その年、後に男子テニス界を席巻するふたりの少年が中学校に入学した。東の青学に越前リョーマ。西の四天宝寺に遠山金太郎。並はずれた実力を持つ彼らは、周囲の度肝を抜いてテニスコートへと踏み入った。しかし異なる点が両者に存在したのもまた事実だ。
青学の部長、手塚国光はリョーマとの試合に勝利をしたが、四天宝寺の部長、白石蔵ノ介は金太郎との試合に敗北した。これは確たる差を、後のふたりに齎すこととなる。
夢の墓標
がん、と拳を打ちつけた机が振動に震えた。金属の足を伝い、コンクリートの床へと無様に落ちていく。その様を白石は奥歯をきつく噛み締めて見つめていた。負けた。敗北したのだ。自分が、今年中学に入ってきたばかりの子供に対して。負けた。完膚なきまでに倒されたのだ。自分が、自分が! 認めたくない。認めない。あんなのテニスではない、ただの暴力だ。力任せにラケットを振り抜いて、勢いを増したボールがガットを突き破ってコートに刺さる。あれをテニスと認めていいのか。否! あんなものはテニスと認めない。あんな力だけのテニスに、自分が屈しただなんて。だとしたら今までの月日は何だったのだ。秀でたところのない自分に失望し、それでも捨てきれず希望を抱いて、基本に忠実なテニスを極めようと精進してきた日々は何だったのだ。二年で部長になり、昨年は全国ベスト4の栄冠を手にし、強くなったと思っていた。強くなれたと思っていた。取り得のない自分でも努力次第で道は開けるのだと、そう信じていた。その結果だと思っていた。それがどうだ。あんな子供に負けるなんて。あんな、力だけのテニスに負けるなんて!
「・・・何て顔しとるんすか、部長ともあろう人が」
ドアノブが音を立て、扉が開かれるまでのほんの一秒。表情を取り繕ったはずなのに、部室に入ってきた財前は白石を見て開口一番にそう述べた。笑うまではいかなくとも涼しい顔は作れたはずだったのに、悟られるなんて失態だ。白石はテニス部の部長として、完璧であることを己に強いてきた。部員を不安にさせる様な真似は決してしない。勝ち星を掴み、余裕を持って部員たちの背中を押し、時に相談に乗ったりしながら頼れる部長像を目指して邁進してきた。なのに今はそれが出来ない。遅ればせながら机に着いたままの手が拳の形を維持していることに気づき、これか、と白石は指先を解く。力を込め過ぎたせいか、指は自身のものとは思えないほど固く歪に反応した。
財前が扉を閉じる。部室の中には静寂が戻り、窓の向こうからはテニスコートの喧騒が聞こえる。今は、千歳が金太郎と試合をしているはずだ。九州二翼と呼ばれたあの男は、果たして金太郎を相手に勝利を掴むことが出来るだろうか。負けてしまえ。そう思ってしまった自分の醜さが嫌になる。分かっている。白石蔵ノ介という人間は、コンプレックスの塊なのだ。周りは彼を素晴らしいと褒め称えるけれども、それは取り得がなかったからこそすべてのレベルを上げようと努力してきたからに過ぎない。白石は理解している。自分は決して、天才と呼ばれる類の人間ではないということを。
「俺、先に言いましたよね? 金太郎には部長でも勝てるかどうか分からへん、って」
扉に背を預け、ジャージのポケットに手を突っ込んで立つ財前を、白石の憎悪が貫いた。被り損ねた「良い部長」の皮を、必死に手探り寄せて白石は笑う。苦笑といった感じの表情になっているはずだ。しかし財前光という後輩は、白石が去年の今頃、危惧を抱いた相手でもある。幸いにも今年の金太郎とは違い、去年の白石は去年の財前に勝つことが出来た。だからこそ表出されなかったコンプレックスが、今、金太郎という起爆剤を得て爆発しようとしている。白石は知っている。財前は天才と呼ばれる類の人間だ。いつもはやる気のない擬態を装っているけれども、その本質は紛れもなく、白石がなりたいと渇望している姿。
「・・・ほんま、財前の言うた通り、負けてしもうたわ。すごいなぁ、金ちゃん。あれほんまに一年生なん?」
それでも笑ってみせるのは年上としての矜持であり、白石が抱くコンプレックスからなる意地に過ぎない。金太郎はともかく、財前はきっとそんな白石の性根を見抜いているのだろう。漆黒の気だるげな眼が白石は好きじゃなかった。だからこそ財前が後輩でありながらも優秀なことにかこつけて、彼に直接指導したりなど好き好んで近づくことはしなかった。謙也が財前を気に入り、構いに行っていたからこそ都合が良かった。財前自身も距離を取られていることに気づいていたのだろう。白石の引いたラインを超えてくることは決してなかった。ふたりはテニス部内で同じレギュラーとして、近すぎず遠すぎず、不自然ではない「先輩と後輩」の距離を保って一年を過ごしてきた。
