青春とショコラの駆け引き





二月十四日、バレンタインデー。氷帝学園中等部で、否、もしかしたら幼稚舎から大学部まで含めた氷帝学園全体で、最もチョコレートを貰うのは跡部景吾だ。容姿端麗、文武両道、家柄も良くてまさに非の打ちどころのない彼は、派手好きで些か性格に問題がありはしたけれども、それも悪意的なものではないので女子からの人気が非常に高い。同性の男子生徒とて「跡部じゃ仕方ないよな」と認めてしまえるところに、彼の真価は発揮されている。氷帝学園で最ももてるのは跡部景吾。それは彼が外部から中等部に入学して以来二年間、決して破られることのない不文律だった。
さて、それでは二番目に人気が高いのは誰かという話になるが、それは天才と名高い忍足侑士なのだろう。しかしことバレンタインデーにおいては、そうはいかないのが氷帝だった。氷帝学園中等部は七割が幼稚舎からの持ち上がり組で構成されており、加えて昨今のバレンタインデーは本来の「好きな人に告白する」という意味合いだけでなく、「義理チョコを配る」といったイベント的な面もクローズアップされてきている。すなわち、幼稚舎からの持ち上がり組は知り合いが多い分だけ、貰えるチョコレートが多いということである。内訳はやはり義理チョコだったり友チョコだったりが大半を占めているけれども、数だけを見れば二位以下はトントンだというのが学園内の見方だった。もちろん、そんなことを考えなくても中等部男子テニス部正レギュラーは誰もがみな異性からの人気は高く、ましてや氷帝学園は全体的に美少年美少女が集っていると世間では評判なのだけれども。
「何や、えらいことになっとるなぁ」
昼休みに訪れたD組の教室は、後ろの一角がまるで店先のショーウィンドウのようにラッピングされたプレゼントで山盛りになっていた。このクラスにいるテニス部正レギュラーは向日岳人。忍足のダブルスパートナーであり、勝ち気な性格と宙を舞うパフォーマンスで男女ともに広い交友関係を持っている少年である。そんな向日は背が低く愛らしい顔立ちをしているため少女に間違われることも多く、その容姿も手伝ってか「本命」扱いは余りされない。しかし顔が広く、尚且つ氷帝幼稚舎の出身なので貰うチョコレート数は相当らしい。向かいに座っているのは別のクラスの滝萩之介で、何か用事でもあって向日の元を訪れていたのだろう。忍足に気づいたふたりは顔を上げ、それぞれに手を挙げてみせる。
「もうかってまっか?」
「ぼちぼちでんなー、ってか?」
「さすが岳人、盛況やなぁ。去年より数多いんちゃう?」
「ま、正レギュラーの御威光ってやつ? 去年は準レギュだったから、チョコは侑士や跡部に集中してたし」
座れば、と示されたのは隣の椅子だ。持ち主である女子生徒は友人のところに行っているらしく姿は見えない。バレンタインデーのこの日、男子はともかく定位置に着いている女子は余りいない。何故なら女子の三人にひとりが渡すであろう相手の跡部は、順番待ちをしないと彼の元へ辿り着くことさえ出来ない人気っぷりなのだ。今年は整理券を用意している、と当の跡部に語られたのは先週の話で、その横顔がやけに真剣だったからこそ忍足は「もてすぎるのも困りもんなんやな」と呆れながら相槌を打ったものだ。跡部以外にも、例えば忍足本人だって、廊下を歩けば必ず声をかけられる始末。教室の一角は向日に負けず劣らずチョコレートが積み上げられており、男の敵め、なんてクラスメートに何度言われたことか。
「滝はどうなん?」
「おかげさまでいつも通りだよ。準レギュラーに落ちはしたけど、それで逆に『頑張ってください!』ってチョコをくれる子が多かったかな」
「侑士、持って帰るの無理そうなら跡部がトラックで一緒に運んでくれるらしいぜ? 第二音楽室に持って来いってさ」
「第二音楽室って、監督の城やん」
「今日だけは貸してくれるみたいだよ。さすがにこれだけの量じゃあね」
笑う滝もどことなく中性的な容姿をしており、そして向日と同じく持ち上がり組だ。どちらもタイプは違うが話しかけやすい性格をしており、跡部のいなかった幼稚舎を仕切っていたのは、このふたりに宍戸とジローを加えた幼馴染四人組だったという。だからか彼らは今でもテニス部以外の交友関係がとても広い。跡部と忍足をブラウン管越しのアイドルに例えるとするならば、向日や滝たちは同じクラスにいるうるさくて騒がしい、けれど有事のときには頼りになる身近なヒーローなのだろう。その証拠に、今も向日のクラスメイトの女子がこれ幸いとやってきて、滝にチョコレートを渡している。ありがとう、と受け取る様はどう見ても慣れており、よくよく観察してみれば向日の山の一角に同じラッピングのものがあることから、どうやら持ち上がり組ゆえの友チョコらしい。忍足の分はないところが、それをまた肯定している。
「忍足、今年はちゃんとくれた子の名前をメモしてる?」
