全国大会を数日後に控えてようやくだった。一部の者は心から待ち侘びていた。大多数のものは、言葉にはせずとも間に合わなければあわよくば、と考えていた。けれど女神は微笑んだ。決して諦めることなく、執念を燃やして一筋の希望に縋り続けた少年に。
「立海の副部長・・・ほら、幸村精市」
「ああ、知ってる。あいつ」
「全国大会、出てくるらしいぜ」
神の子の降臨は、テニスコートを眩く染める。





I wonder why the sky is blue!





久方振りの外の空気に、幸村は大きく深呼吸を繰り返した。もちろん退院してから外出したことはそれなりにあるけれども、やはり試合会場は違う。ボールのインパクト音、擦れ違う他校の選手、そして何より身を引き締める緊迫感。いいね、と呟いてみて、自分が随分と浮かれていることに気づき、幸村は苦笑する。けれど、それも仕方がないと思うのだ。こうして再び、テニスが出来るようになるなんて思ってもいなかった。いや、もちろんそうなるように必死に努力をしてきたけれど、その一方で「もう駄目かもしれない」と諦めが頭の隅に常に付きまとっていたから。だから嬉しい。肩にかけるジャージの裾を翻して、幸村はゆっくりと試合会場を回っていた。時折、跡部や白石など覚えのある顔もいくつか見かけ、その度に笑みが零れてしまう。
「ここ、いいかな?」
自動販売機の傍に、木陰になっているベンチがあった。座っている少年に断りを入れると、どーぞ、と素っ気無い言葉ながらも脇に寄ってスペースを空けてくれる。ありがとう、と幸村は少し色褪せたベンチに腰掛けた。目線の高さが少しだけ低くなり、ギャラリーによって目の前のコートの試合は見えなくなる。それでも聞こえてくる歓声や審判のコールに、ゲームが盛り上がっていることが十分伝わる。
「ねぇ。あんた、立海のひと?」
隣からの声に、幸村は振り向く。同じようにベンチに座っているのに、見下ろしているといった印象を抱くのは、それだけ隣人が小柄だからだろう。白い帽子の下からは大きな瞳が挑発的に向けられていて、久々の感覚に幸村はふふ、と笑った。
「そうだよ。君は青学? 見たことないし、一年生かな?」
「そう。俺もあんたのこと見たことない。関東の決勝のとき、いなかったよね?」
「ああ、俺はその頃入院していたから。全国が今年初めての試合なんだ」
「ふーん。良かったじゃん、間に合って」
「・・・本当に」
率直過ぎる物言いは、不遜だけれども幸村には快活に聞こえた。入院と口にすると、大抵の相手が表情を曇らせる。けれど、目の前の少年は単純にその言葉を受け止めただけだった。素直というには少し違うが、おそらくストレートなのだろう。同情も悲哀も寄せられない様子に、幸村は更に楽しくなってしまった。
「君のことは真田から聞いてるよ。青学のルーキー、越前リョーマ君」
悪戯に情報を披露してみせれば、大きな目がきょとんと瞬く。まだ幼さを残している表情を幸村が眺めていれば、ついっと細められた。やるじゃん、といった意味合いは、幸村が久しく体験していない挑戦者からのものだ。
「俺は立海の副部長、幸村精市。君とは決勝で当たることになると思う」
「俺も聞いたことある。立海で一番強いのは、本当は部長の真田さんじゃないんだって。あの真田さんより強いなんてどんなマッチョかと思ってたけど、あんた、全然そうは見えないね」
「よく言われる。だけど俺からしてみたら、越前君も真田に勝ったとは思えないよ」
「何それ失礼。試合の様子、DVDとかに撮ってなかったの?」
「もちろん見たよ。見たけど、あれは真田の全力ではなかったから」
今度は訝しげな空気を持って、リョーマの瞳が眇められる。可愛いな、と思う自分が上からの目線で相対していることを幸村は理解している。これは驕りかもしれない。それでも死ぬ気で、病床の間に衰えてしまった筋肉を取り戻そうと躍起になってきた。以前のようなプレーが出来ない自分に愕然とした。覚悟はしていたつもりだったけれど、軽いサーブですらフォルトになってしまった自分に呆然とした。今までずっと積んできたすべての経験が無に帰してしまったのかと思うと絶望した。それでもテニスがしたくて、可能性なんてないと言われてもリハビリを繰り返してきたのだ。すべては自分のため。自分がもう一度、テニスコートに立つため。待っていると言ってくれた彼らと、王者立海の誇りを胸に。
