。味覚と嗅覚と触角と、聴覚と視覚。あとはどれを消すか。平衡感覚か、あるいは内臓感覚か。利き腕ではない、右手を遮断すれば勝つことが出来るだろうか。だってこの試合で勝たなければ、四天宝寺の敗退が決まってしまう。それだけは許されない。
ラケットを握り、立ち上がる。ネットを挟んだ向こうでやはり試合から引いている乾が訝しげに表情を変えたけれども、財前はそれすら消そうとしていた。ひとつ。唇の端を伝った汗を舌で舐める。しょっぱさは感じない。ふたつ。くんと鼻を鳴らすけれども明け方まで降っていた雨の臭いは感じない。みっつ。屈辱に握り締めるラケットの固さは。
「―――財前!」
鋭い声は叱責だ。はっとして振り向けば、ベンチに腰を下ろしているオサムと視線が重なる。いつもは飄々としていてちゃらんぽらんな印象を与える目が、今は険しさを帯びていた。使うな、と暗に告げられ、何でや、と財前はラケットを握り締める。そこにまだ感覚はある。オサムは緩く首を横に振る。
「財前、おまえはおとなしゅうしとき」
「・・・何でなん。この試合は落とせへんやろ」
「おまえには来年がある」
「っ・・・! 阿呆かあんた! ここで勝たな意味がないやろ!」
かっとして思わずコートを蹴りつける。千歳と手塚のラリーが続いているからこちらを向く輩は少なかったが、少なくとも四天宝寺のレギュラーと乾は財前とオサムの間で視線を行き来させた。苛立ちを訴えてもオサムの眼差しの強さは変わらず、財前は舌打ちして白石に顔を向ける。この二年間部長を務めた男が、どれだけ勝利に執着しているか知っている。勝つためならば何でもする、落ち着いた頼れる部長の顔の下に、冷酷と情熱を秘めているのだ。白石ならば止めはしない。財前はそう確信していた。白石にとっては来年の財前の身よりも、今目の前の勝利だろう。分かっていた。
「白石部長、俺、参加してもええですよね?」
「・・・っ・・・」
「迷惑はかけへん。必ず勝ちます。せやから」
「あかん。おまえのテニスは、まだあかん」
唇を震わせ、白石はごくりと唾を呑み込んだらしかった。けれども立ち上がったオサムが足を踏み出し、財前の左手からラケットを奪い取る。有無を言わせない力は強制的で、財前は憎しみすら込めてオサムを睨み上げた。何故だ。自分なら勝てる。いくつか消せば必ず勝てる。何も聞こえなくなったって、見えなくなったって、右腕を犠牲にしたって、勝利した瞬間の歓声も感覚も何もかも感じられなくても、記録として四天宝寺に一勝が刻まれたならそれでいい。十分だ。それの何がいけないのだ。財前はふつふつと湧き上がる怒りに拳を握った。感情を隠そうともしない顔に、上からタオルを被せられる。ラケットはすでにオサムの手でベンチへと置かれてしまい、もはや財前のサーブ権にならない限り返ってくることはないだろう。
「・・・何でや」
財前はタオルの端をきつく握り締めて唸る。誰も傷つけることはないのに、切り捨てるすべては自分自身のものなのに、その行為のどこがいけないのか。くそ、と吐き捨てた罵倒は審判が手塚のポイントをコールしたことでかき消される。
それが天才故の孤独と傲慢なのだと、少年はまだ知らない。





セルフ幸村様な財前で全国準決勝D1を考えるとこうなる。そういう勝ち方はあかん、とオサムちゃんは財前に教えたい。
2011年7月10日