そう、奇跡なんだよ。





俺たち立海大付属中です。





ぱこーん、ぱこーん。音は割合と和やかなのに、相変わらず素晴らしいスピードのショットが交わされている。まるで戯れるようにラリーをしている選手のうちひとりを眺め、赤也は心底不思議そうに首を傾げた。
「なーんで、仁王先輩ってテニス部なんすかねぇ」
「それは仁王の存在がテニス部に相応しくないということか?」
「んなこと言ってないっすよ! 俺が言いたいのはー」
ベンチで隣に座り、ファイルをめくっている柳の言葉に赤也は慌てて訂正する。プレーに集中しているのなら聞こえていないだろうが、もしも仁王の耳に届いていたら後でとんでもない悪戯をされるに違いない。肘をついていた姿勢を正す赤也を、どうどうとペットを宥めるように柳は涼しい横顔でいなす。相変わらずデータ整理の片手間だが、それでもちゃんと話を聞いてくれていることを知っている。だからこそ赤也は座り直して話を続けた。
「仁王先輩って派手じゃないすか。スポーツ選手に全然見えないし、授業さぼるしレイトショーとか観に行くし、行動だけ見てると強豪校のテニス部レギュラーとは思えないんすよね。もちろん強いのは知ってますけど! でも努力とかそういうのも嫌いそうだし、何でテニス部なんかに入ったんだろうって思って」
「ふむ。確かにおまえの言うことは一理ある」
「でしょ? 柳先輩もそう思うっすよね?」
「仁王の素行が良くないのは周知の事実だからな」
「仁王先輩、何でテニス部に入ったんすかねぇ。しかも王者立海なんて、超厳しい学校に」
「結論は簡単だ。仁王は立海に入りたかったのではなく、立海に入るしかなかったからここにいるに過ぎない」
「へ?」
ファイルを閉じて、柳がようやく振り返る。コートの中では仁王が単調なラリーを続けており、それでも時折意地悪くコーナーを狙ったりしているところが彼の性格を表していた。派手で、外見も中身もスポーツ選手とは思えない男なのだ。もちろん仁王は仁王なりの美学を持ってテニスに挑んでいることを赤也は知っているけれども、不思議でならない。柳はあっさりと赤也にその種明かしをして見せる。
「仁王が小学校を卒業する直前に、急に親の転勤が決まったらしい。新天地は神奈川で、公立中学に入学するには土地勘がなく、仁王の両親は仁王を私立に入れることを決めたそうだ。その頃二次募集をしている学校が立海しかなかったから、ここを受験したらしい」
「・・・マジすか」
「仁王本人の話だから真偽のほどは定かではないがな。だが、一緒に聞いていた柳生が特に何も言わなかったところを見ると、ほとんど真実と考えていいだろう」
マジで、と再度呟いて赤也はコート内の仁王を見やる。相変わらず銀色の髪が眩しく、ちょこんと揺れている襟足はカラーリングと合わせてどう考えても校則違反だ。すらりとしたスタイルと斜に構えた姿勢は大人っぽく、後輩の男子からも憧れの的で、仁王は意外に同性にも人気があるのだ。加えてテニスの実力が全国区とくれば騒がれないはずがない。
だが、そんな仁王は入りたくて立海に入ったわけではないらしい。僅かに赤也の気持ちが暗くなったのは、彼自身は王者立海のテニス部に入部することを目的として立海に入ったからだろう。テニス部に所属している者は少なからずその思いがあるだろうと思っていたからこそ、仁王の真実は少なからず赤也にショックを与えた。不貞腐れるように自然と唇が尖る。
「・・・つまり仁王先輩が立海のレギュラーになったのは、結果論ってことっすか」
「ほう、結果論とは赤也にしては難しい言葉を知っているな」
「柳先輩、俺のこと馬鹿にしてません? 馬鹿にしてるっすよね?」
「卑屈になるのは結構だが、仁王だけじゃないぞ、『結果として』立海のレギュラーになったのは」
「・・・他にもいるんすか?」
「誰だと思う?」
にやりと笑った柳が自ら望んで立海に入学したことを、同じ小学校出身の赤也は知っている。その時点で柳はすでにテニスプレイヤーとして確立していたから、まず彼は除外されるだろう。部長の幸村と副部長の真田はスクールで知り合い、ふたりして王者立海のテニス部で切磋琢磨することを誓ってきたというから彼らでもない。ならば残るのは。
「ジャッカル先輩とか?」
コートを挟んだ対面のベンチに座っている先輩の名を上げれば、違う、と柳は不正解を告げる。
「ジャッカルは小学校から丸井とテニスをしていた。神奈川で育ったからには、テニスプレイヤーとして立海に入るということがどういうことなのかも分かっていただろう」
「じゃあ丸井先輩でもないから」
「そう、柳生だ」
消去法で最後に残ったレギュラーの先輩は、今コートの中で仁王とラリーをしている柳生だけだ。コーナーを狙った打球にも素早く反応して、余裕を持って打ち返している。お返しとばかりにわざとコードボールにしたりしているのは、柳生の選手としてのテクニックだろう。にゃろう、と仁王が拾えば、すかさずスマッシュを決めてくるのは流石としか言いようがない。部活にも授業にもまじめに取り組み、非の打ちどころのないまさに模範生なのが柳生だ。
「柳生の家が開業医なのは知っているな?」
「っす。柳生医院っすよね?」
「そうだ。柳生は両親に医者になることを望まれているし、柳生自身も医者になりたいと考えている。だからこそ中高一貫した教育を受けたいと考えて立海を受験したらしい。医学部のある大学付属を選ばなかったのは、大学受験で自らの実力を試したいからだと言っていたな」
「・・・もしかして、柳生先輩が途中入部だって噂は本当なんすか?」
「おまえたちが入部した頃にはすでに他の部員と同じメニューをこなしていたから、知らなくても可笑しくはないな。柳生は仁王に誘われて、一年生の三学期に入部した。その前はゴルフ部だった。おそらく仁王に誘われなければテニス部に入ることはなかっただろう」