二年前の、最初に氷帝で迎えたバレンタインデーの失態を揶揄しているのだろう。楽しげに聞いてくる滝に、忍足は力なく肩を竦める。
「ちゃんと聞いとるで。貰ったら返すのが礼儀やとか、ほんまどこの紳士学校やねん、氷帝は」
「何だよ、普通だろ? ジローだってそれくらいするぜ」
「それが信じられへんのや。あれだけの数やで? お返しだけでえらい出費やん」
「器が小さいよ、忍足」
「高いもんじゃなくてよくね? っつーか、こういうのは気持ちだろ」
「貰えるだけで嬉しいって言ってくれる子も多いしね」
「・・・自分ら、相当な紳士やで」
氷帝中等部に入学するまで転校を繰り返してきた忍足は、小学校はそのすべてを場所は違えど公立で過ごしてきた。だからかもしれないが、三年近くが経った今でも、時折氷帝学園という学校と生徒そのものについていけないときがたまにある。金銭面の話ではない。父親が医者をしている家庭で育った身としてそういった面での不便を感じたことはないし、氷帝の立派過ぎる最先端の設備や、何よりあの跡部の傍で三年も過ごして来れば否応なしに慣れるというものである。しかし氷帝の、特に幼稚舎からの持ち上がり組は、その中身が「氷帝学園」だ。忍足が今まで普通だと思っていたことが、この学校だと通じない。ダブルスパートナーの向日でさえ、時として普通の顔で突拍子もない「常識」を披露するのだから、氷帝学園恐るべしである。
ホワイトデーのお返しは当然だ。むしろ義務だ。っていうか、しない奴っているのか? そう不思議そうに首を傾げられた一年生の三月を、忍足は永遠に忘れることがないだろう。え、侑士、お返ししねぇの? それは駄目じゃね? 岳人が眉を顰め、宍戸が「男として激ダサだぜ」と表情を歪め、ジローが「女の子たちかわいそー」とまで言った。イギリスで育ってきた跡部は女性の好意には礼儀を持って返すのが当然という教育を受けているため論外で、忍足はひとり窮地に立たされることになったのである。せやかて俺から貰いたいっちゅーたわけやないし、という反論も何のその、飴ひとつでいいからお返ししろよ、とこんこんと何時間にも亘って説き伏せられた。名前なんか知らんし、と忍足が言えば、どこからともなく向日が交友関係の広さを駆使してリストを作りだし、宍戸とジローが手頃に購入できる美味しい洋菓子店をいくつか教えてくれた。当日は滝に「ちゃんと配ろうね」とにこやかに釘を刺されて逃げられなくさせられ、散々なホワイトデーを過ごしたのが二年前である。
そんな経緯があって、忍足は二年生のバレンタインデーを仮病を装って学校ごと欠席した。そうして引き起こされた惨劇は一年生のとき以上だったので、三年目となった今年はすでに諦めている。愛の告白は誠意をもってお断りし、貰えるチョコレートにはすべてクラスと名前を書いてもらう。そうして一日をやり過ごすことが最も楽な手段なのだと、三年目にしてようやく忍足は学んだのだった。
「向日君、これあげる。今年はオッジにしてみたの」
「あーあそこ美味いよな。いつもサンキュ!」
「滝君もどうぞ。教室にいなかったから後で行こうかと思ったんだけど、会えて良かった」
「ごめん、無駄足させて。ありがとう」
「ふたりとも、私もあげる。今年はねぇ」
さてさてこうしている間にも、持ち上がり組のチョコレートは増えていく。外部入学の忍足は知り合いが多くない分、代わりに「本命チョコ」の率が高い。それ故に渡される際はひとのいない一瞬を縫ってか、あるいは呼び出されるかというのがほとんどだが、「友チョコ」は場所を選ばないのだろう。向日のところに続々と女子生徒がやってきては、気軽にプレゼントを置いていく。時にそれは滝にも渡され、彼らは気まずさを交えることなくほのぼのと楽しそうに会話をして、そして別れる。はぁ、と忍足は感心してしまった。持ち上がり組は単純に考えれば初等部の六年プラス中等部の三年で、計九年間を同じ学び舎で過ごしてきている。幼等部も含めれば実質十二年間、現在の人生の大半を共にしていることになるのだ。生徒は一学年五百名近くいるが、それだけ一緒にいれば確かに交流も深くなるだろう。忍足はここでもまざまざと氷帝学園の凄さを実感していた。そしてまたここにいる生徒たちのほとんどがそれなりの家柄出身のため、社会に出ても超一流として働くのは想像に難しくなく、そこで発揮される人脈を思えばもはや呆れるしかない。エリート養成学校や、と思う忍足はまったくもって間違っていなかった。
「・・・岳人」