「自分で自分が情けない。金ちゃんに部長の肩書き、譲らなあかんなぁ」
はは、と漏らす笑い声まで、こんなときだろうときちんと形作っている自分こそが情けないと白石は思う。反吐が出る。自分が最強になったつもりなどなかった。それでも「四天宝寺の聖書」と呼ばれ、関西ではほぼ負けることはないだろうと考えていた。勝ちたい相手は神奈川におり、去年試合をすることなく敗北させられた立海大付属を相手にどう戦うか、そればかりを白石はずっと考えていた。そんな矢先のことだったのだ。金太郎に負けた今、惨めさばかりが白石の心を覆う。所詮、努力なんてこの程度の結果しか与えてはくれないのだ。毎日遅くまで居残って練習したとしても、天賦の才の前にはすべてが無力なのだ。
「金太郎のテニスは暴力や」
冷ややかな目で、それこそ白石を観察しているような視線で、財前が喋る。
「テクニックなんか二の次で、パワーがすべてや。勢いがあってすべて持ってかれる。どないな技もあいつの前じゃ意味がない。金太郎のテニスは相手の努力を踏みにじる」
まさにその通りだ。金太郎の純真無垢な笑い声が、窓ガラスの向こうから聞こえる。財前を見返す白石の顔からはすでに笑みが消え、掌は再び拳を作り出していた。
「あいつに勝つには、あいつを凌駕するパワーで真正面からぶちのめすしかない。それか、あいつの対極を行く天性の技術とセンス。あるいは金太郎のやる気を根こそぎ食らい尽くす、悪魔みたいなテニス。そのどれかやないと、あいつには勝てへん」
そして、そのどれもを白石は持っていない。だからあんたは金太郎には勝てへん。そう財前の目は言外に語る。生まれながらの身体能力を有する金太郎を破るには、特別な才能がいるのだ。唯人の白石にはそれが出来ない。力を強めた掌の中で、爪が包帯に食い込んだ。この白い布の下にあるガントレットを外したとしても、きっと金太郎のパワーには敵わない。何をどうしたとしても白石は金太郎に勝つことは出来ないのだ。惨めだ。自分という人間を、これほど矮小だと感じたことはない。白石蔵ノ介という人間には、本当に何もないのだ。
「何で、やろうなぁ・・・」
弱音など吐きたくないというのに、唇から零れたのは掠れた声だった。顧問のオサムは「一番勝ちたそうだったから」という理由で、白石を二年生のときから部長に任命してくれた。それでも勝ちたいという気持ちだけでは、一勝を掴むことなんて出来ないのだ。現実という壁は確かに存在する。絶望という硬さで持って、白石のすべてを跳ね返して打ち砕くのだ。
「何があかんのですか」
「・・・おまえには分かるやろ。いや、分からんかもなぁ。何たって『天才財前君』やもんなぁ?」
「人に絡んどる暇があるんすか? 部長、気づいてへんみたいやからわざわざ言うたりますけど」
この財前の慧眼が、白石は嫌いだった。視界の広さと視点の変換は、コンプレックスの塊である白石が持ちたくても持てないものだからだ。財前の声がふたりだけの部室に響く。
「あんたに勝った金太郎は、あんたの率いる四天宝寺のルーキーや。部長のやることは金太郎に勝つことやなくて、金太郎をどう使って全国制覇まで勝ち抜くかっすわ。それは部長のあんたにしか出来ない仕事や。ちゃいますか?」
冷静過ぎる声が白石の身体を揺さぶる。財前の目はまっすぐに白石を捉えて離さない。時に睥睨を乗せるその瞳が生意気だと言う輩も多いけれども、白石だってそう思うことは多々あるけれども、それでも財前の目は白石にとって憧れのひとつだった。あれほどの才能が俺にもあれば、と思ったことなど一度や二度じゃ足りない。だからこそ逆に「優しい部長」を演じてきた。茶番劇だと分かっていたが、それでも。
敵は金太郎ではなく、全国各地の猛者なのだと財前は言う。確かにその通りだと白石も思う。だとしたらこの心中を満たすやりきれない屈辱は、白石自身がどうにかしてやり過ごすしかない。諦めたくはないから、一時棚上げしなくてはならないのだ。全国制覇を成し遂げるために、立海に勝つために、白石自身のコンプレックスなど殺さなくては。優勝したらきっとそのときは、笑えるだろうと盲目に信じて。
「ひっかるー!」
ばあん、と物凄い音を立てて扉を開いて部室に飛び込んできたのは、赤茶の髪が目に痛い金太郎だった。その額に汗は掻いているけれども、笑顔であることからおそらく千歳にも勝利したらしい。九州二翼とはいえ、今の千歳は視力の片方をほとんど失っているから、金太郎の敵ではなかっただろう。それでも金太郎は嬉しそうに笑って飛び跳ねているのだ。
「このテニス部、強い奴がぎょうさんおるんやな! ワイ、めっちゃ面白かったで! 明日はな、謙也と試合する約束をしたんや! 銀とも試合するんやで!」