だからこそ柳生も『結果的に』王者立海のレギュラーになった人物だ、と柳は言う。仁王の性質の悪いショットにも難なくついていく姿からは、とてもじゃないが経歴の浅い選手には見えない。冷静で落ち着いた隙のないプレーは赤也の苦手とするものであり、相性も悪いのだ。度々ダブルスを組むこともあるが、そういうときは自分に合わせてくれているのだと赤也は気づいている。オールマイティなプレイヤーである柳生も、結果として、王者立海のテニス部レギュラーになったに過ぎない。
テニスをしていてたまたま立海に入った仁王と、立海に入ってたまたまテニスを始めた柳生。このふたりは確かにテニス部の中では毛色が違う。指摘されて、初めて赤也は気が付いた。何がどう違うのかは上手く言い表すことが出来ないけれども、何となく違うのだ。よくよく振り返ってみればプレー自体もそうと言える。仁王と柳生のダブルスは、王者立海では明らかに浮いている。勝利よりも美学を取るような、テニスというスポーツの本質を反対側から見ているような、そんな印象を受けるのだ。
寂しく感じるのは、動機が同じじゃなかったからだろう。立海のテニス部でレギュラーになり、全国制覇を成し遂げる。仁王と柳生はそう思ってこの学校に入学、もしくはテニス部に入部したわけではないのだ。何だよ、と漏れた赤也の不機嫌に気づいたのだろう。柳が「そう落ち込むな」と笑いながら言ってくる。
「だからこそあのふたりがダブルスを組むのは、立海じゃなかったら有り得なかった。仁王が今より更に不真面目で負けず嫌いじゃなかったら、練習が厳しい立海のテニス部には入らなかっただろう。そうしたら柳生がテニスを始めることもなかった。逆に柳生が勉強だけしていればいいと考える様なタイプではなく、部活と生活を両立させる意志の強さを持っていたからこそ、仁王とのダブルスは成立したと言っても過言ではない。奴らは結果的に王者立海のレギュラーになったが、立海でなければ存在しなかったダブルスペアでもあるだろう」
柳がデータファイルを膝の上に置き、見ろ、とコートを指さす。仁王と柳生は延々とラリーを続けており、どちらも相手が取れるぎりぎりのラインを狙っているようだった。馬鹿みたいに高度なプレーは、立海だったからこそ実現したものなのだと、柳は言う。
「仁王と柳生だけじゃない。それは他のレギュラーにも言えることだ」
「他のレギュラーにも?」
「そう。ジャッカルは、ジャッカルのお父上がブラジルで一生を終えていたなら、日本人である母君と出会うこともなく、生まれてくることすらなかっただろう。しかしジャッカルのお父上は来日し、母君と出逢い結婚し、そして神奈川に居を据えたからこそジャッカルは今ここにいる」
向こうのベンチで、ジャッカルはドリンクを片手にタオルで汗を拭っている。横から手を伸ばしてボトルを奪ったのは丸井だ。嘆くジャッカルの傍らで、あたかも当然のように喉を潤している姿はすでに見慣れたものである。
「丸井も我儘に見えて、三兄弟の長男だ。幼い弟たちの世話をしている面倒見の良さがあったからこそ、ジャッカルとも上手くやってきたんだろう。小学生のときにハーフということで色々言ってきた生徒を、丸井が拳で黙らせたことがあったとジャッカルが言っていた。丸井ばかりが奔放に振る舞っているように見えるが、あのふたりもあれでいて正しく対等だ」
そして、と柳が指し示す先では、フェンスに背を預けるようにして立っている幸村がいる。その隣にいるのは真田だ。立海の部長副部長として君臨してきた姿は、やはり見慣れたものである。幸村が闘病生活を送っていた間は真田がひとりで立ち続けていたが、それでもふたり揃うことで王者立海は確かにその強さを築き上げてきた。
「弦一郎は警察官であるお爺様に育てられなければ、あそこまで厳格な性格に育たなかったに違いない。堅物すぎるきらいもあるが、その暑苦しいまでの友情と責任感が幸村に発破をかけたのもまた事実だ。幸村とて、努力が少しでも足りなければ、もしくは病状が少しでも重ければ、今この場にいることは不可能だったかもしれない」
「っ・・・」
「そしてそれは俺もおまえも同じだ、赤也」
息を呑んで振り返った先、柳が浮かべていたのは穏やかな微笑みだった。最も多くダブルスを組んでくれた相手である柳は、いつだって赤也を操縦するのが上手かった。柳生が赤也に合わせるダブルスをするのだとしたら、柳は赤也を好きにさせているようで実は好きに動かしているダブルスだった。頼り切ってきた自覚が、赤也にはある。柳という存在の傍にあることは、赤也にとってとても安心できることだったのだ。
「俺も神奈川に引っ越してこなければ、今頃は青学で貞治とダブルスを組んでいたかもしれない」
「そんなの、もしもの話じゃないっすか!」
「そうだ。だが、無数の『もしも』を打ち消して、俺たちは今この場に集っている。おまえの生まれてくるのがあと二年遅かったら、俺たちは出会うことなく終わっていただろう。こうして一緒にテニスをすることなどなかったかもしれない」
分かるか、と告げる柳の声は温かい。仁王と柳生のラリーはまだ続いている。ジャッカルと丸井の明るい笑い声が聞こえてくる。幸村と真田は泰然とコートを見回していて、そして柳は赤也の前にいる。ふっと柳の薄い唇が綻んだ。仕方ないな、おまえは。そういった感じの笑みだった。
「話が長くなったが、何を言いたかったのかと言うと、俺たちは無数の奇跡の上に成り立っているということだ。テニスを始めたから、立海に入学したから、互いに知り合えたから、同じ世代に生まれたから。そういった何億以上の奇跡が重なって、立海大付属中というこの場所で、俺たちは出会うことが出来た。何かひとつでも欠けていたのなら、今この現状は成立しなかっただろう。途方もない確率で俺たちは出逢い、集った。分かるか、赤也。計算するまでもない。これは間違いなく奇跡だ」
ゆっくりと伸びてきた手が、赤也の癖毛に触れる。撫でる。この一瞬ですら奇跡なのだと、柳は語る。ならば俯いた赤也の視界が潤むのも必然なのか。堪え切れなくて歯を食いしばり、鼻を啜った赤也に柳は笑ったらしかった。触れる指先は温かくて、紡がれる言葉は優しかった。
「だからこそ一瞬一瞬を無駄にすることなく、全力で生きろ。それが俺からの餞の言葉だ」
ぽんぽん、と撫でる手が離れていく。見上げた視界で、柳はやっぱりいつも通りに微笑んでいた。

