二番コートを蹴落として、戻ってきたU-17合宿。正規と異なる黒いジャージは、略奪者のそれだ。穴の開いてしまった帽子を少しばかり残念に思って手に取り、リョーマは近づいてきた影に顔を上げる。そこにいたのは今日、タイブレークの末に入江と引き分けて三番コート入りを果たした跡部だった。王様然としたふてぶてしい態度は相変わらずだが、その目が浮かべている真剣な色合いに首を傾げる。
「おい、越前リョーマ」
「何、跡部さん」
「おまえに話がある。手塚についてだ」
硬い声音に、ふうん、とリョーマは頷く。そういえば部長の姿見ないけど、どこ行ったの。そう問えば跡部は苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めた。
世界で、世界と、世界が待ってる
「あっそ。別にいいんじゃない?」
時間にしては決して長くはなかったのだけれど、厭きっぽいリョーマからすれば跡部の話は少しばかり悠長だった。かつて青学の部長だった大和と対戦し、「天衣無縫の極み」の境地に至り、プロテニスプレイヤーとなるためドイツへ渡った。つまり手塚はU-17合宿を去った。要はそれだけじゃん、とリョーマは思うのだが、どうやら跡部は違うらしい。端正な眉を顰めて、見透かすように視線を投げてくる。
「それだけか? 仮にも部長だった奴に対して」
「手塚部長が部長だったのは、もう二ヶ月以上前の話だし。俺はアメリカに戻ったから呼び方を直してないだけで、今の青学の部長は海堂先輩だよ。手塚部長はもう引退してる。跡部さんのとこもそうなんじゃないの?」
「・・・ああ。三年はコートに顔を出してるがな。今の部長は日吉だ」
「同じじゃん。引退した部長がどこで何しようが俺には関係ない」
気温は決して高くはないというのに、リョーマは気に入りの冷たい缶ジュースを傾けて喉を潤している。黒いジャージに包まれた小さな体躯が手塚の秘蔵であることを知っている跡部としては、ほんのわずかに機嫌が傾く。以前から生意気なルーキーだとは思っていたが、自身に目をかけてくれた手塚に対してまでこの態度なのかと思ったとき、誤解しないでほしいんだけど、とリョーマが続けた。
「俺はちゃんと手塚部長に感謝してるよ。部長が部長だったから、俺も青学でレギュラーになれたわけだし。部長のいない青学じゃ全国制覇も出来なかっただろうから」
だけど、それとこれとは話が別。自動販売機が並ぶ廊下の片隅で、跡部とリョーマは話をしていた。もはやこの合宿所に手塚の姿はない。ドイツ留学の手続きがどれだけスムーズに運んでいるかなど跡部は知らないが、きっと一週間もかからずに手塚は日本を旅立つだろう。急なことでも先方は受け入れる、それだけの実力と実績が手塚にはある。しかしリョーマははっきりと、睥睨さえ含んで跡部を見上げたのだ。
「俺、アメリカで待ってたんだけど。手塚部長が世界に来るの」
思わず跡部は息を呑んだ。そんな姿から視線を逸らさずに、リョーマは厳しく言い放つ。
「青学は優勝したし、次の部長は海堂先輩に決まったし、俺の籍はまだ青学にあるから『青学の柱になれ』って問題も解決したし、手塚部長が日本にいる理由なんか全部なくなったじゃん。だから留学するって噂を聞いたとき、当然だねって思ったよ。部長が日本で得られるものなんて、もうないんだから」
「・・・・・・」
「だから一足先にアメリカで準備して、来年の春まではジュニア大会で対戦しようと思ってたのに。日本とは違う海外で、流石の部長も慣れないことが多いだろうから、少しくらい手助けしてあげてもいいと思ってたのに。それなのに部長はいつまで経っても来なかった」
ぐいっと缶を傾けてジュースを飲み干し、ゴミ箱へとリョーマは投げ入れる。いつもの帽子がないからか、大きな瞳はまっすぐに跡部を睨んでいる。浮かべられている苛立ちに、逆に跡部の感情は静かに冷静な波へと戻っていった。