昼休みもまもなく終わりを迎えようとしていた頃、ぽん、と滝が向日の腕を叩いた。忍足もつられて顔を上げると、滝の視線は教室のドアに向けられている。振り返ってみれば、立っていたのは女子生徒だった。それだけなら普通の光景だが、彼女が向日のクラスメイトではないことくらい忍足も知っている。跡部ほどではないけれども、かなり良い家のご令嬢だ。美人で成績優秀だけれども、ちょっとばかり高飛車でとっつきにくいというのが男子からの見解である。忍足ともクラスが異なるために話したことはなかったが、男子にとっては高嶺の花でもあるため話題には度々上る。そんな彼女は優雅な足取りで迷いなくこちらに近づいてきた。身長は特別高いわけでもないが、椅子に座っている忍足からすると見上げることになる。ふわりと鼻を掠めたのは控えめな香水だ。ふうん、さすがお嬢様やなぁ、なんて些か失礼なことを忍足は考える。
「向日君、滝君、どうぞ」
「おう、サンキュ」
「ありがとう。忍足の分はないの?」
差し出された紙袋を受け取り、滝が悪戯に忍足に視線を向ける。女子生徒も同じように忍足を見やってきたが、その瞳に特別な色合いはない。少しきつめの整った顔で、さらりと彼女は忍足から視線を外した。
「あげる理由がないわ。それじゃあ」
持ち上がり組の連帯感も、ここまで来るといっそ見事だと言うしかない。冷ややかな物言いに忍足が衝撃を受けている横で、何故か滝は笑っている。がたん、と椅子を鳴らして立ち上がったのは向日であり、彼は教室を出ていこうとする女子生徒を追いかけて話しかけていた。声は聞こえない。
「ねぇ、忍足」
並んで話をしているふたりに身長差はなく、それ故か女の子同士のように見える。女子生徒は相変わらず表情が冷たかったけれども、背を向けている向日は何だかんだ話しかけているようだ。滝に声をかけられて振り向くと、差し出されたのはふたつの小さな紙袋。今の女子生徒が渡していった、向日と滝宛のチョコレートだ。フランスに本店を構えるそのブランドは忍足も知っているし、美味しいと評判でもある。
「持ってごらんよ」
「何かあるんか?」
「持ってみれば分かるよ」
含み笑いを向けられて、訝しく思いながらもふたつの紙袋をそれぞれの手で受け取る。途端に、くいっと左が傾いた。持ち直してみれば左手の紙袋の方が重いことに気づく。これは向日が貰った方だ。ちらりと上から覗いてみれば、チョコレートと思われる箱の下に、また何か別のラッピングされた箱が見える。つまりこれはチョコレート以外のプレゼントなわけで。
思わず忍足はドアを振り返ってしまった。まだ向日と女子生徒は会話を続けている。あの気位の高そうなお嬢様は、もしかして。
「一昨年からだけどね。一緒にいる時間が長いと、外見だけじゃなくて性格なんかにも目が行くようになる。これも持ち上がりの良いところだよね」
「・・・もしかして、意外と本命率も高いんか?」
「さぁ、どうだろう。でも少なくとも本気で告白される回数は多くなってきてるよ。俺も岳人も、ジローも亮もね」
付き合いが長い分、容姿には振り回されなくなるし。滝はあっさりとそう述べるが、確かにそれもそうだろう。女の子たちはいつかアイドルに醒めて、身近な男の子を恋人にする日が必ずやって来る。そうした中で真っ先に目が行くのは、やはり昔から近くにいる存在だ。あの女子生徒はきっといち早く現実に目覚め、向日の良さに気付いたのだろう。例え自分と同じくらいに背が低くても、可愛らしい顔立ちをしていても、やはり向日は少年だ。その内はダブルスパートナーの忍足が敬愛するほどの男気に溢れていて、あの跡部を差し置いて向日に「本命チョコ」を贈る美人は本当に見る目があると感心してしまう。話を終えたのか、向日が手を振って踵を返す。僅かに一瞬覗いた女子生徒は酷く柔らかに頬を染めていて、うわぁ、と忍足は驚くしかなかった。席に戻ってきた岳人を横から突き、滝がからかう。
「やるねー」
「バーカ、ちげーっての」
そう答える向日の頬も僅かに赤い。今はテニスと男友達との遊びで忙しい向日も、いずれ女の子と付き合うようになるのだろう。それはもしかしたらさっきの女子生徒かもしれないし、今彼の背に山のように積まれているチョコレートの送り主の誰かかもしれない。もう中学三年生で、二ヶ月後には高校生になる。何ら不思議なことではないのだ。向日が別に、女の子と付き合ようになったって。けれどもその図を想像してみたら何だか物凄く寂しくなってしまって、忍足は知らず向日の腕を引いていた。何だよ、と振り返る不思議そうな瞳に、馬鹿みたいに必死に縋る。
「がっくん・・・」
「何だよ、侑士」
「あんまり早う、大人にならんといてな・・・?」
「はぁ?」
訳分かんねぇ、と岳人は眉を吊り上げるが、一部始終見ていた滝は堪え切れずに噴き出して笑っている。ええからとにかく、と忍足は力ずくで向日の左手の小指を取って指切りをした。相方がもてるのは誇らしいが、相方が女子に取られてしまうのは恨めしい。自分のことはぽいっと棚上げして、忍足はやっぱり思うのだった。バレンタインデーなんか嫌いや、と。チョコレート爆発しろ、と思うのだった。





幼稚舎を仕切ってた幼馴染カルテット。多分、日吉とか鳳とかのことも知ってたと思われる。
2011年2月18日