「明日から立海を頼むぞ。切原赤也、新部長」

もう、堪えることなど出来なかった。大粒の涙を零して、声まで挙げて泣き出した赤也にコートの中の仁王と柳生が気づき、向かいのベンチではジャッカルと丸井が腰を上げ、フェンス近くでは幸村と真田が目を丸くして驚いてくる。わらわらと近づいてくる気配は分かったけれども、赤也は泣くだけで精一杯だった。両肩に添えられている柳の手が力強いからこそ、輪をかけて涙が止まらない。
「参謀、おまん何後輩を泣かしとるんじゃ」
「どうしたんですか、切原君。余り泣くと目が腫れてしまいますよ」
「赤也、どうした? ほら、タオル使えよ」
「泣くと不細工になるから止めとけって。特別にガムやるからよ」
「たるんどる! 男がそう簡単に泣くものではない!」
「何があったんだい? ほら赤也、泣いてたら分からないよ」
次々とかけられる声も、顔なんて見れないけれども、すべてが奇跡なのだとしたら。柳の手首をきつく握り返して、赤也は必死に声を絞り出した。馬鹿みたいに嗚咽に紛れてしまったけれども、伝えなくてはならなかった。
「俺っ・・・先輩たちのこと大好きっす! 立海に入学して、良かった・・・!」
一瞬の間の後で、馬鹿だなぁ、と呆れた、それでも優しすぎる声が降ってくる。だけどそれも今日で終わりだ。明日、彼らは卒業する。





高等部で待ってるよ。一年間ちゃんと頑張ってきたら、迎えてあげる。
2011年4月17日