「あのときの真田には、絶対に勝たなくてはいけないというプレッシャーがあった。俺という副部長が不在で、ひとりで立海の伝統を背負わなくてはならなかった。それを考えれば、あそこで立海が負けたのは正解だったのかもしれない。負けたからこそ真田はプレッシャーから解放されて、今度は挑戦者として全国に臨むことが出来ている」
「・・・すごい自信。足元掬われるよ? 俺とかに」
「君こそ甘いね。俺は強いよ」
取り戻した自信を指先に乗せて、幸村はリョーマの頬をそっと撫ぜた。まろみの残る輪郭に、くっと喉を鳴らして笑う。見開かれた瞳がまたしても細められ、「俺だって負けない」と告げられたから、今度こそ声に出して幸村は笑った。リョーマの向こう、集団で近づいてくる姿がある。
「幸村」
「越前」
「「部長」」
滅多に呼ばない肩書きを口にすれば、真田は面食らったように目を丸くしている。くすくすと笑ってベンチから腰を上げれば、同じように立ち上がったリョーマが幸村の脇をすり抜けた。本当に小さいと思いながら振り返ると、約一年振りに見る鮮やかな青と白のジャージの集団がいる。一年生ルーキーを隣に引き寄せ、手塚は幸村に視線を向けてきた。何だか少し会わないうちに老けたなぁ、と感想を抱く自分は呆れるくらい浮かれていると幸村は思う。
「久し振り、手塚」
「ああ。久し振りだな、幸村。もう身体はいいのか?」
「おかげさまで。俺が復活したからには青学の勢い、止めさせてもらうよ」
「俺たちも慢心はしない。全力で受けて立とう」
「それでこそ手塚だ」
笑いかけて、幸村もチームメイトの方へと向かった。気づけば集合時刻を僅かに過ぎており、自分を心配して迎えに来てくれたのかもしれない。真田は相変わらずの硬い表情で腕を組み、立っている。
「幸村、副部長のおまえ時間に遅れるとは何事だ」
「すまない、真田。つい話し込んでしまって。何たって噂のルーキーだからね」
眉間に皺を刻む真田にそう返して、幸村は唇を尖らせている切原の癖のある髪をぽんぽんと軽く撫でた。火花を散らすように真田と手塚の間でしばし無言の押収が続いたが、行くぞ、と先に真田が踵を返した。それに続いて二歩進み、幸村は振り返る。まだそこにいた青学レギュラー陣の中、中央にいるリョーマに向かい、浮かべた笑みは会心のものであると自覚があった。
「越前君、俺は君に勝つよ。今まで俺を支えてきてくれた、待っていてくれた仲間たちのためにも、俺は負けない。確かな一勝を刻み込んで、立海の三連覇を成し遂げる。それこそが副部長である俺の役目だ」
「言うじゃん。でも、俺も負けない。もちろん青学もね」
「いい答えだ。そういう相手を蹴落として、俺たちは勝ってきた。じゃあね、ボウヤ。決勝を楽しみにしてるよ」
ひらりと手を振って、幸村は真田の右隣に並んだ。歩み始めれば背後の気配は緩やかに遠ざかり、その代わりに周囲から向けられる視線の数が増えてくる。復帰したという噂が流れているからか、品定めするような眼差しの多さに幸村は失笑した。それでも共に戦う仲間がいるからこそ、血反吐を吐いてもこの場所へと戻ってきたのだ。
「真田」
「何だ、幸村」
「遅くなって悪い。でも、ようやく戻ってこれた。俺が勝ちを掴むから、おまえはひとりで意固地に頑張らなくていいんだよ」
逞しい背中に手を添えれば、真田は困ったような、どこか泣きそうな表情で見返してきたけれども、結局は何も言うことなく帽子のつばを引き下ろした。そんな肩越し、幸村は視線の合った柳と笑い合う。泣いてんのかよ真田、と後ろからブン太がからかうように声を飛ばせば、「泣いとらん!」と反射的な怒声が響いて、レギュラーみんなで思わず笑った。再びこの場所に立てたことを、幸村は心の底から幸福に思う。諦めなくて良かった。みんながいてくれて良かった。感謝は絶えない。だからこそ立海は負けない。
俺は勝つよ。幸村はそっと呟いた。それは驕りなどではない。絶望を知っている者の、光へ向けた誓いであった。





幸村が部長でこその立海だと思うけれど、この布陣だったら全国制覇出来たんじゃなかろうか。部長の真田が関東で負けを経験していることと、幸村が副部長だからそこまでのプレッシャーがないことより。
2010年9月20日