全国大会を終えて三年生が引退した、初秋の頃だった。財前は初めて、ひとつ先輩の、四天宝寺中テニス部部長を務める白石と試合をする機会に恵まれた。一年生が本格的にレギュラー取りに参戦する、その手慣らしみたいなものだったのだろう。最も実力のあると見込まれた財前が、同じく二年生で誰より強い白石に当てられた。そして始められた試合に、ふぅん、と財前は小さく呟いた。
想像していた以上にやりにくい。基本を忠実に再現するプレーは華がないと思っていたが、こうして対戦してみると厄介な代物だ。担い手である白石の性質も手伝っているのだろう。無駄がなくて退屈ではあるが隙がない。何度目かの横を通り過ぎるボールに、またしても白石のポイントがコールされる。なるほど、これは強い。今までの部活中でも、試合でも見てきたが、実際に相対して財前は実感した。白石は強い。その実力は。
「・・・本物、やな」
零して、財前はラインに戻り構えを取る。数度ボールを跳ねさせて、サーブを打とうとする白石の目は後輩に対するのもではない。本物だ。「四天宝寺の聖書」の名は伊達ではない。財前は白石を認めた。強い。このままでは勝てない。だから財前は、ひとつ、消した。
ボールに向かって駆け出す瞬間、唇の端を掠めた汗を舐め取る。しょっぱさを感じるはずの味覚は、すでにない。