「あーはいはい、好きにせえ」
「投げやりやなぁ! ワイ、めっちゃ楽しみになってきたで! 四天宝寺に入ってほんまに良かった!」
幼馴染らしい財前の両腕を掴んで、べらべらと勢いよく金太郎は喋っている。低い位置にある後頭部を何とはなしに眺めていた白石は、突如ぐりんと振り向かれて無様にも肩をびくつかせた。大きく丸い瞳をにっと細めて金太郎が笑う。
「白石も、また試合しような!」
「・・・次やっても、また金ちゃんの勝ちやで?」
自嘲した白石に、視界の隅で財前が舌打ちした。けれど金太郎は「ええー!」と盛大に眉を下げて嘆き、言ったのだ。
「せやったら、ワイに簡単に負けへんよう白石も努力してぇや! 簡単に勝ってしもうたらおもろないやんか!」
「―――金太郎、おまえ何しに来たん? 用があったんやないんか?」
「あっ、そうや! 小春とユウジとダブルスするから、光を呼びに来たんやった! ワイまだダブルスしたことあらへんけど、光とやったらいけるやろ? なぁなぁ光、ええやろー?」
「しゃーないから付き合うたるわ。先に行っとき」
「光もすぐ来てや! 約束やで!」
喋るだけ喋って、弾丸のようにまた金太郎が部室を飛び出ていく。光に溶けていく後ろ姿はあっという間に扉に閉ざされて見えなくなり、白石の視界を眩しさだけが埋め尽くした。暗んで、思わず閉じた瞼に掌を重ねる。どくどくと脈打つ鼓動は常より弱い気がしたけれど、それでも確かに生きていることを否応なしに自覚させる。前に進まなければならない。それは決してなりたいと望んだ姿ではないかもしれないけれど、みっともなく足掻くしかないのだ。白石蔵ノ介は所詮、白石蔵ノ介にしかなれないのだから。
「・・・財前。おまえなら、金ちゃんの超ウルトラグレートデリシャス大車輪山嵐、破れるか?」
問いかけに、ラケットを肩に載せてドアノブを掴もうとしていた財前が振り返った。ピアスが五つ、その耳元で輝いている。金太郎が太陽のような光だとしたら、財前はネオンのような輝きだろう。人の意志によって光を放ち、万人に認識させる人工的なそれだ。
「一試合丸ごとは無理やけど、二発ぐらいまでなら返せますわ」
「ほんま? どうやるん?」
「部長、あんた俺が二年かけて編み出した技を横から盗む気っすか? あかんわぁ、楽せんと努力してください。俺の知っとる白石蔵ノ介っちゅーのは、そういう人なんで」
ほな失礼します、と財前は会釈もせずに背を向けて、扉を開けて出て行った。クールで斜に構えた財前でも、白石が認める天才である彼でも、金太郎のパワーに対抗するまで二年かかったのか。負けて悔しいのは当たり前だと、今更ながらに教えられた気がして白石は心から失笑してしまった。プライドを持つのは構わない。けれど意固地になり過ぎてはいけない。果たすべき目標のために妥協もまた必要だ。財前が言ったように、白石が求めたのは「最強の自分」ではない。「勝利する四天宝寺」だ。そのために努力してきた。結果と現実を履き違えてはならない。白石は部長なのだ。ならば、確実に四天宝寺に勝利を齎してくれるだろうスーパールーキーの存在を喜びさえすれ、厭う理由などどこにもない。一介のテニスプレイヤーであることはとうに捨てたのだ。部長はチームのために、在ればいい。
「・・・その才能、四天宝寺のために使うてもらうで、金ちゃん」
コートからは小春とユウジの歓声や悲鳴が聞こえ、何だかテニスにあるまじき轟音まで届いてくる。まずはあのゴンタクレをどう調教するか。脳裏にプランを描き出して、白石は包帯に包まれた左手を柔く握った。何も部を統べるのにテニスで最強である必要はない。金太郎をきちんと使うことが出来れば、それでいいのだ。そう、それでいい。
一度大きく息を吸い込み、白石は腹からそれらを吐き出した。よし、と己の頬を叩いて一歩を踏み出し、ドアノブに手をかける。「良い部長」の顔をして笑えている自信があった。身の内では未だ燻り、とぐろを巻いている感情があるけれども、大会を勝ち進めばきっと溶けていくことだろう。テニスコートの中の財前が気づき、ちらりと視線を寄越してきた。片手を挙げてそれに応え、白石はにこっと笑顔を返す。財前はそのまま顔を背け、ダブルスへと戻っていった。
すべては四天宝寺の勝利のために。それだけのために白石は、無様な己を良しとした。勝ったモン勝ちや、と呟きながら、虚しいと涙する心を見ない振りして。
リョマさんと金ちゃんだと、リョマさんの方がまだ周囲に対して優しい在り方をしているよ、という話。当サイトの白石はこういう人です。プライドが高いけど、コンプレックスの塊。
2011年4月24日