夢の後先





「越前、リョーマ君?」
覚えのない声にリョーマが振り返れば、そこには長身の男が立っていた。U-17選抜のジャージを着ているが、見たことのない顔なのでおそらく高校生なのだろう。茶色のふわふわとした髪に、目元に刻まれている小さな傷。あんた誰、と疑問が表情に出たのだろう。相手は猫背気味に背中を丸めて、はじめまして、と挨拶をした。
「僕は大和といいます。大和雄大です」
「やまとさん?」
「はい。手塚君が一年生のときに、青学テニス部の部長をしていました」
「ああ」
話には聞いたことがあると言えば、大和と名乗った男はにこりと笑う。先輩たちの嫉妬を買い、怪我までさせられてテニス部を辞めようとしていた手塚を引き止めた部長。実力は抜きんでたものではなかったが、素晴らしい人だった、といつしか手塚が語ったのをリョーマも覚えている。初対面の印象では、柔らかいけれど一癖ありそうというのがリョーマの感想だ。どちらかといえば手塚よりも不二に似たタイプかもしれない。技術ではなく、メンタル的な強さを感じる。気概に唇を吊り上げれば、それを察したのだろう大和が困ったように笑みを変えた。
「今の僕じゃ、越前君の相手は務まりませんよ。手塚君との試合が最後だったんです。騙し騙し使ってきた腕が、もう使いものにならなくて」
「なんだ、残念。部長の認める人だから試合してみたかったのに」
「合宿を去る前に、一度越前君と話をしてみたかったんです。会えて良かった」
すっと差し出されたのは左手だった。おそらくリョーマが左利きだということを見越してなのだろう。握手はアメリカ育ちの身として身近な文化だが、日本では余りしたことはない。怪訝に思って見上げれば、大和はやはり穏やかに微笑んでいる。
「握手を、してもらえませんか?」
「・・・別にいいっスけど」
「ありがとうございます」
リョーマが腕を上げれば、待っていたかのように掌が攫われた。大きな手だ。節くれだった長い指に、厚い手のひら。いくつかの硬い肉刺にやはり実力者であることを知り、移る体温にどこか安堵を覚える。試合をしてみたかったな、とリョーマは先ほどの挑発とは異なり、純粋にただそう思った。きつく手が握られる。だからこそ同じように握り返した。
「・・・手塚君には言いませんでしたが、彼に『青学の柱』を任せてしまったことを、僕はずっと後悔していました」
落ちてきた呟きに顔を上げれば、大和は笑みを消して眉を顰め、どこか泣きそうな顔をしている。
「僕があんなことを言ったばかりに、手塚君は肘や肩の怪我を推してまで試合を続けたのではないかと。それが彼の今後の選手生命を縮めてしまうのではないかと、ずっと恐怖していました」
だから越前君、と大和は告げる。
「君が手塚君から託された『青学の柱』は、もう捨ててください。君は今年の全国制覇で、十分に青学に貢献しました。もういいんです。柱なんて本当は、ひとりで背負うものではなかったのですから」
僕が間違っていたんです、と謝って、大和は握っていた手のひらを解く。見上げる顔は硬さを消していたけれども、どこか辛そうにリョーマは見えた。すみません、と大和は再度謝罪する。その姿が何故か手塚と重なる気がして、気づけばリョーマの口は勝手に言葉を紡いでいた。
「俺は無理してなんかない。『青学の柱』だから、コートに立ち続けるんじゃない。青学が好きだから、青学で勝ちたいから、だからコートに立つんだよ。手塚部長もそれは同じだと思う」
顔を上げた大和を、じっとリョーマは見つめる。
「あんたが何を言ったって、きっと部長はコートに立ったよ。だってあの人、俺たちの中で誰より青学が好きだったからさ」
だからあんたは悪くない。リョーマがそう言えば、大和は大きく目を瞠った後で、くしゃりと顔を歪めた。泣き笑いのようなそれは高校三年生のする表情ではなかったかもしれないけど、悪くないとリョーマは思う。手塚を導いた大和のような男でも、やはり後悔はするのだ。だとしてもそれは悪いことじゃないと、リョーマは思う。
「ありがとうございます。・・・青学を、頼みますね」
「了解。大和さんの分も手塚部長の分も、俺が引き受けるから安心して見ててよ」
ありがとうございます、と再度深々と下げられた頭をリョーマは笑って見下ろした。そのまま足元の大きな鞄を持ち上げて、大和は宿舎の入口へと向かっていく。ガラス張りの出口で振り向かれ、少しだけ頭を下げられ、だからリョーマも手を振って見送った。その背中が建物から出ていくのを最後まで見つめてから手を下ろす。まだ小さな己のそこに、青学の未来が託されているのをリョーマは感じた。それは確かに重いけれども、決して辛いだけの責務ではないのだ。





だって、好きだから戦うんだ。それだけの話だよ。
2011年4月24日