「何かあったのかと思ってたらU-17合宿の招待状が届いてさ。ばーさんに聞けば部長も参加するっていうじゃん。何やってんの、あの人って思った俺の気持ち、跡部さん分かる? いくら高校生と競い合うっていったって、所詮はアマチュアだよ。プロの競合とは比べ物にならない」
「越前、おまえ」
「跡部さん、あんたなら分かるでしょ? 日本に来て、日本にいる手塚部長を見て、俺がどんなに失望したか。部長もその程度の人だったのかって、本当に残念に思ったよ」
ジャージのポケットに手を突っ込んで、パフォーマンスのようにリョーマは肩を竦める。瞳が一度閉じられて、そうして浮かべられたのは苦々しい笑みだ。ゆっくりと色を変えて、次いで表情を明るくさせてリョーマは笑う。自分でも分かってやっているのだろうそれは、いつも通りの生意気なルーキーの顔だ。
「だから俺、部長が留学するのには大賛成なわけ。ドイツだと大会で対戦するのは難しいかもしれないけど、俺、これでもアメリカジュニアチャンピオンだし? ヨーロッパ遠征もするから、そのときに試合出来ればそれでいいよ」
ねぇ跡部さん、喋り疲れたからジュース買って。挑発的に小首を傾げられ、跡部は舌打ちをひとつしてからコインケースを取り出した。リョーマがまたしても気に入りのジュースを選ぼうとしたので、その前にホットの緑茶のボタンを押す。転がり出てきたペットボトルにリョーマは嫌そうな顔をしていたが、跡部はわざわざ蓋まで開けてやってから小さな掌に押し付けた。自身にはホットコーヒーを選んで、今度は並んで隣接するベンチに腰掛ける。
ドイツ行きを決意した手塚に自ら「この合宿は任せろ」と宣言した跡部にとって、このルーキーの面倒を見ることは当然の責務として組み込まれていた。もちろんリョーマは庇護を要するような性格ではないと周知されているけれども、それでもやはり後輩に目を配るのは年長者としての役目でもある。特に、跡部は手塚が表情を余り出さない顔の下で、不器用にリョーマを可愛がっていたことを知っている。同じテニスプレイヤーとして、小さな体躯に秘められている強さを体感し、尊敬もしている。だからこそ跡部はこうして、手塚がこの合宿を去った経緯をリョーマに伝えていた。対戦が出来ずに拗ねるかと思っていたが、予想は外れ、リョーマの視界はやはり広いのだと実感する。学生のスポーツは、こう言っては何だがアマチュアだ。だが、リョーマはアメリカでジュニアテニスプレイヤーとして活躍してきた。それは正しくセミプロであり、行く末はプレーで報酬を得るプロなのだと体現している。だからこそリョーマにとってのコートは世界なのだ。日本ではなく。理解すれば気持ちが軽くなり、跡部は軽く笑った。
「手塚もおまえと同じ『天衣無縫の極み』に至ったぜ? あいつはドイツで揉まれて更に強くなるだろうよ」
「いいんじゃない? 部長のテニスって確かに強いけど、面白くはないんだよね。それってプレイヤーとして致命的だと思うし」
「あーん? まぁ、魅せる試合をするのもプロの仕事のひとつではあるな」
「強いだけなら勝っちゃえばそれで終わりじゃん。勝っても負けても『もう一度試合したい』って思わせる相手が、俺は好きなんだよね。手塚部長はそうじゃなかった。青学とか柱とか何かごちゃごちゃ背負ってるし、難しい顔でテニスしてて、確かに強いし倒したいとは思うけど、その後もう一度試合したいかって言われたら正直微妙」
「遊び心がないってことか。ストイックと地味は紙一重だからな。手塚にしてみりゃ後輩に酷い言われようだぜ」
「その点、跡部さんは面白いよね。真田さんは馬鹿みたいにまっすぐなのが楽しい。白石さんは攻略法を学ぶにはいいけど、大会で当たるとつまんなさそう。むしろヒッティングパートナー向け?」
「幸村は?」