Gear of the Wizard





「ざいぜーん、ざーいぜーん」
練習が終わり、他の一年に混ざって片付けをしていた財前は名を連呼されて振り向いた。コート脇のベンチに腰掛けているのは監督のオサムで、ひらひらと手招きするように指先を振っている。思わず眉間に皺を寄せて、嫌がったのが伝わったのだろう。オサムの隣に立っていた白石までが苦笑して、おいでおいでと財前を仕草で呼ぶ。しゃーない、と大きく溜息を吐き出して、ラケットに山のように載せていたボールを籠に戻した。決して走るわけではなく、たらたらと歩いていくが、ふたりが急かす様子はない。こういうところが財前は嫌いではなかった。せっかちな謙也が相手だと「早よせぇや!」と叫ぶか、あるいは自ら駆け寄ってくるかになるのだが。
「何すか」
「今日はお疲れやったなぁ。あそこまで白石に食いつけるとは思うてへんかったわ」
「甘く見すぎてたんとちゃいます? ちゃんと修正しといてほしいっすわ」
「すまんすまん」
からからとオサムが笑うが、財前としては僅かながらに不服だった。今日の部活中に行われた試合で、確かに財前は白石に勝つことが出来なかったのだ。後輩が何を生意気なことをと思われるかもしれないが、決して勝てない試合ではなかったのに落としたことが財前としてはつまらない。疲れを訴える肩をぐるりと首を回すことで解すと、隣にいる白石がやけに複雑そうな顔をしていることに気づく。むかつくほどに男前やな、と財前は関係のないことを思った。オサムが火のついていない煙草を揺らし、視線を引き戻す。
「なぁ財前」
「何すか。早よ帰りたいんで手短に頼みますわ」
「正直な、スコアは6−2やったら上等やと思うとったんや。おまえはまだ一年やし、白石には勝てへんやろうって予想しとった」
「実際、勝てへんかったんすけど」
「せやけどスコアは6−4やった。白石相手にここまでいける奴は、二年にもそうおらへんで」
「はぁ」
「なぁ財前。おまえ、何やったん?」
オサムに座った体勢からじっと見上げられ、財前は緩く小首を傾げた。言われている意味が分からなかった。それが表情に出たのだろうか、オサムは噛み砕くように繰り返す。
「途中からペース、変えたやろ? それも一回やなくて三回もや。その度に動きも良うなって、最後には白石の横を抜いた。綺麗に抜いたのはあれだけやったけど、最初からあのペースでやってたら、おまえの勝ちやったんちゃうか?」
「ああ、そのことなん」
あっさりと財前は納得する。どうやら自分の試合運びをオサムは不思議に感じたらしい。白石も同じようで、先ほどと変わらない複雑そうな顔のまま財前の答えを待っている。そない大したことやないし、と口内だけで呟いて、財前は種明かしをする。
「感覚を消したんすわ」
「・・・感覚?」
「・・・消した?」
「最初に消したんが味覚っすわ。テニスに必要あらへんし。それでも部長の球に追いつけへんかったから、嗅覚消して、そんで触覚消して、やっと返せたっちゅうだけの話っすわ」
「・・・待て、待ちぃや、財前。何や、その『感覚を消す』っちゅーのは」
「消せばそれだけ、他に回せるやないすか。最悪視力だけ残っとれば打ち返せるんやし、まぁその状態を続けられる集中力がないんで、一試合は無理なんやけど」
せやから最初っから飛ばすのは無理っすわ。財前がそう続けると、何故かオサムは呆気にとられたように口をぽかんと開いていた。白石も目を見開いており、何や変なこと言うたかな、と首を傾げるけれども財前にとってはそれが自然なのだから他に答えようがない。
先ほどの試合で、白石の球が打ち返せるようになるには、己のレベルを改善しなくてはならなかった。だから財前は、自らの意志でまず先に味覚を閉ざした。その分だけ感覚は視力に集中し、白石の放つ円卓ショットのボールひとつひとつが見えてくる。打ち返せる。適確な試合運びに反応できるようにするためには、嗅覚を消した。その分だけ反応速度が上がり、最初の一歩が早くなる。先を読んで意表をつくために、触覚を消した。ラケットを握る感触すらなくなるけれども、特にそこに問題はない。鋭敏になった脳裏は白石の行動を予測し、先回りして財前を動かす。
それらすべての行動は、財前にとって当然のことだった。ひとつを閉ざして他に集中させる。そうして己のレベルを上げるのだ。もちろんこういった対応をするのは対戦相手の実力を認めたときだけで、普段は普通にプレーをする。それだけで対応できる相手がほとんどだから、今まで出さなかっただけの話だ。
「調子ええときは全部消せるんすわ。周囲の景色も、うっさい声援とか相手とかも全部消せて、コートのラインとボールしか感じられへんようになって。そうなるとどないなボールでも返せるようになるから、もう俺の勝ちっすわ。まぁ、そこまで持ってけることはあんまないんやけど」
「・・・財前、それ、ほんまの話なん?」
「嘘言うてもしゃーないし。部長もさっき相手したんやから分かるんやないすか?」
「―――財前」
眉根を寄せて、不可思議そうな白石に答えていると、硬い声が財前を呼んだ。顔を向ければ、オサムが驚くほどに真剣な顔で財前を見上げている。何や、と答えることすら憚られる視線の鋭さで、財前は反射的に口を噤んだ。オサムはいつにないほど険しい顔をしていた。
「おまえのそれ、他にも知っとる奴はおるか?」
「え・・・いや、おらんと思います、けど。あ、やっぱひとりおりますわ。近所に住む幼馴染の、ひとつ年下のゴンタクレで」
「せやったら、これ以上他の奴に話したらあかんで。俺とおまえの約束や。おまえのそれは、公にしたらあかん」
オサムの伸びてきた手が、財前の聞き手である左腕を掴んだ。財前には見えなかったが、ふたりの隣で白石は包帯を巻いた左腕を、己の右手で握り締めていた。夕焼けで染まり始めたコートで、他の部員たちが片付けを終えようとしている。謙也や小春、ユウジの楽しそうな声を、すべて財前は遠くに聞いていた。それすらも意識してしまえば容易く弾き出すことの出来る事柄なのだ。財前はすべてを切り捨てることが出来る。そうして何もない世界の中で、己を昇華することが出来るのだ。
「財前、おまえは天才や。せやから、ひとりになったらあかんで。みんなで勝つから楽しめるんやで?」
分かったな、というオサムの言葉に、財前は頷かなくてはならない気にさせられて首を縦に振る。ええ子や、と頭をぐしゃぐしゃに撫でられて驚いた。オサムが誰かをここまで子供扱いする姿を初めて見たし、その対象がまさか自分だとは思わなかったのだ。救いを求めるような眼差しで白石を見れば、やはりその顔は戸惑いを浮かべている。財前からのじっとした視線に気づき、ようやく眉間の皺を解いて白石は微かに笑った。何故かその表情はやはり不理解に感じられて、財前は困惑する。
他の人間が感覚を消すことが出来ないのなど、財前はとうの昔に知っていた。だから何だと思ってきたのに、今こうして明確なラインが引かれてしまった。天才だから何なん? そう問いたかったけれども、きっとオサムはともかく白石は答えてくれないだろう。財前は気づいていたからだ。この基本に裏打ちされた完璧な存在も、やはり自分と同じ「天才」ではないということに。





財前の可能性を模索する話第二弾。この財前はセルフ幸村様なので、対幸村様において相性が最強だと思われる。
2011年7月10日