「あの人は別格。実は期待してるんだよね。幸村さんのテニスは能力として完成されてるけど、あの人はきっとその先に行く。綺麗な顔してるけど、ハングリー精神は人一倍あるんじゃないの。だから俺、嫌いじゃないよ。幸村さんとテニスするの」
「そうかよ」
五感を奪い、対戦相手にテニスを辞めさせるとまで言われる幸村と再戦を願うのなんて、きっとリョーマくらいのものだろう。大した奴だぜ、と跡部は唇を緩ませた。事実として認識している。中学テニス界の中心にいるのは、間違いなく越前リョーマだ。跡部や手塚、幸村たちが築き上げた礎の上に、嵐を纏って君臨した小さな王子様。名立たるプレイヤーがリョーマと対戦し、そして敗れた。自身もその一人だと分かっているからこそ、跡部も癪だが目を奪われて仕方ない。越前リョーマという選手は、ひとつの指針であり、体現者であると跡部は思う。彼に感化されて、誰しもがまた変化を遂げた。だからこそ手塚も振り返ることなくドイツへと旅立てたのだろう。
羨ましいぜ、と内心で呟き、跡部は手を伸ばしてリョーマの黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてやった。当然のごとく抵抗されたけれども、まだまだ体格差は大きい。結局のところ唇を尖らせて甘受する様に零れたのは柔らかい笑みだ。
「何かあったらいつでも言って来い」
「いらない。自分で対処できるし」
「だろうな。だったら好きにしろ。この合宿を抜けた手塚が羨ましくなるくらい、派手に暴れてやれ」
「言われなくても」
に、と吊り上げられた口端の頼もしさに跡部が頷くと、リョーマは立ち上がる。それでも身長差がそこまで生まれないことに対して、跡部はいっそ呆れるしかない。この小さな身体を守るのが、友である手塚への餞だ。高校生を相手にしても一歩も引かず、突き進んでいくリョーマを背後で、あるいは水面下でサポートする。そう決めた跡部に、リョーマが振り向いた。
「手塚部長はラッキーだね。跡部さんみたいな人がライバルでさ」
「・・・・・・」
「仮にも後輩だった身だし? Thanks, nice guy」
投げられたウィンクが様になっており、年相応のチャーミングなものだったから、跡部の対応が一瞬遅れた。間抜けな表情になったのだろう。くすくすと肩を揺らしてリョーマは笑い、「Nighty night, see you tomorrow」と手を振って去っていく。黒いジャージに包まれた背中は堂々としており、見送って跡部も肩の力を抜いた。ベンチに背を預けて天井を仰ぐ。瞼の裏に思い浮かぶのは、喝采を受けている友の姿だ。すぐに追いついてやる。そう瞳を眇めた瞬間に、去ったはずのリョーマが廊下の角からひょこっと顔を覗かせた。
「そういや、跡部さんもプロになるの?」
「ああ、そのつもりだ。学生の間だけだけどな」
その後は跡部財閥の跡継ぎとして、自社のために従事する。言外にそう告げれば、リョーマは「Ten-four」と頷いた。
「じゃあ引退した後は、俺と部長のスポンサーってことでよろしく。あんたの描く未来は、俺たちが全部見せてあげるよ」
今度こそ軽やかな足取りを残して去っていったリョーマに、跡部は呆気に取られた後で笑い出さずにはいられなかった。静かな廊下に響いたそれは少し不気味だったかもしれないが、気分が高揚している今、気にするわけもない。思う存分笑った後で、ずっと握っていたコーヒーの缶を煽る。
「おもしれぇ。この合宿が終わったら、俺様も世界だ」
立ち上がり、空き缶をゴミ箱へシュートする。こうして勢いのまま駆け上っていけばいい。それは若者だけに許された特権なのだと跡部は知っている。待ってろよ。友に、世界に、すべてに向けて宣戦布告し、跡部は笑った。
当サイトのリョマさんと部長はこんな感じです。世界に出た後は、部長がリョマさんを追いかける形。学生とプロじゃ戦い方も違うんだよ、というのをリョマさんは部長に教えてあげようと思って待ってた。
2011年3月5日